浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

人権問題としてのいじめ

ハラスメント(4)

池田中の生徒自殺、地検に告発 福井の市民団体

池田町池田中学校で3月、男子生徒が担任らの指導を苦に自殺した問題で、福井市の市民団体「社会問題被害者救済センター」が21日、業務上過失致死の疑いで、当時の担任と副担任、校長の3人に対する告発状を福井地検に提出した。告発状は、担任と副担任は生徒への精神的打撃が過大にならないようとどめる注意義務を怠り、厳しい叱責を繰り返したと指摘。校長は担任と副担任を指導して改善を図る注意義務を怠ったとしている。同センターによると、男子生徒の遺族は刑事告訴民事訴訟をする意向がなく、センターが第三者として捜査を求めることにした。20日に遺族の了解を得たという。村内光晴代表は21日、福井市内で記者会見し「安心して子どもを預けられる学校になってもらうため、問題に改めて光を当てたい」と話し、告発を通じて真相解明と再発防止の徹底を求める考えを示した。(2017/12/22、中日新聞http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20171222/CK2017122202000033.html

 

子どもの人権侵害

この刑事告発についてコメントする前に、2013年9月10日に開催された「平成25年度人権に関する国家公務員等研修会(前期)」(法務省)での山下英三郎(社会福祉学者、日本社会事業大学名誉教授)の講演録をみておこう。(http://www.moj.go.jp/content/000115232.pdf

この講演録(いじめ・体罰:解決への手がかりを探る~子どもの人権擁護の観点から~)は全文引用したいところだが、各自ご覧いただくとして、私の特に気になった部分をとりあげる。

いじめや体罰など子どもの問題は、子どもの「権利侵害」の問題と関わってきます。体罰などは明らかにそうですが、過剰指導や学校の中でのハラスメントの問題もあります。発達障害の子どもが不適切に扱われたり、子どもが不登校にならざるをえなかったりする状況も、「学ぶ権利」を実現できないという意味での権利侵害といえます。 

 学校におけるいじめは、子どもの人権問題として、捉えられなければならないということである。過剰指導(=行き過ぎた指導=教師によるいじめ)も人権問題として考えなければならない。(但し、過剰か過剰でないかの判断基準をどう考えるかの問題はある)

子どもたちは社会的にも身体的にも経済的にも弱者であり、大人の力を背景とした行為が子どもの側から見れば差別になっていることはあると思います。子どもに対する権利侵害が起きやすいのは、力が圧倒的に不均衡だからです。…大人の側からすれば「これはしつけなんだ」と思って行う行為が、弱者である子どもの側からすれば実は苦痛を伴うことであったりするわけです力関係が圧倒的に違う中では、強者による弱者に対する行為は本当に権利侵害につながりやすいのです。

ここでいう「大人対子ども」の関係は、「強者対弱者」の関係に一般化されるだろう。強者による「しつけ」(教育、指導)は、「いじめ」になる可能性がある。教育者・指導者がこのことに無自覚であっては、教育者・指導者たる資格はない。どこまでが指導であり、どこから過剰指導になるのかが分からなければ、指導者として不適格である。

家庭の中で、親が子どもを、しつける、育てる、という意識が旺盛すぎると、子どもの意識とか認識のずれが生じやすいという構図があります。学校の中でも、子どもたちを育てる、一人前の社会人にする、といった意識が行き過ぎることによって問題が生じることがあります。子どもの人権を語る大人の側が本当に子どもの側からの人権を意識しているのか、その辺のことを考えるとやはり意識改革が大事になってきます。…権利侵害は、日常的に学校の中で起きますので、やはり学校の中で、子どもたちの権利を擁護するシステムは必要だと思います。そのために、私がずっと活動してきた、「スクールソーシャルワーカー」という仕組みがあります。スクールソーシャルワーカーが学校現場で具体的に権利侵害の現実に介入して権利擁護をしていくということです。…社会福祉社会保障を具体的に実行・実現する人たちをソーシャルワーカーといいます。対象が子どもであれば、子どもたちが直面している様々な問題に対して、いじめであれ、体罰であれ、暴力であれ、虐待であれ、いろんな問題に対して関わります

