浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

民主主義を抑制する?

稲葉振一郎立岩真也『所有と国家のゆくえ』(21)

今回は、第4章 国家論の禁じ手を破る 第2節 国家の存在理由 の続きである。

稲葉は、相変わらず(学識を示したいのかどうか知らないが)ルーマンやらケルゼンやらシュミットやらの名前を出して何か話しているが、何を言いたいのかよく分からないので、最後のほうだけ引用しよう。

稲葉 人によって、単純に合理的に設計され運用される機械でもなく、しかしだからといって血も涙もある、自らの意図と欲望によって動き回る、人の集まりでもないものとして国家を描き、戦後の憲法体制を考えようとしたのがルーマンの構想である。社会契約論的にストレートに「個人の尊厳」から出発するのではなく、こういうふうに斜に構えたリベラル国家理論というのもありうるかなと思う。

血も涙もある「国家」という主体が、自らの意図と欲望によって動き回る? どういう意味だろうか? これが「斜に構えたリベラル国家理論」なのだろうか?

稲葉 ルーマンはその書きっぷりが極端だけど、その根底にある感覚は、意外と広く共有されている。実は現在の日本でも、またアメリカでも、「リベラル」と呼ばれる憲法学者たちのうちのかなりの部分が、「民主主義よりも立憲主義が大事」というと言い過ぎかもしれないけれど、「民主主義がきちっと作動するためには、その力をある限界の中に封じ込めておくことが必要であって、その限界を設定するのが立憲主義である」と考えている。人々の意思とか欲望にタガをはめるものとしての法、人々が主役で人々の道具なんだけれど、ただ道具として使える範囲をあらかじめ人に対して限定するものとしての国家というイメージがある。道具なんだけど、しかし自由には使われてやるまいとする意味では道具であり切らない国家のイメージがある。 

 「ルーマンの根底にある感覚」とは何だろうか? リベラルな憲法学者は、「立憲主義とは、民主主義をきちんと作動させるために、その力を封じ込めておく限界を設定するもの」と考えているのだろうか?

立憲主義の定義を見ておこう。

法の支配に類似した意味を持ち,およそ権力保持者の恣意によってではなく,法に従って権力が行使されるべきであるという政治原則。(ブリタニカ国際大百科事典)

広義には政治権力を法(憲法)によって規制しようという政治原則。狭義には近代市民国家におけるような権力分立の原則に立つ憲法に基づいて政治を行うという原則。権力分立が形式的にのみ認められている場合は外見的立憲主義(外見的立憲制)といわれる。(百科事典マイペディア)

政治権力の恣意的支配に対抗し,権力を制限しようとする原理。(世界大百科事典)

政治権力の専制化や政治の恣意的支配を憲法や法律あるいは民主的な政治制度の確立などによって防止・制限・抑制しようとする思想原理。(日本大百科全書

 稲葉の理解する立憲主義は、これらとはかなり異なるようである。ならば、ここから説明してもらわないと素人には分からない。

 

立岩 政治というものを何で規定していくかというときに、デモクラシーというか、意思の集計の機構、そして集計結果をベースに置くのかそうでないのかという議論がある。集計とか合意とか、あるいは多数決でもいいが、僕自身はそこに重きを置かないという立場である。それは立憲主義ということになるのかどうかは分からない。

デモクラシーを意思の集計の機構(多数決で物事を決めること)と考えている人は、果たしてどれだけいるだろうか。私は、デモクラシーがどういうものである(べき)か、未だ充分に考えていないが、少なくとも「意思の集計の機構(多数決で物事を決めること)ではない」とは言えるだろう。

立岩 僕の立場は、ある種の権利の基底主義みたいなもので、人には、大多数の人がどう思おうが思うまいが、かくかくしかじかの権利がある、というところから持っていこうと。そのために必要な限りにおいて、国家という装置は必要であり、場合によっては不要であるとは言える。そういう意味で言うと、契約論もリベラルな規範理論にしても、そこのスタンスがよくわからないところがある。人々の意思をデフォルトに置いて、問わないものとして置いた上で、集計結果としての政治的決定という話でもっていくというラインと、一人一人に何かしらの権利を付与するためにというのとでは帰結が違う、あるいは違い場合があるはずである。そこのところが、はっきりしないなあという感じがしていて、契約論の流れのリベラルな国家論とか政治システム論の中に、僕にとっては第一義的ではないように思われる集計でシステムを捉えてしまうというところに何かしら違う感じはしている、というのが今のお話の後半に対する僕のいまの感じだ。

