浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

なぜ「生命を尊び、豊かで安心して暮らすことのできる社会」が実現できないのか?

経産省 次官・若手プロジェクト 「不安な個人、立ちすくむ国家」(4)

まず、次の文章を読んでみて下さい。

父が、実家のリビングで母と私にこう言った。「あと1年持つかな……。たぶん、死んじゃっているよ。とにかく歩くのが容易じゃない。このごろ、トイレに行くのもおっくうになって……」

(私は)この予期せぬ言葉に絶句するとともに、改めて高齢者が内に抱えている衰えへの不安とその先にある絶望感を感じ取った。これから1年以内にやっておきたいことを尋ねたが、「ない」と父は答えた。…病気になっても、老いても、役割を持ったり小さな目標を持ったりすることで少しでも前向きになってくれればと考え、私が通って病気の見極めや制度の利用をアドバイスし、介護を手伝ってきたが、一つの節目なのかもしれない。…(介護用パンツや介護用オムツについて)、父は「そこまでして生きたくない。歩けなければつまらない」と言う。…体が自由にならなくなるもどかしさから、今は、あきらめに近い気持ちになっているのかもしれない。

内閣府が14年度に行った「高齢者の日常生活に関する意識調査」によると、「健康や病気に対する不安」(複数回答)で、一番多かったのが「体力の衰え」の62・2%で、「認知症」の55・0%や「がん」の45・5%よりも多かった。同じ調査の「どの程度生きがいを感じているか」という問いに対する回答では、「あまり感じていない」と「まったく感じていない」を合計した「感じていない」という人が26・9%で4人に1人いた。5年前の調査が20・1%だったので大幅に伸びた。また、85歳以上だけだと「感じていない」人の合計は38・1%と高く、3人に1人になる。高齢者向け住宅や施設で暮らす高齢者は、「感じていない」という人が4割を超える。

実は、父はもう一つドキッとすることを言った。「できるだけ迷惑をかけたくない。家族が介護貧乏になっちゃいけない」。この考えに母も同調した。公的保険制度があっても、自己負担や保険外負担がかさむうえ、在宅での家族介護の負担を気にしてのことだ。こうした両親の気配りに、ちょっと寂しさを感じた。生きがいを見失った高齢者に、どう手を差し出せばいいのか。今度は私が問われている。(2017/9/11、岩崎賢一、朝日新聞

http://digital.asahi.com/articles/ASK935Q0YK93UWPJ001.html?rm=569

体力の衰え、考えることにも疲れる、生きがいを感じられない。…「そこまでして生きたくない」、「家族(若者世代)を介護貧乏にしたくない」、それはほとんどの老人たちの思いであろう。そして子どもは、「親(老人世代)に、どう手を差し出せばいいのか。今度は私が問われている」、それはほとんどの子どもたちの思いであろう。

 

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http://www.fraserscentrepoint.com.sg/three-generations-one-home-tips-for-multigenerational-homes/

 

経産省 次官・若手プロジェクトチームの「不安な個人、立ちすくむ国家」のP18は、「40代前半有業者の平日」と「60代前半無業者の平日」の時間の使い方をグラフにして並べ、「定年退職を境に、日がなテレビを見て過ごしている」と、大きな字で書いている。P19では、高齢者が「生きがい」を感じているかどうかの意識調査の結果をグラフにして掲げ、「定年後の生き甲斐はどこにあるのか? 家族や仕事のある高齢者は十分に生き甲斐を感じているが、1人暮らしや仕事なしでは生き甲斐を感じにくい」と書いている。

私は、プロジェクトチームの資料にケチをつけようとは思わない。でも何年(何十年?)も前から分かっていることを、いまさらのように書きつらね、若者世代にカネをまわせと主張しているような印象を受ける。

岩崎が記事で書いているような、「家族が介護貧乏になっちゃいけない」という親の思いにどう応えればよいのか。「生きがいを見失った高齢者に、どう手を差し出せばいいのか。今度は私が問われている」という「優しさ」が欠如しているような印象を受ける。*1

 

