浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

疑わしきは罰せず (オウム真理教)菊池被告は無罪である

平野・亀本・服部『法哲学』(41) 

今回は、第5章 法的思考 第1節 法的思考とは何か 第4項 事実認定 であるが、本書の説明ではよく分からないので、wikipedia等を参照し、その後、オウム真理教元信者の菊池被告の上告審(最高裁第一小法廷は、2017年12月25日、検察側の上告を棄却する決定を出し、2審の無罪判決が確定することとなった)についてふれることにしよう。

 

まず、「疑わしきは罰せず」という法諺(ほうげん)について理解しておこう。(かつての私を含め)この言葉を理解していない人が大部分ではないかと思う。よくある誤解を挙げてみよう。

  1. 疑わしい人は罰すべきである。…こんなことをいう人はいないと思うかもしれないが、そうでもない。マスコミは、警察に逮捕された時点から実名報道をするようだが、その時点では「被疑者」(疑わしい)であるに過ぎない。マスコミは報道しているだけと言うかも知れないが、実名報道することによって被疑者に社会的制裁を加えている(罰している)のである。
  2. 犯罪が行われたかどうかよくわからないのであれば(疑わしいのであれば)、罰するべきではない。冤罪を生んではならない。…このように理解している人が多いのではなかろうか。しかし少し考えてみれば分かるように、「非常に疑わしい」から「ちょっと疑わしい点がある」まで幅広い。であるなら、「ちょっと疑わしい点がある」だけで、無罪とするのはおかしい。このような理解から、「疑わしきは罰せず」はおかしいのではないか。こんなことを言ったら、多くの真犯人を取り逃がすことになるだろう。確かに冤罪はまずい。全体としてどちらのマイナスが大きいか。明らかに、多くの真犯人を取り逃がすマイナスが大きい。冤罪はやむを得ない。というのである。この論理のどこがおかしいか。後で考えて見よう。
  3. 9人の真犯人を取り逃がしても、1人の無実の人を処罰してはならない。伊藤真は次のように書いている。

全員有罪か全員無罪か、究極の選択が迫られていると仮定しましょう。全員有罪にすれば、社会の治安は維持されるかもしれませんが、1人の無実の市民が犠牲になります。憲法は、国家や社会のために個人を犠牲にしてはいけないとして「個人の尊重」を憲法の根本に置きました(13条)。ですから、この場合には全員無罪として釈放しなければなりません。これを無罪の推定といいます。…真犯人を取り逃がす間違いと、無実の人が処罰されてしまう間違いと、どちらの方がより許容できるかという選択の問題です。文明国家では後者があってはならないとして、無罪の推定原則が生まれたのです。まだ裁判中であるにもかかわらず、被告人を凶悪犯と決めつけて攻撃したり、その弁護士をテレビで評論家が批判したりするようでは、国民による裁判の監視ではなく、国民によるリンチになってしまいます。(https://imidas.jp/jijikaitai/c-40-016-07-11-g208)

この主張は、「真犯人を取り逃がす間違いと、無実の人が処罰されてしまう間違いと、どちらの方がより許容できるかという選択」においては、「個人の尊重」という理念が重視されるべきであるので、「無実の人が処罰されるべきではない」というものであると思われる。このような「無罪の推定原則」の理解は正しいのだろうか。非現実的な仮定(全員有罪か全員無罪か、究極の選択が迫られていると仮定)はさておいても、この論理にはおかしなところがあると感じられないだろうか。

 

疑わしきは罰せず」とは、どういう意味か。

正確には「疑わしきは被告人の利益に」の意味で,何人(なんぴと)も犯罪の積極的な証明がないかぎり有罪とされたり,不利益な裁判を受けることがないとする法諺 (ほうげん) である。刑事裁判では,犯罪事実など要証事実の挙証責任は原則として検察官が負う。したがって,ある事実につき,存否いずれとも証明がつかない場合には検察官に不利益な認定がなされることになるが,ことにそれが犯罪事実にかかわるときには,たとえある程度の嫌疑があっても,その点につき裁判所が確信を得るにいたらない以上,「疑わしきは罰せず」として被告人は無罪とされなければならないということ。最高裁判所は,この原則は再審の請求に対する審判手続においても適用されるとした。(ブリタニカ国際大百科事典)