「権利の基底主義」とは、「権利に基礎をおく考え方」というほどの意味であろうが、立岩が「人には、かくかくしかじかの権利がある」と言うとき、どういう権利を考えているのか分からない(基本的人権?)ので、賛成も反対もできない。したがってまた、「国家という装置は必要であり、場合によっては不要である」も、保留である。

「人々の意思をデフォルトに置いて…」というのは、「各人が、自らの考えを持っているものとして…」という意味だろう。しかし難しい問題になると、「分からない」が多数を占める。「分からない」と答えないまでも、実に「根拠薄弱な考え」(「誰それが言っているから」とか)を持っているものである。それを集計すればそれで良しというものではあるまい。

 

立岩 ルーマンはたぶん面白いんだろうなあと思いつつ、きちんと読んだことはなくて、これからもない気がする。ただ何が面白いかというと、境界を設定することによってどんな効果が生じるかということをかなりうまく記述している人だっていう印象はある。何かの境界が入って、これは個人のもの、これ以外はそうじゃないものって仕分けられる、個人と環境だけじゃなくて、環境にもいくつか種類があって、そのさまざまな社会的事象の中にこういう区切りを三つくらい入れるとこういう効果が生じるということを、かなり上手に、何がどういうメディアに乗せられるかとか、それもある種の境界設定だと思うが、そういうことをかなりうまく書けちゃった人という感じがする。

今のメインの話は、集計っていうところで見ていくのか、あるいはぼくの場合はむしろ権利を基底にみていくタイプだと思うが、その話と立憲主義というものとの間には距離もある。それは何だろうっていうことである。

 ルーマンの話は分からない。権利を基礎に置く考えと立憲主義はどのような関係があるのだろうか。

 

稲葉 例えば、「民主的な合意の結果だったら何でもいい」というふうに、政治倫理において根源的規約主義をとるのはおかしい、と言えば、実際多くの人が合意するだろう。人が全員「それがいい」と思いながらも、「それは正しくないことだ」という場合もありうる、と。むしろ民主主義の正当性というのは、それが普遍的な正義とか正しさそのものなのではなくて、そうした正しさを探り出す接近法としてかなりいい、試行錯誤しながら衆知を集める方法として優れているからであって、「合意=正義」という短絡直結な話ではないということは多くの人が思っている。そういう直観の支えがあるから、現代立憲主義者は立憲民主制の重要性、民主主義の立憲主義による抑制の重要さを言う。

「根源的規約主義」という言葉は難しい。規約主義を「あらゆる原理原則を、人間が便宜的に規約として定めた人為的なものとみて、真理の客観性や絶対性を否定する立場」(大辞林)とするなら、ここで稲葉が言おうとしていることは、「絶対に正しいというものはない。すべては約束事である。したがって、みんなが合意すればそれで良い」という考えはおかしい、ということだろう。「みんなが合意すればそれで良い」は、「みんなが合意すれば何でも良い」となるので、それはおかしい、良くないこともあるだろう、というわけである。だから、「民主主義の正当性というのは、それが普遍的な正義とか正しさそのものなのではなくて、そうした正しさを探り出す接近法としてかなりいい、試行錯誤しながら衆知を集める方法として優れているからであって、「合意=正義」という短絡直結な話ではない」というのはその通りだと思う。

しかし、それがどうして「民主主義の立憲主義による抑制」の話になるのか、よく分からない。民主主義は多数決主義なので、その多数決主義を憲法で抑制しなければならないとでも言うのだろうか(これは誤解だろうが、そのように受け取られかねない発言である)。

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稲葉 問題は、返す刀でそれを「基本的人権」として条文化、実定法化したら、今度はその条文の外側が当然に問題となるだろう、ということである。法によって「基本的人権」と名を与えられたそのものが、立憲主義が本来大事にしていたはずのものそのものではなくなってしまうことがあるだろう、ということである。ルーマンは「境界を設定する」なんて言い方をするが、本来立憲主義が大事にしている基本的人権とは、人間の社会システムの内側にではなく、その外側、環境世界にあると思うが、例えば条文に書いてしまって、まさに実定法の制度の中で制度としての基本的人権になってしまったものは、もはや人権そのものでは当然ないわけである。 

 

