浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

生物としての人間

長谷川寿一他『はじめて出会う心理学(改訂版)』(1)

第1章は、心理学とは-歴史と方法 なので省略し、第2章 心の進化-動物としての人間 から見ていくことにします。(なお、以下の引用は、「です、ます調」から「である調」に変更します。)

動物にも心はあるか

人間と動物との間に進化的な連続性があるならば、動物にも心の働きがあるのか、意識といえるような何かが存在するのか。…この問題は心や意識をどのように定義するのかにかかっている。まず、出来るだけ広範に捉えて、心の働きを感覚や知覚など環境を認知し、外界の情報を処理する内的な過程であると考えてみる。するとすぐに、すべての動物にそのようなプロセスやシステムが備わっていることがわかる。原生動物でも、植物やロボットでさえも、光や温度のような情報に応答し行動を適応的に調節する。この定義では人間の心を論じるには、やはり広すぎるようである。

心の働きを「感覚や知覚など環境を認知し、外界の情報を処理する内的な過程」とするのは、(一応)適切な仮定であると思われる。原生動物や植物に心(意識)があっても、いっこうに構わないだろう。ロボットはちょっと微妙だが、この定義における心はあると言っても差し支えない。この定義で何か問題なのであれば、それが何であるのかを明らかにして、定義を見直せばよいだろう。「広すぎる」のかどうかは、分からない。

もう少し絞り込んで「痛み」となるとどうか。…多くの動物は、生存を脅かされるような強い刺激にさらされると、悲鳴をあげ身を引いて人間と同じような防御反応を示す。その時に生じる内的な過程を「痛み」であると推測することは、痛そうな他人の表情を見て「痛み」を共感するのと基本的には同じ手続きだろう。

心の定義を絞り込んで「痛み」とは何?…しかしそんな揚げ足をとらないで、「痛みについて考えてみると、動物も人間も同じである」ということを言おうとしているのだと受けとめておこう。(これで心の定義の話はおしまい?)

 

Dancing Monkeys

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人間のユニークさはどこにあるのか

抽象的な思考能力(あるいは理性)は、いかにも人間固有の心の働きであり、動物には欠けているもののように思える。しかし、近年「比較認知科学」と呼ばれるようになった分野の研究によって、動物たちの高次の認知能力が次々と明らかにされつつある。 

 ここで長谷川は、ベルベット・モンキーの音声による個体認識やチンパンジーの認知能力を紹介し、「これまで人間だけの専有物だと思われていた認知能力の多くは動物においてもその萌芽が認められるようになった」と述べている。

その一方で、動物との比較を通じて生物としての人間のユニークさも浮かび上がってくるようになった。色の知覚や立体視などは確かに霊長類共通の認知機能だが、人間に独自の心の働きにはどのようなものがあるのか。

長谷川は、ここで代表的なものとして、言語、文化、相互協力をとりあげている。

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◆言語

人間が「言語をもつ動物」であるという言い回しは、使い古された表現のように思えるが、言語が人間という種に生得的に組み込まれた能力であるという主張は比較的新しい考え方である。…チョムスキーは文化を超えた文法構造の普遍性や教育や経験に依存しない言語発達の斉一性を明らかにし、人間には言語獲得装置が組み込まれていると論じた。コウモリにとって超音波を用いた飛行システムがそうであるように、人間の言語は、ヒトという種に固有の適応の産物である考えることもできるだろう。…(チンパンジーは)訓練を受ければある程度まで言語を習得することができるが、人間の子どものように自動的に言語を習得することはない。特に、単語を自由に組み合わせ、文法に即して無限の文を作り出す能力は、どんなに訓練を積んでも他の動物にはできないことである。また母音や子音を自由に操る有節音声言語は人間に固有の能力で、音声を発声する解剖学的構造については人間と類人猿の間に大きな隔たりが見られる

「言語が人間という種に生得的に組み込まれた能力である」という言い方には違和感がある、「ヒトは、他の動物と比べて、多様な音を発することのできる器官が備わっている」というのなら分かる。「言語が…生得的に組み込まれている」というのでは、「言語」とは何かという問いにまず答えなければならないだろう。

私たちは、話し言葉という特殊能力を身につけることによって、他者と複雑なコミュニケーションを行えるようになっただけでなく、声を出さずに言語を操り、自分自身の内部でも高次な概念操作を行い、自己を客観的に見ることもできるようになった。コミュニケーションのツールとして用いられる言語の側面を外言、思考のツールとして用いられる言語の側面を内言と呼ぶ。

最初に、心の働きを「外界の情報を処理する内的な過程」と考えるという話があったが、「入力-処理-出力」の出力を入力につなげれば(フィードバック)、内言となるだろう。

「高次な概念操作」とか「自己を客観的に見ることもできるようになった」とか言われても、本当に? と思ってしまう。それは人間以外の動物にはない特徴なのだろうか?(言葉に惑わされずに考えてみる必要があるだろう)

 