裁判で最終的に有罪ときまった者だけが犯人と呼ばれてよく,被疑者・被告人となっただけではまだ犯人ではない。こうして,すべての被疑者・被告人は無罪の可能性があり,できる限り市民的権利が保障されるべきだという原則を無罪の推定(広義)という。人権思想が未発達の時代には,嫌疑をかけられただけで犯人であるかのように扱われた。しかも,証拠不十分等の理由で有罪を宣告することができない場合にも,いわゆる嫌疑刑が科せられ,無罪の推定が働く余地はなかった。(世界大百科事典)

刑事訴訟においてこの原則が確立するのは、近代になって人権の尊重が強調されるようになってからである。…フランス革命の際に発せられた人権宣言は、「すべての者は、犯罪者と宣告されるまでは、無罪と推定される」(9条)と規定し、世界人権宣言(1948)も、「何人も……法によって有罪が立証されるまでは、無罪の推定を受ける権利を有する」(11条)として、この原則を明言している。(日本大百科全書

これらの説明を読めば、「疑わしきは罰せず」がどういう意味であるか分かってくるだろう。ポイントは、「人権の尊重」との関連で理解することである。中世には嫌疑刑なるものがあったという。嫌疑をかけられただけで、犯人のように扱われる。言い方を変えれば、嫌疑をかければ、犯人のように扱って良いということである。「疑わしきは罰する」ということである。即ち、独裁者(権力者)にとっては、「気に入らない者」を自由に罰することができるということである(罪名は何ともでもつけられる)。現代日本では、警察が、「あいつは〇〇*1で、まともな仕事もせずふらふらしているから、犯人に違いない」と逮捕すれば、嫌疑刑に処せられるリスクがあるということである。

他方で、犯罪者は、法に則り処罰されなければならないことはいうまでもない。さもなければ、平和に・安全に生活することができない。(あえて誤解を招くような表現をするが)治安は維持されなければならない。殺人犯や心身の傷害犯等を野放しにしておくことはできない。殺人や心身の傷害等を教唆(きょうさ、そそのかすこと)・幇助(ほうじょ、手助けすること)する者も見逃すことはできない。刑法に規定されている犯罪の処罰は概ね妥当であろう。

 

「疑わしきは罰せず」をwikipediaはどう説明しているか。

刑事裁判における原則…刑事裁判においては検察側が挙証責任を負うが、被告人に不利な内容について被告人側が合理的な疑いを提示できた場合には、被告人に対して有利に(=検察側にとっては不利に)事実認定をする。この言葉は事実認定の過程を裁判官の側から表現したものである。これを、当事者側から表現した言葉が推定無罪[無罪の推定]であり、ふたつの言葉は表裏一体をなしている。(Wikipedia、疑わしきは罰せず)

日本の刑事訴訟において、裁判所が公訴事実を認定するには、当該事実につき「合理的な疑いを差し挟む余地のない程度の立証」あるいは「合理的な疑いを超える証明」が必要であるとされる。ここでいう「合理的な疑いを差し挟む余地がない」というのは、「反対事実が存在する疑いを全く残さない場合をいうものではなく、抽象的な可能性としては反対事実が存在するとの疑いをいれる余地があっても、健全な社会常識に照らして、その疑いに合理性がないと一般的に判断される場合には、有罪認定を可能とする趣旨である」とされる(最判平成19年10月16日)。被疑者及び弁護側からみれば、無罪を主張する際には容疑について完全無実を証明する必要は無く、犯罪行為を行ったことについて合理的な疑いを示すことができればよいことになる。(Wikipedia、合理的な疑い)

ただ単に疑いがあるだけでは、罰せずとはならない。健全な社会常識に照らして、その疑いに合理性がなければならないのである。だから「疑わしきは罰せず」を正確に表現すれば、①健全な社会常識に照らして、公訴事実に合理的な疑いがあれば、公訴事実を認定しない(→罰しない)、となるだろう。これは、②健全な社会常識に照らして、公訴事実に合理的な疑いがなければ、公訴事実を認定する(→罰する)、ということと同じである。

健全な社会常識とは、「少しでも疑いうるものはすべて偽りとみなしたうえで,まったく疑いえない絶対に確実なものを求める」という態度をとらないことであると思われる。

誤解2:「ちょっと疑わしい点がある」だけで、無罪(罰せず)とするのはおかしい。→無罪(罰せず)とするのではない。「合理的な疑い」が無ければ、有罪とする(罰する)のである。

