気の向くままに

井蛙は以って海を語るべからず、夏虫は以て冰を語るべからず、曲士は以て道を語るべからず

音楽の中に「場の鼓動」を聴く

岡田暁生『音楽の聴き方』(25)

今回は、第5章 アマチュアの権利 の最後の部分である。

マチュアは、プロが作り、プロが演奏する音楽を、作曲家自身が書いた解説を拝読しながら、黙々と拝聴するしかなくなる。自分で演奏して楽しむことも、それについてあれこれ話すことも、聴きながら一緒に音楽に合わせて身体を動かすことも出来ないのだ。クラシック音楽のかなりの部分、そして前衛音楽のほぼすべてが多くの人にとって「退屈」な理由は、この「参加出来ない」ということに尽きるように思う。

では、音楽は「してみなければ分からない」ものなのだろうか。

「してみなければ分からない」とは、誤解を招きやすい表現である。「しなければ分からない」は、「出来ないやつには分からない」と混同されがちだ。だが、自分で出来なければ音楽は理解できないなどと言いだしたら、例えば「ヴァイオリニスト以外はヴァイオリン音楽について語る資格はない」という話になるし、これがエスカレートすると、クレーメルのような超一流の名人以外の言説は信用ならないということにもなってしまう。そもそも音楽生活というものが「する」/「聴く」/「語る」のトライアングルからなる公的空間だとするなら、「語る」権利を「する」側が独占してしまえば、その公共性の前提自体が崩れてしまう。

音楽生活が、「する」/「聴く」/「語る」のトライアングルからなる公的空間とは思えないが、この側面から考えてみるのは意味あることだろう。次の話が面白い。

「出来ない奴には分からない(=言うならやってみせろ)」という実践至上主義リアリズムとも言うべきもののこっけいさを巧みに揶揄するセリフが、ジャクリーン・ビセットの主演した『料理長殿、ご用心』という映画の中に出てくる。主人公は毒舌で鳴らす料理雑誌の編集長。記事で彼に手厳しく批判されたさる料理人が、怒り心頭に発して怒鳴り込んでくる。「自分で料理も作れないお前に、料理のよしあしの何がわかる!」というわけである。ところが主人公のでっぷり太った編集長は、このクレームに眉一つ動かさず、「では君はニワトリでもないのに、どうして卵のよしあしが分かるのかね」と切り返す……。

議論をしていると、ときどき「言うなら(そんなことが出来るなら)やってみせろ」という人がいる。「論理」で説得されそうになると、こういう捨て台詞を吐くのである。こういう場合、この「料理のよしあし」の話は使えるそうだ。

これはそのまま「音楽についての語り」にも当てはまるだろう。つまり音楽を語るにあたって実践経験は大いに役立つだろうが、必ずしも完璧に「できる」必要はない。「する能力」と「味わい楽しむ能力」、あるいは「考え語る能力」とは、必ずしも同じではないのだ。

「する」と「聴く」と「語る」が一体になった親密な音楽共同体を作り出すために何より大切なのは、「よりよく味わうためにこそ自分でもそれをしてみる」ということであるように思う。どんなジャンルでもいい。もう少しその音楽について知りたいと考え始めたら、思い立ったが吉日で、すぐにレッスンに通い始めてみることだ。…幸いなことに、クラシック音楽にしてもそのレパートリーの中には、アマチュアが自分で弾いて楽しむために作られた曲が多くある。それらはプロの演奏を恭しく傾聴させていただくのではない。素人が自分で「してみる」ためのレパートリーである。

「してみる」ことによって、「味わい楽しむ能力」や「考え語る能力」に大きな影響を与えることは予想されるが、「してみなけばならない」ということはない。

「もっと聴いて楽しみたいから学ぶ」というアマチュアにとって何より必要なのは、一方的ではない学び、つまり巧みに弾くことだけを至上目的としない学習であるはずだ。恐らく邦楽の世界などでは、アマチュアのための格好の学習の場が提供される空間が、今でも存在しているに違いない。お弟子たちの大半は、音楽で身を立てるために、それを習っているわけではない。下手でも芸事を心から愛している彼らは、しばしば油断ならない目利きでもあるだろう。自分自身はひどい謡しか出来ないにもかかわらず、師匠の舞台のちょっとした好不調もすぐに見抜く旦那衆こそ、理想の聴衆ではないか。このように能動的に参与する聴衆を育てるためにこそ、音楽を教え学ぶ場は存在する意味があるのかもしれないのだ。

確かに現代社会においては、こうした経済営為から離れた「楽しみの空間」――バルトの言う「ルパート(搾取)を一切含まない」空間――を見出すことは、困難を極めるかもしれない。もはや社会が「趣味に入れ込む」などという悠長なことを許容しなくなってきているからこそ、どんどん音楽体験は受動的になり、あるいは効率化されていったのである。既に1925年にベッセラーが、「日々片づけなくてはならない仕事、いろいろな義務がもたらすストレス、好ましかったり好ましくなかったりするいろいろなニュース、他人との付き合いにおける誤解、日々の仕事の後の気晴らしないし静かな集い、金の心配、レクリエーション、スポーツ、共通の喜び等々。こんな日常から逃れて、一体私たちはどうやって音楽への入り口を見つければいいのか?」と書いていた。現代人はとにかく忙しすぎる。絶えず雑事に追い立てられている。自分で音楽をする気力など失せてしまうのだ。