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スクールソーシャルワーカーとは、

児童・生徒が学校や日常生活で直面する苦しみや悩みについて、児童・生徒の社会環境を構成する家族や、友人、学校、地域に働きかけ、福祉的なアプローチによって解決を支援する専門職。…児童・生徒のいじめ、不登校、暴力行為、非行といった問題行動や児童虐待などの背景・原因を見極めたうえで、子供やその家庭に働きかけるだけでなく、医療機関や、児童相談所、福祉事務所、警察などと連携して問題を解決に導く点に特徴がある。学校で児童・生徒の問題解決を支援する職種としては、ほかにスクールカウンセラーがあるが、これは心理学的なカウンセリングによって問題解決を図るものであり、スクールソーシャルワーカーとは児童・生徒への支援のアプローチが大きく異なっている。(日本大百科全書

この説明と山下の説明は、微妙に(大きく?)違うように思われる。山下は、「子どもの人権を擁護していく」といっている。つまり、一人の人間として、学び、生きていこうとすることを妨げてはならない、手助けしなければならない、と言っている。しかし、日本大百科全書の説明では、「子供やその家庭に働きかけるだけでなく、医療機関や、児童相談所、福祉事務所、警察などと連携して問題を解決に導く」と言っている。これは、加害者あるいは被害者を、「犯罪者」や「精神異常者」として処置することを含む。このように処置しても問題は解決する(とされる)。

実践家としての山下は面白い話をしている。

資源開発はソーシャルワークの中の好きな機能の一つで、私自身がスクールソーシャルワーカーとして活動している時の話ですが以下のような例があります。不登校の子どもたちは、当時は特に行き場所がありませんでした。だったらそういう場所を作ろうということで、地域の人と協力して、「居場所」を作ったのです。私が関わっている子どもたちだけでなく、いろんな子どもたちやボランティアの人たちが集まってきました。全く公的な支援を受けずに、多い時は60人ほどの子どもたちが来るような状況で、地域の中で社会資源としての大きな機能を果たしていたのです。…既成のリソースだけでなく、自分で作っていくという発想もソーシャルワークでは非常に強いのです。

官僚や学者や評論家には出来ないことだろう。…行き場のない子どもたち(子どもだけに限らないが)の「居場所」を作る、これはとても大事なことだ。

子どもの代弁者としての役割:子どもたちは圧倒的な弱者なわけですから…子どもたちの権利擁護する立場の人間、代弁するものが必要になってくると思います。そこで保護者との関係、教師との関係の中にスクールソーシャルワーカーが介入してその役割を果たす。この役割についてはもっと強調していかなければならない、と私はずっと言い続けております。

スクールカウンセラーとの違い:スクールカウンセラーは、人の問題、子どもたちの問題に対するとき、彼らの内面、心に焦点を当てます。インドアに焦点を当て、カウンセリングという方法で問題解決を図っていきます。心のもつれを解きほぐしていくわけです。ですから問題解決のプロセスもカウンセリングルームや相談室の中で行われます。インドアで問題解決が図られていくのです。ところがソーシャルワーカーの場合は、子どもたちの問題を、彼らを取り巻く環境、アウトドアとの関係で捉える。そして問題解決においても、子どもと環境との調整等に力点が置かれるので絶えず外に目が向くわけですし、体も外に出ていくのです。…これはどちらがいいとか悪いとかという問題ではありません。問題の特質によってどちらが関わるべきかが決まるし、双方の特性を生かして協働することが可能だということです。

子どもの代弁者、インドア・アウトドアという言葉は、覚えておいたほうがよいだろう。

いじめの対策では、大人たちはいじめた子といじめられた子にばかり焦点を当てがちですが、その背景を考えていかなければならないと思います。一つは効率主義や成果主義が非常に進行しているので、強者の論理というものが、非常に強調され、強いものがいて弱いものがいるということになると、差別が起きてきやすい。そこにいじめの構造のようなものがあります。

背景を考えるとは、「何故?」と問うことである。何故いじめるのか? 何故いじめられるのか? これは最初の問いである。しかるに、この問いを発しないで、いじめの現象記述に終始し、いじめた奴を処罰せよと言う人が多い。…何故?と問うたときに出てくる答えは何か? その答えに対しては、また何故?という問いが出てくるだろう。

また、社会的なネットワークが衰退化しているため、帰属感が非常に薄い。自分の居場所がわからず、孤立感が強い。いじめがもし起きたとしても、誰かが支えてくれ、自分はここに所属しているという意識が強ければ、問題の深刻化は食い止めることができるのですが、その基盤が非常に弱くなってしまっています。 

 自分の居場所が分からない。「私は、〇〇なる共同体に属している」といえるような共同体を実感できない。それは何故なのか?