 

上の説明ででてきた「事実認定」とは、

事実認定とは、裁判官その他の事実認定者(陪審制における陪審裁判員制度における裁判官と裁判員など)が、裁判(刑事訴訟・民事訴訟)において、証拠に基づいて、判決の基礎となる事実を認定することをいう。日本法においては、刑事訴訟では厳しい要件を満たした証拠のみが事実認定の基礎になるのに対し、民事訴訟では証拠となる資格(証拠能力)には特に制限がない。いずれの場合も、採用された証拠が事実認定にどのように用いられるか(証明力の評価)は裁判官の自由な心証による。…(Wikipedia、事実認定)

検察官は、犯罪事実を立証する証拠を提出し証明すべき責任がある。証拠による証明が、合理的な疑いを超える程度のものであるかどうかは、裁判官が判断する。決定的な(直接的な)証拠がない場合は、裁判官の「健全な社会常識」、「合理的な疑いの有無の判断」が問題となる。

誤解3: 9人の真犯人を取り逃がしても、1人の無実の人を処罰してはならない。→「疑わしきは罰せず」とか「無罪の推定」の話は、真犯人を取り逃がすとか、無実の人を処罰するという話ではない。事実認定が難しい事件において、検察官の提出する証拠に基づく証明では、合理的な疑いが残る場合、処罰すべきではないということである。合理的な疑いが残らない場合、有罪だと考えて処罰するのは、無実の人を処罰するということではない。

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事実認定とは、具体的にはどういうものであろうか。オウム真理教元信者の菊池被告の上告審の事例をみてみよう。

オウム真理教は数多くの事件を引き起こしているが、地下鉄サリン事件(1995/3/20、死者12人、負傷者6300人)、松本サリン事件(1994/6/27、死者7人、負傷者660人)、坂本堤弁護士一家殺害事件(1989/11/4、死者3人)がよく知られている。今回とりあげるのは、東京都庁小包爆弾事件(1995/5/16、負傷者1人)の菊池直子被告に係る裁判である。(菊池は指名手配後約17年間逃亡を続けたが、2012年6月神奈川県相模原市内の潜伏先で警視庁に身柄を確保された)。

東京都庁小包爆弾事件とは、1995年5月16日に発生したテロ事件。オウム真理教東京都知事青島幸男宛に小包爆弾を送り、東京都新宿区の東京都庁舎内で爆発させ都職員に重傷を負わせた殺人未遂事件である。…警察の捜査の撹乱、麻原彰晃の逮捕を防ぐために実行された。(Wikipedia東京都庁小包爆弾事件)

一審

2012年8月6日に東京都庁小包爆弾事件における殺人未遂罪と爆発物取締罰則違反の各幇助罪で起訴された。2014年6月30日の判決公判で東京地方裁判所は「劇物などと記された薬品を運んでおり、薬品で危険な化合物が作られることを容易に想像できた」「(教団施設への強制捜査などから)教団が追い詰められている状況にあり、教団が人の殺傷を含む活動をしようとしていると認識していた」として殺人未遂幇助罪の成立は認めたものの、「爆発物がつくられるとまでの認識はなかった」として爆発物取締罰則違反幇助罪の成立を認めず、懲役5年(求刑懲役7年)の判決を言い渡した。[被告人は、]即日、判決を不服として東京高等裁判所控訴した。(Wikipedia、菊池直子)

控訴審

2015年5月13日に控訴審がはじまり、改めて無罪を主張。同年11月27日、無罪判決を受け、東京拘置所から釈放された。二審判決は以下のような認定の上、無罪判決を下している。

①一審判決の判断は、経験則、論理則に反する不合理な点が少なからず見受けられる。…菊地が運んだ薬品が毒劇物に指定されており、取り扱いに注意を要するという意味で危険なものであったとしても、直ちにテロの手段として用いる毒ガスや爆発物を製造することを思い起こすことは困難であり、一審判決がその薬品の危険性の意味を明らかにしないまま菊地にはテロの未必的認識があったとまで認定している点は問題がある。…また爆発物取締罰則違反幇助罪の成立は成立しないとしているのであるから、…殺害行為を幇助する意思があったとするには、原則的にはより説得的な論拠が必要であろう。