「自分で音楽をする」ことに価値を見出さない・見出せない社会に変貌したのか、それとも元々そういう社会はなかったのか。

いみじくもヒトラーが政権を取った1933年に書かれた、先の連弾についてのエッセイでアドルノは、ディレッタンティズムを「真の音楽演奏の伝統の余韻であり、没落の産物」と呼んで、次のように書いている。

「グラムフォンないしラジオという自動車を前にしては、リズミカルに首を振る忠実な馬に引かれた連弾馬車が、小走りで、あるいはギャロップしながら、やんごとなき彼らのモーツァルトや尊敬するブラームスを――時として彼らに冷や汗をかかせつつも――誇り高く目的地へと連れていくなどということは、もはやほとんどないのである。連弾は思い出の身振りの一つになってしまった」。

しかし同じエッセイで彼が言っているように、「自分もまた芸術家になりたいという夢を食んで生きている最後のディレッタント[芸術愛好家]が死んでしまったら、最後の芸術家はいったい誰に向けて無意味ではなく演奏をするのだろう」? どれだけ難しかろうと私たちは、「する」と「聴く」と「語る」とが絶えず入れ替わりながらも、一体となる空間を作ることから始めねばなるまい。しかし、結局のところ、それは社会の問題でもある。ベッカーが言うように、音楽を体験する形式は、社会が作り出すのだ。何より確保されねばならないのは、経済営為とは無縁でありつつも、一種の公共性を備えた社交空間としての、真摯なる「アマチュアの領分」ではないだろうか。

 「する」と「聴く」と「語る」とが絶えず入れ替わりながらも、一体となる空間、一種の公共性を備えた社交空間、それは「アマチュアの領分」なのだが、それは美術館やコンサートホールにあるとは思えない。経済営為から離れた「楽しみの空間」、それは見果てぬ夢なのか。

 

岡田は、「おわりに」で次のように述べている。

考えてみれば「音楽の聴き方」とは、二通りの解釈が出来る表現である。一つは「音楽を聴く方法(マニュアル)」。もう一つは「音楽を聴く型」。これは「音楽と向き合う構え(心構え)」と言い換えてもいい。両者を厳密に分けることは出来ないにせよ、何事につけ方法の背後には対象に向き合う姿勢があり、前者は後者から演繹されてくる。音楽をどのようなものと考えるか。音楽の中に何を求めるか。音楽を前にどのように身を持そうとするか。これらが前提となって初めて、個々の方法には生きた意味が与えられる意味を抜きにして方法だけ羅列しても、知ったかぶりをするためのマニュアルになるだけだろう。とはいえ、近代の西洋音楽を中心としてではあるが、時代/文化ごとにいろいろな「音楽への構え」があり、また現代固有の問題というものも存在していることについて、既にできる限りのことは書いた。であってみれば、最後になるが、これまで述べたことを踏まえた上で、本書のまとめを兼ねた「聴き上手へのマニュアル」を思いつくままに箇条書きしてみたい。

ここで岡田は28項目を挙げている。すべて引用してもいいのだが、特に重要と思われるもののみとりあげよう。

(1) 「誰がどう言おうと、自分はそのときそう感じた」――これこそがすべての出発点だ。

(4) 数を聴かないと始まらない。

(5) 「明らかにお粗末な音楽」というものも、自分の価値軸を形成していくうえで、とても貴重なものだ。

(7) 「絶対に素晴らしい!」と「明らかにひどい!」の両極の間には、格別いいとも悪いとも断定し難い、さまざまな中間段階が存在している。これらは聴く角度次第でいろいろな評価が可能だ。

(8) 絶対的な傑作を除いて、多くの音楽は「語り部」のよしあしにより、面白く聴こえたり、退屈になってしまったりする。音楽についての言説を侮ることは出来ない。

(9) 「聴き上手」とは、聴く文脈をいろいろ持っている人のことだ。

(17) 音楽を語ることは、音楽を聴くことと同じくらい面白い。

(23) 「美しくて、人を癒し、快適な気分にさせ、あるいは感動させ、勇気づけるもの」だけが音楽だという固定観念を捨てる。

(26) そのジャンルのアーカイブを知る。「ジャンル」として確立されている音楽の場合、必ず観客が暗黙の前提にしている架空の図書館がある。

(27) 場を楽しむ。音楽は必ず何らかの「場」の中で鳴り響く。音楽との最も幸せな出会いは、「音楽」と「わたし」と「場」とがぴったり調和したと思える瞬間の中にある。あまり音楽だけを取り出して、グルメ・ガイドよろしく品評することはしたくない。

(28) 堂々と品評するアマチュアの権利を行使する。

 この中でも、特に27番目の「場」の話は面白い。音楽に客観的な評価というものはない。

岡田は23番目で固定観念を捨てよと言う。私はこのような固定観念を持ってはいないが、それでも「美しくて、人を癒し、快適な気分にさせ、あるいは感動させ、勇気づけるもの」が好きである。

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 グルック:精霊の踊り

www.youtube.com

 

岡田は最後にこう述べている。

思うに最も幸福な瞬間にあっては、音楽それ自体の素晴らしさはもはや意識に上ってこない。音楽は一つの場の中に消滅する。そんなとき私たちは、音楽それ自体を聴いているのではなく、音楽の中に場の鼓動を聴いているのだ。まさにそういう稀有な体験と出会うためにこそ、音楽を聴く意味はある。

 

今回で『音楽の聴き方』は終了である。