浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

どのように見えるか どのように見るか

伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』(21)

今回は、第5章 みんなで考え合う技術 第3節 立場の違いに起因する問題 の続きである。

本章は、みんなで考え合うには、どうすれば良いのかの話であるが、みんなで話し合う(議論する)技術と言い換えてもよいだろう。

立場の違いに起因する問題には、いくつかのパターンがあり、前回は、①価値観の違いの話だった。今回は、②視点の違いによる見え方の差、③目的の違いによる文脈の変化 についてである。

 

②視点の違いによる見え方の差

事実判断についても難しい問題はある。それは、視点の差からくる見え方の差である。…温暖化論者と懐疑論者はお互いに相手が業界や企業の回し者であるかのような非難を浴びせていた[「地球温暖化」のウソ?ホント? 参照]。これが単なる論争のレトリックではなく、本気で相手の意見がそう見えているのだとしたら、危険な兆候である。というのも、こうした反応は、相手の目から証拠を見ることができず、相手がなぜ自分の意見に反対するのかが理解できなくなったときに典型的に生じるものだからである。政治党派同士の対立や宗教的な対立でも似たようなことが起きる。

「相手の目から」というのは、「相手の目線で」という意味か。相手の目線で見る=相手の立場に立ってみる、これは意外と難しいことである。対等な立場にあれば比較的容易かもしれないが、対立関係や上下関係にあれば、かなり難しい。この場合、恐らく客観的には、力のある者が力のない者の立場に立って考えることが、事態の好転につながるだろう。しかし、力が、知性(理性)によるものではなく、武器やカネや地位によるものであれば、これはかなり難しい。(議論が成り立たないということは、知性(理性)の欠如を意味しよう)

f:id:shoyo3:20171024142504j:plain

http://img-cdn.jg.jugem.jp/0a8/2358585/20140416_276783.jpg?_ga=2.258968266.1942914938.1508634352-601501414.1418709143

 

こうした現象は、科学哲学でいうところの通約不可能性が局所的に生じた結果によるものと考えられる。通約不可能性とは、二つのグループが全く違う世界観で世界を見るために基本的な出来事でさえも違って見え、そのために話が通じなくなるという状態をさす。

通約不可能性(共約不可能性とも言う)とは、

アメリカの科学史家クーンが提唱した科学論上の概念。異なるパラダイムに属する科学理論の間には,両者の優劣を比較する共通の尺度は存在しないとする説。科学は連続的に進歩するという通念に打撃を与えた。(大辞林)

現在では科学史、科学哲学を超えて、前提を大きく異にする二つの観点の関係を表す一般的思想用語としても広く用いられている。…旧パラダイムから新パラダイムへの転換が科学革命であるが、新旧両パラダイム根本的な前提やものの見方において大きく異なるために相互に共約不可能であり、それゆえ異なったパラダイムに属する二つの理論を共通の客観的事実に基づいて比較し、どちらがより正しいかを一義的に決定する確定した手続きは存在しない。…異なるパラダイムは、(1)何が科学的な問いかという科学性の基準が異なり、(2)同じ言葉が異なる意味をもち、(3)異なるパラダイム下の人々は「同じもの」を見ながらも異なるものを見る、という三つの点において共約不可能である。…二つの観点間の「共約不可能性」は、それらがどれだけの前提を共有し、どれだけを共有しないかによって量的に変化するものであるから、単にそれらが共約不可能か否かのみならず、どの程度共約可能で、どの程度不可能なのかが問題とされる必要がある。(鬼界彰夫日本大百科全書

 パラダイムとは、「ある特定の時代や、特定の専門分野において、多くの人びとが共有している、ものの見方や思考の枠組みのこと」(ナビゲート ビジネス基本用語集)と理解しておく。この引用で、鬼界が述べるように、共約は0か1ではないはずである。

 

通約不可能性は特殊な場合にだけ起きることではない。人間の認知というもの自体が外からの刺激を一定の型にはめ込む形で行われる。また、「あらゆる情報を考慮に入れる」ということは不可能で、必ず情報の取捨選択をしなくてはならない。その際に、違う型にはめ込んで対象を見たり、違う枠組みのもとに情報を取捨選択すれば、当然ながら話が通じなくなるのである。このプロセスにはほとんど無意識に行われる部分がかなりあるのが、話をさらにややこしくしている。

人は、「違う型、違う枠組み」で物事を見るものだということを理解すれば、その「違う型、違う枠組み」で物事を見たらどうなるかを想像することは可能なはずである。

 

以上のような通約不可能な意見の差に敏感になり、相手の「世界観」から状況を見てみることは、異文化理解の第一歩である。さらに言えば、共同作業としてクリティカルシンキングを進めていくうえでの必須条件でもある。第1章で思いやりの原理の話をしたときに[「思いやりの原理」で、話し合うこと 参照]、論争というのは実は協力的な営みという側面があるのだ、という話をしたが、世界観の違う人同士が単なる罵り合い以上の実りある論争をするためには、世界観を共有している場合にまして、お互いの協力が不可欠である。