ここで稲葉は「基本的人権」という言葉を使っているので、一般に「基本的人権」がどのように理解されているのか見ておこう。

基本的人権とは、人が生れながらにして,単に人間であるということに基づいて享有する普遍的権利をいう。人権思想は自然法思想に発し,まず,(1) 自由権的基本権 (思想,良心,学問,表現の自由など) を確立し,(2) 政治的基本権 (選挙権,請願権など) を保障し,拡充し,次いで (3) 社会経済的基本権 (生存権的勤労権,団結権など) という考え方が生じた。(ブリタニカ国際大百科事典) 

人間が人間らしく生きていくために必要な、基本的な自由と権利の総称。人間が生まれつき天賦不可譲の基本的人権を持つということは、18世紀末の米国諸州憲法やフランス人権宣言(1789年)以来、各国の人権宣言や憲法に明記されてきた。もっとも、プロイセン憲法(1850年)やそれを手本としたといわれる大日本帝国憲法(1889年)では、国家主義的考え方から、国民の権利は法律の下で認められる制限的なもの、とされていた基本的人権の内容は、当初は国家権力の干渉を排除することにより達成される自由権的人権が中心だった。人間の尊厳、法の下の平等、生命身体の安全、自由の保障、思想・信仰・言論・集会・結社の自由、移動の自由、私生活の保護、財産権の保障、公平な公開裁判の保障、罪刑法定主義、などに、参政権を加えたものである。…さらに人権尊重は国際関心事項となり、国連憲章や世界人権宣言により、人権の尊重順守の促進は各国の義務とされ、国際人権規約や地域的・個別的人権条約によって具体化された。特に、人権確保のため、国際的人権委員会や人権裁判所も、設置されるようになった。また開発途上国からは、人民の自決権に始まり、発展の権利、平和的生存権など、第三世代の人権、新国際人権秩序の主張がなされるようになってきている。(宮崎繁樹、知恵蔵)

 稲葉は、「返す刀で、それを基本的人権として条文化、実定法化したら…」と述べているが、この「それを」とは何だろうか。「民主主義を抑制する考え(方策)」のことだろうか?? 話の流れからはこのように受け取れるのだが、そうではなく「民主主義という考え(方策)」のことだろうか。稲葉がここでいう「基本的人権」は、上に引用した一般的理解の基本的人権のどれにあたるのだろうか。

稲葉はまた「今度はその条文の外側が当然に問題となるだろう」と言う。条文の外側って何だろう?? 

「法によって基本的人権と名を与えられたそのものが、立憲主義が本来大事にしていたはずのものそのものではなくなってしまうことがある」とは、どういうことを想定しているのだろうか。

「本来立憲主義が大事にしている基本的人権とは、人間の社会システムの内側にではなく、その外側、環境世界にある」とは、全く意味不明である。

「実定法の制度の中で制度としての基本的人権になってしまったものは、もはや人権そのものでは当然ない」とは、何を言わんとしているのだろうか。「人権そのもの」って何??

 

稲葉 民主主義が目指そうとしているものと、民主主義そのものの実態が違うのと同様に、法的な制度としての権利と、法が大事にしようとしている権利とはまた当然違う。民主主義を限界づけるのは立憲主義なんだけれど、じゃあ立憲主義を限界づけるのは何なのという問題は必ず出てくる。「それが民主主義だ」ということも時にはあるんだろうけれど、それだけで自己完結するほど話はうまくない。その基本的人権の内容は具体的に誰が決めるのかっていうのは、民主的な討議と合意で決めていくしかないじゃん、というふうにかなりの部分でなる。だけど、立憲主義や民主主義を根拠づけるという循環で話は全部終わりというのはおかしくて、やっぱりそうすると外側が見失われる。

「民主主義が目指そうとしているものと、民主主義そのものの実態が違う」と言うが、これは全く分からない。「民主主義そのものの実態」って何??

「法が大事にしようとしている権利」とは何だろうか。主語は「法」なのか?

「法的な制度としての権利」と「当然違う」と言われても、稲葉だけが「当然」と思っているのではないか。

「民主主義を限界づけるのは立憲主義である」…?? さっきは、民主主義を抑制すると言っていた。

立憲主義限界づける」…意味不明。何を限界づけようというのだろうか。

「外側が見失われる」…??