 ここで「テロの未必的認識があった」とは、「その薬品で爆発物を作り人を殺傷しようという意図はなかったが、そうなったとしても構わないという認識があった」という意味(だろう)。

②一審判決の根拠となった井上嘉浩の証言は合理性を欠く。…この事件は、「井上の関与した一連の重大犯罪の中では比重が大きくはなく」、「手伝いをしていた者に対してねぎらいの言葉をかけたとか励ましたとか、それに対する相手の応答ぶりなどという事実は、自身にとって重要性を持つような事象ではなく、このような長い年月を経ても記憶が褪せないエピソードであるとは考え難く、むしろ記憶に残っていることは不自然であるとすらいえる。このような証言については、他にこれを裏付けるような証拠があるか否かなどを検討し、その信用性を慎重に判断する必要がある」。 

 証言はそのまま信用してはならない。証言(特に不自然と思われる証言)については、その信用性を吟味しなければならない。そのためには、証人の立場や言動等を考え合わせることが必要であろう。

長期間逃亡をもって殺人未遂幇助の意思を認定できない。…さらに、二審判決は、菊地の長期間にわたる逃亡について、菊地は地下鉄サリン事件等の重大犯罪で指名手配を受け、爆発物の原料となる薬品を運搬していた事実がある上、「事情を知らずに関与した」と菊地が思っていた教団信者が有罪判決を受けたことも認識していたのであるから、処罰を恐れて長期間逃亡していた事実を持って殺人未遂幇助の意思を認定することもできないというべきである、とした。

「犯人だから逃げているのだろう。潔白なら名乗り出よ」などという浅はかな理解をしないようにしよう。「逃亡の事実」と「殺人未遂幇助の意思の認定」とは、関係ない。

この控訴審判決は妥当なものと思われるが、

2015年12月9日、検察側は「井上死刑囚の証言が信用できないとする根拠が十分に具体的とは言えず、裁判員裁判の判決を尊重すべきだとした最高裁判例に反する」などとして上告した。(以上、Wikipedia、菊池直子) 

  

2017年12月25日、最高裁第一小法廷は、裁判官5人全員一致の意見で、検察の上告を棄却した*2

検察官の上告趣意のうち,判例違反をいう点は,事案を異にする判例を引用するものであって,本件に適切でないか,実質は事実誤認,単なる法令違反の主張であり,その余は,事実誤認,単なる法令違反の主張であって,刑訴法405条の上告理由に当たらない。

「事案を異にする判例を引用するものであって,本件に適切でないか,実質は~」、なるほど、こういう言い回しは覚えておいてよい。

第一審での争点は何であったか。

正犯者らが本件爆弾事件を実行したこと及び被告人が前記薬品等を運搬したことに争いはないが,正犯者らが無差別殺人等の事件を起こす意図を有していること及び運搬に係る薬品がそのための爆弾製造等に用いられるものであることについて,被告人が認識していたことを示す直接証拠は存在せず,被告人が,各幇助行為の時点において,爆発物取締罰則違反(爆発物製造・使用)及び殺人未遂の各罪につき,それぞれ幇助(ほうじょ)の意思を有していたかどうかが争われた。 

第一審及び控訴審の判決は、上述の通り。最高裁は、以下のように判断した。

本件については,第1審の公判審理の時点で本件爆弾事件の発生から約19年が経過していること,特殊な宗教団体による大規模な組織的犯行の一環としてなされたものであること,争点は,正犯者らの犯行や自己が運搬した薬品の用途を被告人が認識していたかどうかに帰着するところ,検察官の主張によっても,被告人のそのような認識を端的に示す証拠の存在が指摘されたわけではなく,間接事実を総合して被告人の主観面に属する幇助の意思が立証されるというものであり,その内容も未必的認識にとどまった可能性もある旨主張されていることなどの特質を指摘することができる。このような特質を有する事案について,特に裁判員裁判において合理的な判断を示すためには,裁判体として,個々の証拠の評価のみならず,推認過程の全体を把握できる判断構造(以下「判断構造」ということがある。)について共通認識を得た上で,これをもとに,各証拠の持つ重みに応じて,推認過程等を適切に検討することが求められる。

「推認過程の全体を把握できる判断構造について共通認識を得る」、「これをもとに,各証拠の持つ重みに応じて,推認過程等を適切に検討する」というのは初めて聞いた。言われてみればもっともだが、具体的にはどういうことか。