思いやりの原理」とは、「相手の主張を好意的に解釈する」ことであると理解する。何としても議論に勝とう(自分の主張を通そう)と考える者には、「思いやりの原理」が働いていない。相互了解合意の形成をめざして議論しようとしない者は、一見議論しているように見えて、実は議論していない(自分の意見を通すこと=勝つことだけが目的の利己主義者)と言うべきだろう。

 

通約不可能性をどう処理するか

通約不可能な意見の差が生じている兆候はいろいろある。例えば、自分が決定的だと思う証拠や議論を提出したのに、相手が全くその重要さを認識していない(どころか単に聞き流してしまっている)ように見える、というのは、通約不可能性が働いている一つの徴候である。逆に、相手の質問や意見が字面の上では理解できるのに、そもそもなぜそういう質問や意見が出てくるかわからず頭をひねるという状況も同じ徴候である。こういう場合、同じ質問に同じ答えが返されるといった不毛なやりとりが何度も繰り返され、しまいには「こんなに物分かりが悪いのは、裏で利害団体から金でももらってんじゃないか」などと勘ぐることになってしまう。

確かにこのような議論状況では、まず第一に考えるべきは「陰謀論」ではなく、「パラダイムが異なるのではないか」であろう。

もちろん、単に予備知識に差があるためにお互いの言うことが理解できないという場合もあるだろう。その場合は必要な予備知識を共有することで意思疎通が可能になる。しかし予備知識を共有してもなお、お互いの質問のポイントが理解できないなら、通約不可能性が働いている可能性を疑ったほうがよい。…通約不可能な食い違いの解消の方法としては、とにかくまず、相手の認知の枠組みや、何が重要な問題で何が重要でないと思っているかを推定し、その枠組みを身につけた者からは世界がどう見えるか考えることである。また、本書でこれまでに紹介した手法を使い、お互いの議論の構造を明確化することも、どこで食い違っているかはっきりさせるために有効である。そうすることで、相手の議論の背後に自分の気づいていない前提がないか、自分の推論の背後に相手にとって受け入れられない前提がないか、をチェックすることができる。そうすると「こういう前提のもとで見るとどうなるか」「この前提を無視して見るとどう見えるか」というような思考実験が可能となる。(P224)

伊勢田は、ここで「相手の認知の枠組みや、何が重要な問題で何が重要でないと思っているかを推定し~」と述べているが、自分勝手に推定するのではなく、「それは、~ということでしょうか?」と問うべきであろう。そして、この「~」の表現には、「相手の主張を好意的に解釈する」ようにしたい。そうして相手のパラダイムがある程度理解できたら、そのパラダイムから問題の状況がどう見えるかを考える。(なお、「議論の構造」については、批判的思考 何故そのように主張するのか? 参照)

 

なお、通約風可能性の観点から見ると、思いやりの原理をもう一度考え直す必要がある。思いやいの原理は、相手の議論を自分から見て合理的に補っていくことを要請している。しかし通約不可能性が生じている場合には、自分からは合理的再構成と見えるものが、実は相手の意図をねじまげてしまう可能性も高い。したがって、もし先ほど書いたような徴候から通約不可能な意見の違いが生じている疑いがあるなら、議論の再構成においても無理に合理的な枠に押し込めるのではなく、まずは相手の言い方に忠実に再構成するほうがよいだろう。そうした再構成の中で自分が思ってもみない前提がでてきたらしめたものである。通約不可能に言える対立を解決する手がかりが得られたことになる。

伊勢田は「相手の言い方に忠実に再構成するほうがよい」と言う。自分の主張が正しいと思いながら、このように考えることはいささか難しいことのように思えるが、上に述べたように、「それは、~ということでしょうか?」という形で問いかけるようにすれば抵抗はないように思う。そうすれば、相手の応答次第で、自分の主張をよりよい形にすることが可能だろう。

それでもうまく再構成できない場合、第1章で否定的に紹介した「わら人形論法」がうまく働くこともある、と指摘する人もいる。つまり、通約不可能性が働いているようなとき、わら人形論法がお互いの論点をはっきりさせるために役に立つのではないか、というのである。視点によっていろいろな解釈が可能なあいまいな言葉を使って議論している人は、自分の発言がいろいろな解釈の余地のある発言だということに気づいていないことがある。そんなとき、「あなた、曖昧な言葉を使ってますよ」と指摘して曖昧さのより少ない明確な言葉を使うように促す目的で、わざと意地悪に解釈してみせるのである。

わら人形論法とは、

相手の意見の一部を誤解してみせたり、正しく引用することなく歪める、または一部のみを取り上げて誇大に解釈すれば、その意見に反論することは容易になる。この場合、第三者からみれば一見すると反論が妥当であるように思われるため、人々を説得する際に有効なテクニックとして用いられることがある。これは論法としては論点のすり替えにあたる誤謬であり、無意識でおこなっていれば論証上の誤り(非形式的誤謬)となるが、意図的におこなっていればそれは詭弁である。(wikipedia、ストローマン) 

