長谷川寿一他『はじめて出会う心理学(改訂版)』(5)
今回は、第5章 動機づけと情動 にでてくる情動をとりあげよう。情動とは、具体的には、喜び,悲しみ,怒り,恐れ等である。この話は「面白い」はずだが、本書の説明はまったく面白くない。何故なのか。たぶん、長谷川は学説をわかりやすく紹介するのが入門書だと考えているからだろう。次のような(誰もが知っているであろう)知識を得て、いったい何になるのだろうか。
情動とは、あるものが自分にとって好ましいか好ましくないかというように、対象の価値判断に関わる概念である。…一般には、動悸が激しくなったリ汗が出たりといった身体活動を伴う強い感情をいう。情動には喜怒哀楽のような主観的な体験の側面と、発汗・動悸・表情や姿勢の変化などにあらわれる表出という2つの側面がある。
次のような説明はどうだろうか。
情動…喜び,悲しみ,怒り,恐れなどによって代表される感情群で,筋や腺の特徴的な複雑な活動を伴う。情動は,広義の感情のなかで以下のような特色をもつ過程とされる。 (1) 環境刺激の知覚によって生じる。 (2) 比較的急速に引起される一過性の過程である。 (3) 呼吸,循環,消化などの生理的諸機能に激しい変化が生じる。 (4) 接近,退避などの強い運動傾向を伴う。 (5) 行動の攪乱状態が生じる。しかし,これらの性質は他の感情諸過程にも多少とも認められるものであって,必ずしも情動だけがもつ特色とはいいがたく,したがって情動を明確に定義することはむずかしい。情動には,特有の体験,身体的表出および生理的変化の3つの側面がある。情動の体験には,ジェームズ=ランゲ説が指摘するように,末梢効果器からの感覚のフィードバックが重要な役割を演じている。情動の身体的表出は表情と呼ばれ,人間では顔面の表情がよく発達している。生理的変化は全身の広範な器官で生じ,自律神経系および内分泌系の支配を受けている。(ブリタニカ国際大百科事典)
比較的わかりやすい「まとめ」だとは思うが、(1)~(5)の特色を持つ感情を「情動」と定義して、それでどうだというのだろうか。
情動の原因(起源)を何とするかについては、学問において議論が交わされてきた歴史があるそうだ。
- ジェームズ・ランゲ説(末梢起源説):身体変化の認知が情動を生むという説。情動は、外部刺戟→身体反応→身体反応の意識化の順に生じる。身体反応は状況認知の直接結果であり,主観情動体験の付属物ではない。[泣くから悲しい]
- キャノン・バート説(中枢起源説):情動は、知覚→視床の興奮→情動反応(末梢)と情動体験(皮質)の順に起こる。視床が情動反応を調整する中枢である。現在では、情動には視床下部、大脳辺縁系、網様体、大脳新皮質などが関与していると考えられている。[悲しいから泣く]
- シャクター・シンガー理論(情動の二要因説):情動は、身体反応とその原因の認知の両方が不可欠とする。身体反応が同じでも、状況によって喜び、怒りは異なる。感情は身体反応の知覚そのものではなく、身体反応の原因を説明するためにつけた認知解釈のラベルであるとする。(Wikipedia)
神経科学や生理学の議論としては面白いのかもしれないが、私には「身体反応」や「視床の興奮」以前の、所与の「外部刺激」や「知覚」に興味がある。いかなる外部刺激があるのか、何を知覚するのか。喜び,悲しみ,怒り,恐れなどに区分されるのは、「所与」の側に何かがあるからだろう。それは何なのか。
「情動の二要因説」を主張するものとして、「恋の吊り橋実験」がある。
実験が行われたキャピラノ吊り橋(Capilano Suspension Bridge)
社会心理学者のドナルド・ダットンとアーサー・アロンは、感情が認知より先に生じるのなら、間違った認知に誘導できる可能性があると考えて「恋の吊り橋実験」を行った。 実験は、18歳から35歳までの独身男性を集め、バンクーバーにある高さ70メートルの吊り橋と、揺れない橋の2か所で行われた。男性にはそれぞれ橋を渡ってもらい、橋の中央で同じ若い女性が突然アンケートを求め話しかけた。その際「結果などに関心があるなら後日電話を下さい」と電話番号を教えるという事を行った。結果、吊り橋の方の男性18人中9人が電話をかけてきたのに対し、揺れない橋の実験では16人中2人しか電話をかけてこなかった。実験により、揺れる橋を渡ることで生じた緊張感がその女性への恋愛感情と誤認され、結果として電話がかかってきやすくなったと推論された。(wikipedia、吊り橋理論)
揺れる橋を渡るときはドキドキする。魅力的な異性に出会うとドキドキする。つまり揺れる橋を渡るときのドキドキが、その女性への恋愛感情(ドキドキ)と間違って解釈される可能性があるという。