象徴的なのが厳罰主義です。特にアメリカのゼロ・トレランスのように、いけないことに対しては厳しく例外なく罰を加えなければならない、又は排除しなければならないという考え方がありますが、そうした影響を受けた社会的な風潮の中で、やはり子どもたちが生きづらさを感じているということは当然あるわけです。それは不満だったり、いらだちだったり、怒りだったりします。そうしたものが蓄積されてどこかにはけ口を求めるわけですけが、それが身近な存在、自分より弱いもの、又は異質な存在に向かってしまう。こうした背景を見ていかなければならないのではないかと思います。加害児に対しては厳罰に処し、被害児にはケアをすればよい、というように加害者と被害者を分断して考えることはできないということです。こういう社会構造があるわけですから、その辺りを含めて対策を考えていかなければなりません。

ゼロ・トレランスとは、

割れ窓理論*1に依拠して1990年代にアメリカで始まった教育方針の一つ。「zero」「tolerance(寛容)」の文字通り、不寛容を是とし細部まで罰則を定めそれに違反した場合は厳密に処分を行う方式。日本語では「不寛容」「無寛容」「非寛容」等と表現され、転じて「毅然たる対応方式」などと意訳される。…アメリカでは1970年代から学級崩壊が深刻化し、学校構内での銃の持込みや発砲事件、薬物汚染、飲酒、暴力、いじめ、性行為、学力低下や教師への反抗などの諸問題を生じた。その対策として取られた手法の一つが、ゼロ・トレランス方式である。…ゼロ・トレランス方式に対しては「結果的に社会からドロップアウトする青少年を増やす」などの根強い批判の声がある。また、この方式が過剰に適用されているのではないかとの批判もある。…2007年12月には、周囲からは品行方正な少女であると目されていた10歳の小学生が、昼食時に家から持参したステーキナイフを使って食べ物を切り分けたことが「学校への武器の持ち込み」と判断されて逮捕され、児童観察施設に送られるという事件が発生した。(Wikipedia)

厳格な処分が大いに問題があることは予想されるが、それが学級崩壊の深刻化を背景として出てきたことに留意すべきであろう。深刻な学級崩壊を目の当たりにすれば、厳格な処分を求める声が高まる。どのようなルール(法)にするのかが問題である。0か1かではない。

子どもに対して、いじめの問題を大人に話しなさい、とよく言いますが、子どもの実感としては、ちゃんと話を聞いてもらった体験がないのです。大人に言っても聞いてくれない。「あなたにも落ち度があったんでしょう」とか、「それくらい我慢しなさい」などと言われることにより、分かってくれないという思い、挫折感を抱いてしまう。子どもたちはそういう体験をいっぱいしていると思います。ですから、問題が深刻になればなるほど、大人には言いたくない、というようなことになってくるのです。私たち大人が、子どもの権利保障、人権保障について考える場合には、そうしたことを払拭していかなければなりません。大人は分かってくれる、信じられる存在であるということをきちんと伝えていくということが大事です。…大事なことは、きちんと子どもたちの声にまずは耳を傾けることです。それは、子どもの言うとおりにするということではありません。きちんと話を聞き、一人一人の子どもの人格を尊重するということをベースにして対策を考えていかなければ対策は有効に機能しないと思います。 

 親や先生に話しても、何も解決しない。いじめ自殺や不登校が無くならないのは、これが一番大きいのではないだろうか(想像だが)。だとすれば、「何故、親や先生に話しても、何も解決しないのか?」と問わなければならない。私の答えは簡単である。それは「親や先生は解決能力を持っていない」である。だとすれば、「何故、親や先生は解決能力を持っていないのか?」と問わなければならない。……

