気の向くままに

井蛙は以って海を語るべからず、夏虫は以て冰を語るべからず、曲士は以て道を語るべからず

自由主義、共同体主義、民主主義

平野・亀本・服部『法哲学』(36) 

第4章 法と正義の基本問題 第5節 共同体と関係性 の続きである。

前回は、「自由主義共同体主義の主張のまとめ」のその1.「秩序原理」についてみた。今回は、2.人格概念~4.思想基盤についてみてみよう。

 

自由主義共同体主義 (2)

2.人格概念

個々人の人格の捉え方について、自由主義理論は負荷のないものと捉え(負荷なき自我)、共同体論は特定の歴史的・文化的な刻印をおび、「共同体の物語」の中にはめ込まれているがために倫理的な固有性をもつ、「位置づけられた」存在として捉える(位置ある自我)。

「負荷なき自我」と「位置ある自我」については、以前説明があった。(無知のヴェール 負荷なき自我 参照)

負荷なき自我とは、「いかなる制約からも自由な、純粋な選択主体、原子論的自我」である。位置ある自我とは、「家族・地域共同体・国・民族・宗教など、特定の属性を持つ自我」である。

しかし考えてみると、これは見かけほど対立する考えではないかもしれない。即ち、「位置ある自我」は、事実主張として認める。しかし、家族・地域共同体・国・民族・宗教などの共同体(権力)からの恣意的な支配・強制・統制・規制から自由でなければならない、という価値主張として「負荷なき自我」を捉える。そしてまた「位置ある自我」を「ある共同体の価値」を積極的に主張するものとして捉える。とすれば、「負荷なき自我」は「消極的自由」(~からの自由)、「位置ある自我」は「積極的自由」(~への自由)を主張するものとして捉え直すことができる。したがって、「~」に何を持ってくるかによるが、両者とも認めることが出来る場合がかなりあるのではなかろうか。

 

3.規範的な判断の根拠

規範的な判断の根拠としては、自由主義理論は、個々人の自由意志・選択意志によるが、共同体論は、共同体関係の中で歴史的に形成され受け継がれてきている実質的な善、すなわち倫理的な共有価値を重視する。その結果、個々の規範についても、自由主義理論は、個々人のさまざまな善の追求の間で中立的なものと考える。共同体論は、人々のよりよい生き方、よりよい社会のあり方を推進できるもの、つまり共同善を考慮し、目的論的考慮に裏打ちされた実質的に妥当なものであるべきだとする。 

 何を示せば「規範的な判断の根拠」と言えるのか。伊勢田哲治は、実践的三段論法は妥当な価値的推論だと言っているので(価値観の壁を乗り越える その先は? 参照)

、これに拠って考えてみよう。実践的三段論法とは、次のような推論形式である。

大前提)安全で平和な生活を送るのは望ましい。(小前提北朝鮮の弾道ミサイル発射は、安全で平和な生活に対する脅威である。(結論)このような脅威の事前防止のため、北朝鮮に対し、先制攻撃をかけるべきである*1

これに従えば、規範的判断(~すべきである)は「結論」であり、その根拠は「大前提」(価値前提)と「小前提」(事実認定)である。即ち、「規範的な判断の根拠」を示すとは、価値前提を明確にし、事実を的確に認定することであると考えられる。であれば、具体的な事柄を特定せず、規範的な判断の根拠を示すことなどありえない。それをあえて「個人の自由意志」や「共同善」が、根拠だと言ったところで、それが何を意味しているのか分からないので、何ら説得力を持たない。

「個々の規範について、自由主義理論は、個々人のさまざまな善の追求の間で中立的なものと考える」と言うのは、意味不明である。「中立的」ということは、各人の「善の構想」(何が望ましいと考えるか)を尊重する、特定の「善の構想」を強制されることはない、ということだとすれば、「共同体の規範」(「~しなければならない」と定めるルール)を定めることはできないことになるだろう。

 

4.思想基盤

こうした考え方の相違が表れるのは、自由主義理論が個人主義主意主義を、共同体論が共和主義、歴史主義をそれぞれ重要な思想的拠り所としていることによると考えてよいであろう。