ここまで我慢して書いてきたが、一言一句??である。

 

立岩 法は実定法としてあったときに法たりうるということは一面ではある。ただ僕が権利と言う時の権利は、条文に書き込まれた権利ということでは必ずしもない。それを何らかの形で法システムが保障する、規定する、あるいは境界を作るというときには、法的な権利になる。そういう場合に確かに、実際の政治的決定システムというのは、いわゆる民主的システム以外のものって考えつけなくて、少なくとも相対的にはほかよりはましだろうというくらいのことで言えば、その法に書き込むときの手続きにも必ずそうしたものも入ってくる。それを何て言ったらいいんだろう、相対的にそれしかないっていうか、選ばれるしかないようなものであって、現実そうして法が作られていることは現実として認めるし、ほかに何かいいものが思いつかないという意味で言えば、それは認めるしかない。だけど…そうやって決まったものが即オッケイだっていうスタンスには立たない。…さっき最後におっしゃった外に残す部分というのは、もう少し説明していただけると。どういうふうにそのはみ出すものが出てくるのか。

「権利」という言葉をどういうふうに使うか。服部高宏は次のように述べていた。

権利とは、法によって一定の資格者に対して認められる、一定の利益を主張しそれを享受できる力を指す。言い換えれば、人が自己の意思に基づきある物事を行なったり行なわなかったりすることができる、法によって認められた資格・能力が権利と呼ばれるものである。(法システムの構造と機能(2) 「権利」とはなにか? 「表現の自由」に関する国連調査について 参照)

本間義信は次のように述べる。

権利とは…一般に、法あるいは法規範との関連において、「一定の利益あるいはその利益を守ろうとする意思が法によって承認され、その実現について国家機関、とくに裁判所による保障を与えられているもの」と説明される。…(但し)権利が制度的なものであるにしても、国民の権利意識の形成、権利主張を通して、新たな権利が形成されていくという側面を見落とすことはできない。(日本大百科全書

立岩は、稲葉の話を受けて「さっき最後におっしゃった外に残す部分というのは、もう少し説明していただけると。どういうふうにそのはみ出すものが出てくるのか」と問うている。そうか、立岩も服部の話が理解できなかったようだ。

 

稲葉 ルーマンの考え方は、法律を例にとるならば、現実問題としてすべて書き込めるはずはないというだけではなく、あえてすべて書き込もうとはしない自由があるという。それはルーマンならずとも、法律をやる人ならばだいたい考えているでしょう。例えば権利というのも、法律が目指している権利というよりも、法律が目指している法そのものですか、さらに言えば、その外にはみ出てしまうような、いわば道徳的な意味での権利というのも、こういう語り方をするとすごく神秘的になってしまうんでしょうけれども、それは何なのかというのはよくわからないところがある。ただある種の自由度というものを絶えず残しておかないシステムはまずいというのはよく言われるんですけれども、難しいですね……。

立岩の問いに対する答えがこれなのか!? 「その外にはみ出てしまうような、いわば道徳的な意味での権利というのも~それは何なのかというのはよくわからないところがある」。稲葉は自分でもよくわからずに話していたのだろうか。

稲葉は「道徳的な意味での権利」という言い方をする。法と道徳と権利の概念整理ができているのだろうか。

 

立岩 あらゆることを明文化されたルールに書き込むことはできないという話があり、もう一つ、法は杓子定規でしかないからその外の部分を残した方がいいという話があった。そうだと思うんだけれども、その同じ事態は、言葉としてあるいは条文として書かれていない権利をどこかに想定しうるというか、あるいは期待しうるというか、願うことができるということと、込みになっているというのかな。だからこそ全部書くことはできないし、全部書けなくたって仕方がない。しかし、では仕方がないから決まりにするのを諦めるのかといったときに、場合によってはそうではない、そうすべきでない、決まりを作ることを追求していかなければならないと、そういう具合になっているような気がする。

私は、無闇矢鱈に「権利」という言葉を使わないほうがいいと思っている。「条文として書かれているもの」すなわち「法的に、その実現(その行為の実行)が保障されているもの」のみを「権利」と称し、「法的に、その実現(その行為の実行)が保障されることが望ましいと考えるもの」は「権利」と呼ばないほうが良い(議論が混乱する)。立岩は「条文として書かれていない権利」という言い方をしているがこれには賛成できない。

ある人(人々)にとって、「法的に、その実現(その行為の実行)が保障されることが望ましいと考えるもの」があれば、議論によって、条文化することを目指せばよい。現行条文に不適当なものがあると考えるならば、議論によって改正すれば良い。

今回の、やれルーマンだ、民主主義だ、立憲主義だ、基本的人権だ、などといった話に得るものは何もなかった。