最高裁は、第1審判決には、以下のように判断構造に不合理な点があるという。

第1審判決は,本件の事実認定に当たって,前記アのような間接事実の積み重ねによる判断構造を採用したこと自体において,不合理なものがあるといわざるを得ない。すなわち,前記ア①,②の間接事実は,それらから「人の殺傷結果の想起可能性」を推認し,更に同④から⑦までの間接事実を加えることによって,殺人未遂幇助の意思の認定に結び付く同③の事実を認定するための前提となるものである。

ア① 井上らが運搬された薬品を使用して何らかの危険な化合物を製造することを被告人が認識していたこと

ア② 井上らが教団の教祖の逮捕を阻止するために合成した化合物を用いて何らかの活動をする意図であることを被告人が認識したこと

ア③ 井上らが教団の教祖の逮捕を阻止するために行う行為が人の殺傷を含み得ることを被告人が認識したこと

ア③の事実を認定することは、殺人未遂幇助の意思の認定に結び付く。ア③の事実認定は、ア①,②の間接事実の認定が前提となっている、というのである。

しかしながら,被告人の認識対象は,それぞれ,同①の間接事実においては井上らが「何らかの危険な化合物」を製造すること,同②の間接事実においては井上らが合成した化合物を用いて「何らかの活動をする意図」であることとされている点において,いずれも広範な事態を含み得る曖昧な内容にとどまっている。そのような同①,②の間接事実から,同③の事実認定の前提となる「人の殺傷結果の想起可能性」を推認することは,そもそも困難というほかない

①②は「曖昧な内容」なので、③の事実認定の前提となる「人の殺傷結果の想起可能性」を推認することはできない。

このように,殺人未遂幇助の意思を認定するためのいわば土台という位置付けがされている同①,②の間接事実による推認過程が不合理である以上,同①,②の間接事実に,同④地下鉄サリン事件への教団関与の疑念,同⑤教団に関する報道に接する機会の存在,そのような状況の下での被告人による,同⑥井上らの置かれた状況等の察知,同⑦自己のワーク等の振り返り等の間接事実を加えたとしても,殺人未遂幇助の意思の認定に結び付く同③の事実を認定できるとする合理的な説明が全体として十分になされているとはいえない

土台となる①②の曖昧な内容の間接事実に、④~⑦の間接事実を付加しても、③の事実は認定できない。

もう一つ第1審判決が批判されている。

また,第1審判決が,同①,②の間接事実からの推認により得られるとする結果は,「人の殺傷が生じ得ること」を想起することが可能であるというにとどまり,抽象的な結果発生の認識可能性をいうものにすぎず殺人の認識が不可欠な本件においては甚だ不十分というほかない。これに付加する同④から⑦までの間接事実をみても,いずれも被告人の漠然とした疑念ないし抽象的な認識可能性の契機を指摘するものであり,これらを併せて検討しても,同①,②の間接事実を基礎として得られるとされる抽象的な結果発生の認識可能性から殺人未遂幇助の意思の認定にまで高めるには,飛躍があるといわざるを得ない。 

 最高裁判決理由はまだ続くが省略する。上述のところだけでも、事実認定が実際にどういうふうに行われる(べきな)のかの雰囲気はつかめるのではないかと思う。

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第1審は裁判員裁判であった。これがどの程度影響しているのかは分からない。裁判員には、指名手配され、17年間も逃亡していたものが、無実であるはずがないという思い込みがあったのではないかと想像する。

いずれにせよ、有罪無罪を争うような裁判では、プロの裁判官でも事実認定に差異が生じるということは、証拠に基づく証明の評価が決して簡単なことではないということを意味しよう。

*1:〇〇には、「ルンペン、土方(どかた)、中卒、アル中、ニート、痴呆、かたわ、きちがい、チビ、ハゲ、デブ、ブス、コミュ障、パニ障、アスペ、糖質(統合失調症)、池沼(知的障害)、アカ(共産主義者ブサヨ(左翼)、おかま、レズ、ホモ、タヌキ、イヌ、ゴキブリ、チャンコロ、在日(在日韓国・朝鮮人)、キムチ野郎、露助(ロスケ)、ニガー、黒ん坊(wikipedia差別用語より一部抜粋)などが入る。

*2:平成28年(あ)第137号 殺人未遂幇助被告事件。(http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/347/087347_hanrei.pdf