これは分からない。個人主義主意主義、共和主義、歴史主義と言葉を並べたところで、その意味を十分に理解していない者には分からない。

 

自由な奴隷

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共同体論への反論

注意を要するのは、こうした共同体論の考え方にも、「共同善」の捉え方によって2つの相異なる傾向があることである。1つは、共同善を特定の共同体の歴史と伝統のうちに埋め込まれた所与のものとして捉え、その維持と発展を重視する保守的な歴史主義的傾向であり[A]、もう1つは、そうではなく、共同善は相対的なものであり、共同して見出していける、あるいは創り上げていけるものだと捉え、公共の事柄への共同参加と民主的自己統治に共同性の絆を求め、関係性の中で公民としての徳が陶冶されることを重視する参加民主主義的な公民的共和主義の傾向である[B]。前者は一般に基礎づけ主義、後者は非基礎づけ主義として区別されている。

このような共同体論への反論は、当然予想される。

第1に、道徳的固有性を持ち、結びつきが強い共同体にありがちな偏見と不寛容の問題がある。共同体の歴史あるいは伝統に内在している価値が優越的なものとされると、それを標準として、他のそれとは異なる価値を否定したり排除することにつながりやすい。少なくとも他の価値に対する寛容はなくなる。なぜなら共同体の基礎に関わるからである。また共同体では、共同体の紐帯や共同体内の連帯それ自体を維持するために、共同体の価値を用いた共同への強制が行われやすい。共同体の一体性と安定を保つために、対外的ないし対内的な規制が働くのである。 

 「私」(個人)は、ある物事に関して、「ある考え・意見」を持っている。私の考えに反対する者を、快く思わない。反対の考え・意見は、否定し排除しなければならない。私の考えに賛成する者は多数いる。それは「共同体の歴史と伝統のうちに埋め込まれている」。そのような「共同善」(私たちが共通に「善い」と考えるものごと)は維持されなければならない。これに反対する者は、私たちの社会に「悪いもの」、「愚劣なもの」を持ち込もうとする者であり、秩序を乱す者であり、否定し排除しなければならない。これは「偏見」でも「不寛容」でもない。これが共同体論者[A]の考え方だろう。こういうふうに理解して、上記の反論を考えてみよう。他の共同体に対する偏見と不寛容は、「国家」や「民族」という共同体を考えれば、是非は別として、事実として了解できるものである。しかし、共同体論者[A]は、他の共同体ではなく、共同体内の問題として、個人主義(自由放任)を問題にしているのであって、他の共同体との関係を論点としていない。

また批判者は「共同体の価値を用いた共同への強制が行われやすい」というが、これを「強制」と呼ぶか、「合意事項(ルール)の順守」と呼ぶか、議論の分かれるところだろう。具体的な事例を考えずに、一般論で「決めつける」ような話ではない。

 

この点に関連して、共同体論は全体主義への危険を孕むとも言われる。特定の歴史・文化・伝統に培われた価値を標榜し、国民にそれを強制することによって有機体的・実体的な国家のあり方を進めれば、個々人は全体の部分とみられ、国策遂行の道具にされかねない。共同体と共同体的関係を重視する共同体論には、そうした全体主義への危険な誘惑があるという。

国旗掲揚・国家斉唱を指導し、富国強兵(国際競争力の強化、防衛力の強化という)政策を推進することは、共同体論者の主張であり、全体主義への危険を孕むものであるのだろうか。こう批判する者は、恐らく一部の民主主義勢力を取り込み、国家権力の規制を嫌い、自由(個人主義)を称揚するのであろう。

共同体論者の主張を想像するに(私はまともに共同体論者の話を聞いたことがないので)、次のようなことではないかと思う。即ち、現在は、国家間の「共同善」(諸国家が共通に「善い」と考えるものごと)は僅かであり、ルール順守を強制することはほとんどできない。しかし、だからこそ「共同善」(諸国家が共通に「善い」と考えるものごと)に合意し、その実現のための諸方策を推進すべきなのである。これを「全体主義」と呼ぶのは、「天使」を「悪魔」と呼ぶようなものである。