これには反論がある。
メリーランド大学のグレゴリー・ホワイトは、吊り橋の緊張感を恋愛感情と誤認するには、実験で声をかける女性が美人かどうかで結果が左右されるのではと考えた。実際にメイクで魅力を低下させた女性で同様の実験を行ったところ、美人ではない場合には吊り橋効果は逆効果であることがわかった。(wikipedia、吊り橋理論)
揺れる橋を渡るときドキドキするのは何故か? 魅力的な異性に出会うとドキドキするのは何故か? これが問われるべき問いではないか。ドキドキの身体反応が同じであるとも思えない。結局のところ、恋の吊り橋実験は教育用の「お話し」であって、真剣に考えるようなものではないのかもしれない。
情動の身体的表出
表出された情動は他者にとって一種の信号として作用する。情動の表出には、自分がどのような人間で、いまどのような状況にあるかを他人に知らせる機能(情報付与機能)、喜びを共有したいとか、怒っている自分に怖れを感じて欲しいとかいう感情誘発機能、さらにはそのことによって他者の特定の行動を起こさせたい行為喚起機能があるといわれている。そしてこうした機能を利用するために情動の表出を利用することは、生後非常に早い段階から発達する。
信号の話はいいとして、「この機能を利用するために情動の表出を利用する」というとき、情動が意図的な行為であるということになろうが、「動悸が激しくなったリ汗が出たりといった身体活動を伴う強い感情」(または(1)~(5)の特色を持つ感情)が意図的な行為だというのだろうか。赤ちゃんの「ウソ泣き」も大人の「演技」も、このような身体活動を伴う強い感情(情動)だというのだろうか。ここでは、「情動の表出」というよりは、単に「感情の表出」といった方がよいだろう。
上述の「情動の二要因説」について、wikipediaは、次のように述べている。
感情とは、ヒトなどの動物がものごとやヒトなどに対して抱く気持ちのこと。喜び、悲しみ、怒り、諦め、驚き、嫌悪、恐怖などがある。…シャクターらは、感情2要因説を1960年代に唱えたが、その後2要因となるような直接の証拠が得られなかったため、彼は自身の仮説を修正して、生理的基盤(=情動)に基づいてその後感情が形成される、という感情の2段階説を唱えた(1982年)。これを発展させたのが、Lazarusたちで、感情を社会性も含めたより複雑なものとして定義した(罪悪感、やきもち、嫉妬、愛、なども含めた)。(wikipedia、感情)
感情にどんなものがあるか。喜怒哀楽以外にどれだけ挙げられるか。
安心、不安、感謝、驚愕、興奮、好奇心、性的好奇心、冷静、焦燥 (焦り)、不思議 (困惑)、幸福、幸運、リラックス、緊張、名誉、責任、尊敬、親近感 (親しみ)、憧憬 (憧れ)、欲望 (意欲)、恐怖、勇気、快、快感 (善行・徳に関して)、後悔、満足、不満、無念、嫌悪、恥、軽蔑、嫉妬、罪悪感、殺意、シャーデンフロイデ*1、サウダージ*2、期待、優越感、劣等感、恨、怨み、苦しみ、悲しみ、切なさ、感動、怒り、悩み(苦悩、懊悩、煩悶)、諦念 (諦め)、絶望、憎悪(愛憎)、愛しさ、空虚。(wikipedia、感情の一覧)
人が他者と共に社会を形成して生きているということは、人生のあらゆる局面で、これらの感情と共に生きているということでもある。心理学は、これらの感情がいかなるものなのかを分析するものでなければならない(と思う)。こういう話が無くて、いきなり身体反応やら脳機能(構造)の話をされてもちっとも面白くない。
上に列挙されているような感情は誰もが抱きうるものであるが、人はこれらの感情の表出をどれだけ読み取れるだろうか。
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*1:シャーデンフロイデ…他者の不幸、悲しみ、苦しみ、失敗を見聞きした時に生じる、喜び、嬉しさといった快い感情。ドイツ語で「他人の不幸(失敗)を喜ぶ気持ち」を意味する。日本語で言う「ざまあみろ」の感情であり、日本でのシャーデンフロイデの類義語としては「隣(他人)の不幸は鴨(蜜)の味」、同義の「メシウマ(他人の不幸で飯が美味い)」という俗語が近い物として挙げられる。(Wikipedia)
*2:サウダージ…郷愁、憧憬、思慕、切なさ、などの意味合いを持つ、ポルトガル語およびガリシア語の語彙。単なる郷愁(nostalgie、ノスタルジー)でなく、温かい家庭や両親に守られ、無邪気に楽しい日々を過ごせた過去の自分への郷愁や、大人に成長した事でもう得られない懐かしい感情を意味する言葉と言われる。だが、それ以外にも、追い求めても叶わぬもの、いわゆる『憧れ』といったニュアンスも含んでおり、簡単に説明することはできない。(Wikipedia)