 伊勢田はこれは上級テクニックであり、乱用するのはおすすめ出来ないと言っている。しかし、詭弁は別として、無意識のわら人形を避けるためには、「あなたのおっしゃりたいことは、~ではないでしょうね?」という「確認」の形をとることとすれば、「思いやりの原理」と矛盾しないのではなかろうか。

 

これと連動して、情報を発信する側のクリティカルシンキングについても考え直す必要がある。情報発信者の側から見ると、通約不可能性が存在するということは、自分が発信した情報が思ってもみないやり方で解釈されるかもしれない、ということを意味する。自分では科学的な情報提供をしているつもりが、相手にはアメリカ政府の先棒をかついだ宣伝活動にしか見られていないといった状況では、言っていることもまず全然理解してもらえないだろう。そんな場合は、相手の視点から見ても理解できる言葉で情報発信する必要があるだろう。

「あなたからこう見えているであろうものは、こういう差があるために、私からはこう見えます」という形で相手に通約不可能性が働いていることを説明するためにも、まず何が食い違っているのかを把握しなくてはいけない。

パラダイムという言葉を使わずとも、「ものの見方・考え方」というものは人それぞれだから、「発信情報が、思ってもみないやり方で解釈される」可能性は常にある。こちらは丁寧に話しているつもりでも、意図せざる反感を買うことがあるのである。人は往々にして自分と同じ思考をすると勘違いして、「自分にしか分からない言葉」を使いがちであるが、それでは通約不可能性は解消されない。

 

もちろん、相手の見方を理解することで自分の立場が変わることもあるだろう。それもまた理解が深まったということであって、譲歩したわけではない。最終的にはお互いがお互いについて理解を深め、両者のものの見方を統合した一段レベルの高い視野を獲得するのが理想である。こうした統合は地平の融合と呼ばれる。温暖化論争において地平の融合が生じる見込みは今のところ薄い。そもそも通約不可能性が生じているという認識すら当事者たちは持っていないであろう。議論の交通整理がこれから望まれるところである。

相手の主張を取り入れることは、敗北でも譲歩でもない(議論は、勝負事ではない)。それは、「理解が深まった」ということであり、「成長した」ということである。「ちっぽけな経験とちっぽけな知識」しか持っていないこと(井蛙・夏虫・曲士*1)を自覚していれば*2、確かにそのように思えるはずである。これを「地平の融合」(ガダマー)などと難しく言わなくても良いだろう。言っても構わないが…。

f:id:shoyo3:20171024143750j:plain

https://pbs.twimg.com/media/C-AVlwnW0AAdVxO.jpg

 

 ③目的の違いによる文脈の変化

認識論的文脈主義の観点から言うと、お互いの文脈が違うために生じる食い違いも無視できない。…どの程度のどういう証拠があればある主張が妥当なものとして認められのか、どういう推論なら妥当な推論として認められるのか、といった点で食い違いがあれば、当然ながら話がかみ合わない。これは通約不可能性の一種であり、既に紹介したような通約不可能性の検出方法や解消方法が文脈の差にも応用できる。但し、ものの見え方自体が違うというのに比べれば、文脈の差は検出も解消もまだまだ容易なほうである。

文脈の差が生じるのは、そもそも何のためにその問題について論じているのかについての食い違いがある場合が多い。これは前章までに出てきたような大掛かりな哲学的文脈ばかりではなく、非常にローカルな意味での文脈にもあてはまる。

伊勢田はここで、「自動車と飛行機のいずれが安全か」の例をあげて、「目的とデータ処理の仕方の間には合理的な関係がなくてはならない」としている。この例は省略して、温暖化の例を見よう。

温暖化論者はおそらく「最悪の事態を想定して安全策をとるための情報を得たい」という目的で、懐疑論者はおそらく「できるだけ様々な科学的仮説を視野に入れて温暖化について(本当に温暖化が起きているのかどうかも含めて)分析したい」という目的で、データを見ていると思われる(間違っていたら申し訳ない)

この差はいろいろなところに現れる。例えばモデルを組み立てる上でも、今後の二酸化炭素排出量を多めに見積もるのは前者の観点からは筋が通っているが、後者の観点からは妙なバイアスがかかっているように映るだろう。両者の対立を調停する上では、まずそういう目的の違いについてはっきりさせる必要がある。その上で、もし同じ目的を共有することができるなら、その目的に従ってデータの見方を決めていけばよい。

伊勢田のこの話は面白い。伊勢田によれば、温暖化論者は安全サイドに立った議論をしており(その観点からデータを見る)、懐疑論者は科学的な立場から真実を究明しようとしているらしい。目的の違いとは、「環境汚染対策」と「科学的事実の究明」のことか。温暖化論者は科学者なのか、政治家なのか。…「安全サイドに立つ」という考え方は、原発や食品や自然災害等にも適用される考え方で、いずれ詳しく考えてみたい。

*1:各人は自由に自らの幸福を追求できる ??? 参照

*2:そのような自覚がないとすれば、それこそ「ちっぽけな経験とちっぽけな知識」しかないことの証明となるだろう。