木下清一郎『心の起源』(16)
今回より、第3章 「世界」とは何か である。木下は、本章冒頭で次のように言う。
議論を先へ進める前に、まずはっきりさせておかねばならぬことがある。物質世界を超えたところに生物世界が開かれ、生物世界を超えたところに心の世界が開かれるというならば、新しく世界が開かれるとはいったい何を指しているのかを、明確に示しておかねばならない。
物質世界→生物世界、そして生物世界→心の世界への「進展」(私は以前、物質世界→生物世界、そして生物世界→心の世界があらわれでることを「析出」と表現した)を、木下は「世界が開かれる」という言い方をしている。ただこのすぐ後で、「世界のはじまり」という言い方もしており、ほぼ同様な意味だろう。
世界とは何か
およそ何ごとであれ、ものの始まりには、解く術のない謎がひそんでいる。その前は、またその前はと考え出すと、私たちは深い深い霧に包まれてしまい、その中に沈み込んでいくようである。世界のはじまりを考えるのは、まさしくそういうことである。世界とは何であるかをまず明確にし、続いて世界が開かれるとはどういうことかを考えるのが、ものごとの順序というものだろう。しかし、ここではそれができない。それは私たち自身がすでに世界の中におり、おそらくは世界そのものであるためであろう。すると残された道は、もはや抜け出せない世界の中に立ちながら、その世界をある視点から眺めるところから始めるしかない。
私たちは「建物」の中にいれば、「建物」がどういうものかは(その内側からしか見ることができないから)よく分からない。同じように、私たちは「世界」の中にいれば、「世界」がどういうものかは(その内側からしか見ることができないから)よく分からない、という程度の意味だろうが、「世界」という言葉が紛らわしい。「物質世界」とか「物理世界」とか「時間空間(時空)」とか言えば、上の文章の意味が理解しやすいように思う。
具体的には、私たち自身が物質からなっており、しかも生命をもって生きる存在であることを基本に据えて、考え始めるほかない。これでは順序が逆であるようにみえるが、実はそれしか世界に入っていく方法のないことは、これまで見た通りである。ここで試みようとするのは、そこから出発してみようということである。心の世界を考えるに先立って、物質世界と生物世界とが二つの世界であると考えたのはなぜかを振り返り、そこから世界が開かれる前提となっている条件を抜き出してみようとしている。つまり、物質世界と生物世界をモデルとして、世界の開かれ方を断層からみていこうというのである。
「世界とは何か」とか、「時空とは何か」という問いは難しい。物理学・哲学の迷路に分け入るよりは、物質世界の存在を前提しても良いように思われる。本書の問いは「心の起源」である。「物質」あるいは「時空」の起源を問うているのではないはずである。(私の当面の関心は、「ものと心」あるいは「精神と物質」である*1)。
世界が開かれるための4条件(世界の始まりを考えるための4つの要請)
木下は、4条件/4要請を挙げている。これ単独ではよく分からないので、続く「物質世界の成り立ち」と「生物世界の成り立ち」の説明と同時に理解したい。
①特異点
要請…その始まりに一つの不連続点が据えられること。
条件…それ以前に遡って説明することのできない前提命題、あるいはそれ以前の世界を統べる原理から導かれてはいるが、不連続的に出現しており、それを前提とすれば新しい体系を構成できる命題で、体系の基礎となるもの。
②基本要素
要請…基本となる要素があらわれ、全体の構造の基礎をなすこと。
条件…一つの体系を構成する成因を、可能な限り素因子に還元していって得られる要素。
③基本原理
要請…基本要素を統一し、一つの系として存続させるための基本原理を持つこと。
条件…一つの体系を統一している様々な法則性を、可能な限り素である原理へと還元していって最後に得られる原理。
④自己展開
要請…この統一体がたどるべき将来の方向を規定する条件を、系のなかに内包させること。
条件…一つの体系を構成する基本要素が、基本原理に則って変化を遂げるとき、体系を支配する法則がおのずからあらわれる。この法則が自己展開を規定する。
物質世界の成り立ち
これらの条件を実際の世界-物質世界にあてはめるとどうなるか。
①特異点
物質世界はビッグ・バンから始まったとされている。しかし、ビッグ・バンがなぜ起こったかを他の事象から導いてくることは出来ないであるから、これは前提された無証明命題であり、一種の公理であるというほかない。
物質世界の始まり(時空の始まり?)を、ビッグ・バンとするのは、直観的には???であるが、これを「前提された無証明命題」(公理)として有意な命題を引き出せるなら、それも良しかなとは思う。しかし、物質世界の始まりを問わず、その存在を無条件に前提(公理)とすることはダメだろうか。
②基本要素
しかし、いったんこの世界が始まってしまうと、世界の基本要素をなす素粒子があらわれ、さらにその素粒子を基礎において原子や分子があらわれるというふうに、それらの全体は階層構造をつくっていく。
