長谷川寿一他『はじめて出会う心理学(改訂版)』(3)
他者の心の状態を推測する
他者の心の状態(信念や欲求)を推測し、他者の行動を予測したり解釈したりする能力は「心の理論」と呼ばれる。(長谷川、本書)
このような心の機能の有無を調べる実験の一つに「サリーとアン課題」(誤信念課題)と呼ばれる実験がある。
https://www.projectdesign.jp/201701/ningen/003382.php
1) サリーとアンが、部屋で一緒に遊んでいる。
2) サリーは人形を、青い箱の中に入れて部屋を出て行く。
3) サリーがいない間に、アンが人形を黄色い箱の中に移す。
4) サリーが部屋に戻ってくる。
上記の場面を被験者[幼児]に示し、「サリーは人形を取り出そうと、最初にどこを探すか?」と被験者[幼児]に質問する。正解は「青い箱の中」だが、「心の理論」の発達が遅れている場合は、「黄色い箱」と答える。(Wikipedia) *1
長谷川は次のように述べている。
誤信念課題で、子どもに要求されているのは、サリーの立場に立って、彼女がどう思っているか、何を信じ、何を望んでいるかを理解するということです。…サリーの行動が結果として「誤った信念」に基づくものだったとしても、サリーにはサリーの信念があるはずだということが理解できるかどうかが問題です。…もし、相手の心が理解できなかったら、コミュニケーションは成立しません。相手がして欲しいこと、逆にして欲しくないことが分からなければ、友情や信頼が生まれるはずもありませんし、教育(教えと学び)も成り立ちません。
この文章を読んで、いくつか引っかかった点がある。
まず、「心の理論」という言葉である。「他者の心の状態(信念や欲求)を推測し、他者の行動を予測したり解釈したりする能力」が、「心の理論」であると言う。「能力」をなぜ「理論」と称するのか。「心」という多義的な概念を、「他者の心の状態(信念や欲求)を推測し、他者の行動を予測したり解釈する」ことに限定(矮小化)してよいのか。他者の心の状態を「信念や欲求」としているが、それだけなのか。Wikipediaは、「心の理論は、ヒトや類人猿などが、他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する心の機能のことである」と言っているが、こちらは他者の心の状態を広範囲に捉えている。…いずれにせよ、「他者の心の一部の機能を推測する機能」を「心の理論」などと大言壮語しているように思われる(日本語としてもおかしい)。
「サリーとアンの実験」は、「誤信念課題」と呼ばれる。こちらも言葉の使い方が気になる。なぜ「誤信念」なのか? 長谷川は「サリーの行動が、結果として「誤った信念」に基づくものだった」という言い方をしているが、「結果として誤った信念」とは何だろうか。「信念」が、結果の如何によって、正しかったり誤っていたリするのだろうか。「青い箱」に人形が入っているというサリーの信念は、妥当な推論によるものと言ってよい。「青い箱」に人形が入っていなかったとすれば、「例外的な事象」が生じたということであって、信念が誤っていたということにはならない。アンが人形を黄色い箱に移さないで、部屋の窓から外に捨てたとすれば、サリーが青い箱を開けようが黄色い箱を開けようが、サリーの行動は「誤信念」に基づくものだったと言うのだろうか。
長谷川は、「もし、相手の心が理解できなかったら、コミュニケーションは成立しません」と言う。日常会話としてはこれでも良いのかもしれないが、「相手の心」を理解することの難しさ、コミュニケーションが成立することの難しさを痛感している者(子どもであれ、大人であれ)にとっては、いかに入門書であれ、もう少し詳しい話をして欲しいところである。単純な「誤信念課題」をクリアしたからといって、「相手の心を推測できた」などと言えるはずもない。
犬猿の仲
他者の心の状態として、長谷川は「信念や欲求」をあげ、Wikipediaは「目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測」をあげている。例えば「信念」は「心理学では、個人が接触している世界のある側面に対する感情、知覚、認識、評価、動機、行動傾向などの心理作用の総合的で持続的な構えを「態度」という概念で考えるが、信念はその認知的要素の部分ないし側面を形成している」(辻正三、日本大百科全書)といえるのであれば、その信念を推測する能力とは、どのようなものであろうか。そしてそれは「誤信念課題」で測定できるようなものなのだろうか。
「他者の心の状態(信念や欲求)を推測する」というのは、「幼児期の心の発達の問題」としてとりあげられているのだろう。しかし、私には、「他者の心の状態(信念や欲求)を推測するとは、どういうことか?」とか、「他人の気持ちを理解できるものだろうか?」と言う問いに興味がある。
大人になっても、他人の気持ちを理解できない、あるいは理解しようともしない人が大勢いる。これはなぜなのか? 幼児期の教育が問題なのだろうか。それとも遺伝的なものだろうか。
もちろんこれには幅があって、「他人の気持ちを全く理解できない」人から、「他人の気持ちばかり考えている」人までいる。こういう極端は少数派なので、「異常」とされる。この線引きは難しく、対策(治療)はどうあるべきかが問われる。
私のこういった問題関心に、「心の理論」はヒントを与えてくれるものかと思ったが、どうもそうではなさそうだ。