◆文化

文化もまた人間においてとりわけ発達した現象である。…文化とは「遺伝によらず、観察や模倣や教育を通じて、情報を世代を越えて伝達すること」と言える。…私たちが利用し、恩恵を被っている知識や情報、発明や技術、法や制度は、過去の誰かが編み出し、それをまた別の誰かが改良を加えて、時代を越えて伝えられてきたものである。…さまざまな実験の結果、人間以外の動物はサルも含めて、観察学習や模倣、他者の行為の理解が非常に不得手であることが分かっている。…いったん文化ができると、文化は人々の心や認識を形成する強力な装置として働くようになる。私たちが色々なことに対して抱く「好き嫌い」や「常識」は、主に文化によって作られる。…そのたさまざまな世界観や社会観、人間観の多くも、文化が異なれば自ずと違ってくる。

「過去の誰かが編み出し、それをまた別の誰かが改良を加えて、時代を越えて伝えられてきたもの」(それは「既にあるもの」である)だけが「文化」だというのだろうか。そのような「文化」が「人々の心や認識を形成する強力な装置として働く」というのは、確かにそうだろう。しかし、「誰かが編み出し、誰かが改良を加えたもの」だけが文化であり、「私」はそれを、「受け取る」だけのものなのだろうか。

この「文化」を人間のユニークさだと言うのであれば、他の動物には「文化」はないということだろうか? 他の動物には、「観察や模倣や教育」はなく、すべて「遺伝」で決まっているというのだろうか?

  

◆相互協力

人間は…他人の気持ちを理解し、相互に協力関係を結ぶことが出来る(互恵性)。…人間は、知り合いはおろか見ず知らずの他人に対しても親切な行為を示す。…人間は、このような協力や共同関係に関連した豊富な感情システム(例えば、友情、感謝、同情、罪悪感、義憤、公正観)を発達させている。また協力や信頼をベースにして、複雑な社会システムを営んでいる。

これは一面的な見方だろう。人間は利己的であると同時に利他的でもある。どちらが優勢になるかは「状況」による、と言った方が適切である。

これが人間のユニークさだと言うのであれば、他の動物には、「相互協力」はないということだろうか? 「利他的行動」はないということだろうか? ミツバチなどの社会性昆虫の例をどう考えるのか?

 

言語や文化、互恵性といった特徴を備えた人類は、高度な社会制度を生みだし、地球上でもっとも「社会的な動物」になった。人間は社会に暮らし、文化を利用することによって、一人ひとりの弱さを補い、一人では生きていけないような過酷な事態をも乗り越えられるようになった。その反面、人間の個人生活が社会や文化からの影響を受けることもまた事実である。伝統に縛られたり、戦争に巻き込まれたりするのも人間ならではのことなのである。

未だに、人間を殺傷する兵器の生産に従事したり、戦争の危機をなくすることもできずに、「高度な社会制度」を生みだしたと言えるのか?

「伝統に縛られたり、戦争に巻き込まれたりするのも人間ならではのことである」とは、どういう意味か。人間はそれを避けられないという意味なのか。「言語や文化や互恵性」といった人間のユニークな特徴は、「伝統に縛られたり、戦争に巻き込まれたり」する性質のものなのだろうか?

 

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人間以外の動物は生得的行動の制約が大きいが、人間は学習や社会化を通じて、環境に対してはるかに柔軟に適応できる。…人間は単に受動的に環境に適応できるだけでなく、環境を進んで改変しようとする。これらは間違いなく地球における人間の繁栄を支えてきた原動力である。

私はこの文章の「地球における人間の繁栄」という言葉に引っかかる。環境を改変し、「人間の繁栄」という望ましい状態を作り出してきた、というふうに読める。「人間の繁栄」って何? 「ヒトという種の数が増えてきた」というのなら、たぶんそうなのだろう。でもそれを「人間の繁栄」と言っていいのか? ヒトの数が増えれば、望ましいことなのか?

また、「人類は環境を破壊し、滅亡に向かっている」という主張を、一笑に付していいものかどうか?

人間の行動や認知、思考活動は、環境への適応と深く結びついており、全く任意な方向に働くものでもない。…人間が他の動物と大きく違うのは、生物学的適応(生存や繁殖における有利さ)に向かう手段や道筋が実に多様であるという点である。…人間もまた生物の一員であり、他の動物と同じように適応問題を解決しながら生きている。そして私たちの心的活動の多くは、適応という観点からよりよく理解できるものなのである。

「適応」の話は、簡単に済ませるわけにはいかないので、「別途」ということにしよう。

長谷川は、本章最後に「私たちの心的活動の多くは、適応という観点からよりよく理解できるものなのである」と言っている。次章から、この「生物学的適応」の観点から、心的活動の説明が為されるのだろうか。

 

地球における人間の繁栄? 

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出来るだけ、拡大して見て下さい。背景に何が写っているでしょう? 

 人類は、この【時空】における一瞬の泡沫(うたかた)である!

…と、思いませんか?