「この世界が始まってしまうと、世界の基本要素をなす素粒子があらわれ…」という言い方には違和感がある。「物質の基本要素として、素粒子を仮定する」というのはダメだろうか。
③基本原理
この基本要素の働きを規定する原理として、物質とエネルギーの総和は不変であるという法則があり、基本要素の挙動のみならず、この世界のすべての階層にわたって、そのあり方を支配している。物質世界で働く原理をより根源的な原理へ、さらに根源的な原理へと遡っていくと、これ以上遡れないところに物質とエネルギーの不滅則がある。あらゆる原理はここから出発し、その範囲の中でしか働けない。しかし、その基本原理がなぜ成り立つのかを他の原理から導いてくることはできない。つまり、この命題を他の命題によって証明することは出来ないのである。その意味でこの法則もまた無証明命題であり、公理であるとしてよいであろう。
この文章は、物理学の基礎知識がないと理解できない*2。志村史夫の説明を引用しよう(これで理解できたわけではないが…)。
あらゆる自然科学の分野で最も重要な概念は、このエネルギーと物質(質量)である。宇宙、自然界は物質とエネルギーの組み合わせで構成され、動いている。物質が構成要素であり、その構成要素を動かすのがエネルギーである。自然科学が扱うエネルギーには、その「源」の種類や性質によって、力学的エネルギー、光エネルギー、熱エネルギー、電気エネルギー、化学エネルギー、核(原子力)エネルギーなどと呼ばれるものがある。…20世紀の初頭の「自然観革命」が起こるまで、この質量とエネルギーは互いに「別次元のモノ」つまり「別モノ」と考えられ、それぞれ、自然科学上の重要な法則である「質量不変の法則」と「エネルギー不変の法則」が知られていた。前者は、物質は形や状態がどのように変化しても、その総質量は不変であるという法則である。また後者は、前述のようにエネルギーは多種多様であるが、それがどのようなものに変わり、どのように分散されたにせよ、その総量は不変・不滅であるという法則である。
ところが、アインシュタインが1905年に発表した特殊相対性理論から、「物質(質量)とエネルギーとは相互に転換され得る」という、まさに革命的な結論が導かれた。そのことを表すのが、「E=mc²」という有名な式である。(Eはエネルギー、mは質量、cは光速)。…E=mc²という式は、従来の「質量不変の法則」も「エネルギー不変の法則」も成り立たないことを示している。そして、それが導く新たな法則は「質量とエネルギーの総和は不変である」ということになる。…私は、このE=mc²が、「物質から生命へ」を解く鍵になるような気がする。(志村史夫、http://james.3zoku.com/kojintekina.com/monthly/monthly60803.html)
木下の説明で大切な点は、この「質量とエネルギーの総和は不変である」という法則が、無証明命題であり、公理とするという点にあると思われる。(それとも、これは証明可能な命題なのか?)
④自己展開
物質とエネルギーの不滅則によってこの系の存続は保証されているが、この系は単に存続しているだけでなく、いわば指向性(あるいは志向性)とでもいうべきものまで備えている。それは物質世界の将来の運命と終末を規定している原理であって、エントロピー(ある系の無秩序さを示す量として熱力学で定義される)増大則と呼ばれるものである。この法則があるために、一時的にあるいは部分的には多少の曲折があったとしても、結局この世界は無秩序へ向かう一方向的進行しか許されておらず、最終的にはエネルギーのまったく動かない静寂の世界へ行きついてしまうはずである。物質世界が向かう方向を規定し、世界の未来を決定していると言う意味で、エントロピー増大則は物質世界の自己展開をつかさどっている法則と言いうるであろう。
私は物理学に無知なので、エントロピー増大則と言われても、何のことか分からない。「この世界は無秩序へ向かう一方向的進行しか許されていない」と言われても、???である。
「物質世界の成り立ち」についてのまとめ
物質世界の始まりをどこまでも遡っていって、これ以上は遡れないところ、つまり他の原因によっては説明できないところまで追い求めていくと、特異点としてのビッグ・バン、基本要素としての素粒子、基本原理としての物質とエネルギーの不滅則に行き着く。連鎖の最初の環はいずれも他の原因には帰せられないのであるから、そこには定義と公理のみが残されることになる。つまり、物質世界というものがあるとすれば、それはいくつかの前提された定義と、証明されえない命題に基礎をおいたもので、全体としては一つの公理系として理解するしかないという側面を持っている。
「分からない」とか「証明できない」といって投げ出すのではなく、「分からない(証明できないが)、これを仮説として前提したらどうなるか」と考えることは大事なことであろう。これを、エビデンス(客観的根拠)のない議論はダメだというべきではない。(なお、客観的根拠に基づく意思決定 に書いたエビデンスとは意味合いが異なる)