高齢社会対策基本法(平成7年11月15日法律第129号)の前文は、次のように述べている。

我が国は、国民のたゆまぬ努力により、かつてない経済的繁栄を築き上げるとともに、人類の願望である長寿を享受できる社会を実現しつつある。今後、長寿をすべての国民が喜びの中で迎え、高齢者が安心して暮らすことのできる社会の形成が望まれる。そのような社会は、すべての国民が安心して暮らすことができる社会でもある。しかしながら、我が国の人口構造の高齢化は極めて急速に進んでおり、遠からず世界に例を見ない水準の高齢社会が到来するものと見込まれているが、高齢化の進展の速度に比べて国民の意識や社会のシステムの対応は遅れている。早急に対応すべき課題は多岐にわたるが、残されている時間は極めて少ない。このような事態に対処して、国民一人一人が生涯にわたって真に幸福を享受できる高齢社会を築き上げていくためには、雇用、年金、医療、福祉、教育、社会参加、生活環境等に係る社会のシステムが高齢社会にふさわしいものとなるよう、不断に見直し、適切なものとしていく必要があり、そのためには、国及び地方公共団体はもとより、企業、地域社会、家庭及び個人が相互に協力しながらそれぞれの役割を積極的に果たしていくことが必要である。ここに、高齢社会対策の基本理念を明らかにしてその方向を示し、国を始め社会全体として高齢社会対策を総合的に推進していくため、この法律を制定する。

平成7年(約20年前)に制定されたこの法律に明記されている「雇用、年金、医療、福祉、教育、社会参加、生活環境等に係る社会のシステムが高齢社会にふさわしいものとなるよう、不断に見直し、適切なものとしていく必要があり…」とあるが、不断に見直し、適切なものとされてこなかったということだろうか。もしそうなら、それは何故なのか?

 

少子化社会対策基本法(平成15年7月30日法律第133号)の前文は、次のように述べている。

我が国における急速な少子化の進展は、平均寿命の伸長による高齢者の増加とあいまって、我が国の人口構造にひずみを生じさせ、二十一世紀の国民生活に、深刻かつ多大な影響をもたらす。我らは、紛れもなく、有史以来の未曾有の事態に直面している。しかしながら、我らはともすれば高齢社会に対する対応にのみ目を奪われ、少子化という、社会の根幹を揺るがしかねない事態に対する国民の意識や社会の対応は、著しく遅れている。少子化は、社会における様々なシステムや人々の価値観と深くかかわっており、この事態を克服するためには、長期的な展望に立った不断の努力の積重ねが不可欠で、極めて長い時間を要する。急速な少子化という現実を前にして、我らに残された時間は、極めて少ない。もとより、結婚や出産は個人の決定に基づくものではあるが、こうした事態に直面して、家庭や子育てに夢を持ち、かつ、次代の社会を担う子どもを安心して生み、育てることができる環境を整備し、子どもがひとしく心身ともに健やかに育ち、子どもを生み、育てる者が真に誇りと喜びを感じることのできる社会を実現し、少子化の進展に歯止めをかけることが、今、我らに、強く求められている。生命を尊び、豊かで安心して暮らすことのできる社会の実現に向け、新たな一歩を踏み出すことは、我らに課せられている喫緊の課題である。ここに、少子化社会において講ぜられる施策の基本理念を明らかにし、少子化に的確に対処するための施策を総合的に推進するため、この法律を制定する。

平成15年(14年前)に制定されたこの法律に明記されている「家庭や子育てに夢を持ち、かつ、次代の社会を担う子どもを安心して生み、育てることができる環境…」とあるが、このような環境が整備されてこなかったということだろうか。もしそうなら、それは何故なのか?

*1:

Cool Head,but Warm Heart.(アルフレッド・マーシャル

経済学者ケインズの師であるマーシャルは、ロンドンの貧民街にケンブリッジの学生たちを連れて行き、こう言った。「経済学を学ぶには、理論的に物事を解明する冷静な頭脳を必要とする一方、階級社会の底辺に位置する人々の生活を何とかしたいという温かい心が必要だ」。学問を究めるにしても、仕事を極めるにしても、冷静な頭脳は欠かせない。しかしそれ以上に必要なものが、人間性である。特に人々を牽引するような立場の人間には、より一層の常識、正義感、道徳、そして暖かい心が備わっていなければならない。(http://www.3egroup.jp/article/13233346.html