 

第2に、共同体が共有する価値を相対的なものと捉える非基礎づけ主義の場合には、倫理的な多元主義になりかねないという問題がある。つまり、共同体の価値について拘束的な権威を認めないということになると、共同体が維持すべき実質的な価値が何であるのかについて意見の対立が出てくるのは必至であり、対立する場合に誰がどのようにして共同体の価値を決めるのかが問題となる。規範的な判断に関わる考慮が実質的に倫理的なものになればなるほど、意見が多元的に対立することになるであろう。参加民主主義的な議論だけでは秩序付けの方法としては不十分である、とされる。

共同体論者[B]の主張を、もう一度読み直してみよう。

共同善は相対的なものであり、共同して見出していける、あるいは創り上げていけるものだと捉え、公共の事柄への共同参加と民主的自己統治に共同性の絆を求め、関係性の中で公民としての徳が陶冶されることを重視する。 

 批判者は「相対性」を問題とし、「倫理的な多元主義」だとする。これは「誤読」だろう。「相対性」に大した意味はなく、せいぜい「いろんな考え方があり」という当たり前のことを言っているにすぎず、論点は「共同善を見出していく、創り上げていく」というところにある。「多元主義」を認めるのではない。意見の違いがあることを認めた上で、「私たちが共に生きていく上で、こういうふうにしたらよい」ということを、話し合って(議論して)、決めていこうというのである。(各人に自由気ままな行動を認めていたら、社会は成り立たない)。

 

第3に、共同体の復権と共同体的な関係及び価値の再生を求めることは、今日の時代状況にそぐわないと批判される。現代の国民国家古代ギリシアのような都市国家ではない。規模が大きいばかりでなく、内部に複雑で多様かつ多元的な要素を抱えている。それは、人類史の展開の中で、平等な自由という基本的人権が国家の基本制度として取り入れられてきたからである。比較的同質的で安定したまとまりとしての共同体の意義を説くことは、今日の状況では非現実的であり、せいぜい共同体が生き生きとした生命力を持ち得た過去の時代へのノスタルジアでしかありえない、と言われるのである。

この批判者は、共同体論者のいう「共同体」を「村落共同体」(ポリス)とみなし、現代はそんな「ノスタルジックな制度(価値)」は時代遅れだと言っているようである。共同体論者の主張をきちんと理解しているのだろうか。

「比較的同質的で安定したまとまりとしての共同体」と言えば、それは今日「国家」のことだろう。それを「今日の状況では非現実的」というのだろうか。それとも「国家」は「共同体」ではないのだろうか。批判者は、共同体論者を批判して、ではどのような「社会」のあり方が望ましいと考えているのだろうか。何らの規制なしの自由放任の世界?

 

以上、「共同体論への反論」に対する批判的なコメントを書いてきたが、私は「共同体論」の主張がどういうものかよく知らないので、「共同体論」に与しているわけではない。

共同体論者が、せいぜい「国」レベルの共同体しか考えていないとすれば、ましてや「村落共同体」を強調する(「日本の「地域」や「家族」の古き良き伝統を見直せ(守れ)」というような)ようでは、アナクロニズム(時代錯誤)と言われてもしかたあるまい。

先ほど、「共同善」を、「私たちが共通に「善い」と考えるものごと」としたが、これを「共同体の成員によって達成すべく合意された普遍的価値ないしは集合的目標」(ブリタニカ国際大百科事典)としてみよう。このような定義に対しては、どういうものが「普遍的価値ないしは集合的目標」なのか。共同体の成員によって達成すべく合意されなければ、「普遍的価値ないしは集合的目標」ではないのか。共同体の成員によって達成すべく合意されれば、どんなものでも「普遍的価値ないしは集合的目標」なのか。「共同体」とはいかなる組織(集団)をいうのか。共同体の「成員」とは、子どもを含むのか。合意は全員一致か多数決か。といった疑問が生じる。…この疑問が生じるということは(またこの疑問に答えられなければ)民主主義がよく分かっていないということである。

*1:この結論はおかしいが、おそらく価値前提は合意できるだろう。