従来のアプローチというのは、問題に焦点を当てて、その問題をいかに取り除くかということでした。問題があると指導したり、教育したり、懲戒を加えたり、場合によっては治療したりすることによって、問題をその行為によって取り除こうとする考え方です。これは全部が間違っているわけではないのですが、これだけでは限界があります。このような捉え方を、「病理モデル」「医学モデル」と言いますが、問題を全て個人に還元し治療行為や教育によって個人を変えていく、個人を変えれば問題は解決したことになるという考え方です。そうしますと、問題の背景となっている社会的な要因を全く問わないことになってきます。…例えば、不登校の背景は何か、いじめの背景は何か、といった社会的な背景を念頭に置く必要があるにもかかわらず、病理モデルだと、個人の問題さえ取り除けば、問題を解決したことになると考えがちであり、そこに限界があるということです。

現在も「病理モデル」を採用する人が大多数ではないかと思われる。何か事件が起きた場合、犯人を処罰してそれで終わりである。議論は、事実認定や法解釈や量刑などに限られる。事件の背景(社会的な要因)を問おうとしない。かくして事件は繰り返される。

子どもたちの行動には、ネガティブな行動がいろいろとありますが、それらのネガティブな行動にも全て意味があると捉えます。無意味な行動はありません。例えば、いじめたりすることは、社会的には意味のない行為ですが、その個人にとっては意味があるということなのです。その意味を否定しないことが大事だと思います。…子どもたちの行動を理解しようとするならば、その行動の多くが自分の身を守るために起こしている行動であることがわかります。自分の不安定さ、不安や怒り、危機的な状況から自分を守るために[防衛機制],そういうために行動を起こしているのだけれども、その行動が他人からすると、非常にネガティブな行動に見えてくるわけです。

有意味か無意味かは、外部から分析する人の判断基準による。行動主体が、意図して「無意味な」行動をすることはありえない。…「防衛機制」でそのような行動をとっているのだということを理解する必要がある。その上で、何故、防衛せざるを得ないのか?と問うことである。

特に子どもの関係を作って行く中で、子どもの人権を尊重するにはどうしたらいいでしょうか。まず大事なことはやはりちゃんと話を聞くということです。…一人の人として尊重してきちんと話をすることです。上下関係の中で常に上から目線でいれば子どもたちは離れて行ってしまいます。…私は相談の中で、例えば秘密の保持について、子どもたちにきちんと説明をするようにしてきました。「ここで話すことは、親には言わない。学校の先生にも言わないよ」と伝えるのです。そして約束を守る。「だけど話している中で、これは親の方に話した方がいい、学校に話した方がいいという話は出てくると思うから、その時には僕はちゃんと君に話をするから」と言います。親や学校に話すことについて子どもが「No」ということもありました。それでも私の方がどうしても必要だと思えば、必要だという認識を共有できるようなプロセスを踏むようにしてきました。なぜ話した方がいいかということを理解してもらうのです。子どもとの信頼関係は、秘密を守れなかったことによって、簡単に崩れていってしまいます。

信頼関係に基づく対話。これなくして問題は解決しない。だが信頼関係を築くことは難しい。

自分の活動が「子どもの最善の利益」を目指したものであることについても、やはり私は子どもたちに分かりやすく伝えていました。「君に会っているのは、学校の先生のためでも、親のためでもなく、またおじさん自身のためでもなく、君自身のために、どうすることが一番いいかということを考えるためになんだよね。だからいろいろ話をする。話していく中で、君のためと思って話をしたとしても君にとってはそれが良くないと思うこともあるかもしれない。だからそういう時はちゃんと違うって言ってね」などと言っていました。「すれ違いが生じたときにはちゃんと『No』と言ってほしい。そうしないで君が我慢しちゃうとどんどんずれていってしまうから」などと、分かりやすく「最善の利益」について説明するのです。

「君自身のために、どうすることが一番いいかということを考える」と口先だけで言っても信用されない。論理、感情、行動…さまざまな手段が必要となるだろう。

山下はこの後、「修復的対話」「修復的司法」(Restorative Justice)について話している。引用は省略して、次の解説をあげておく。反対語は、応報的司法(Retributive Justice)である。

修復的司法…犯罪を、人々やその関係に対する侵害と捉え、司法を、被害者・加害者・地域社会による対話を通じて、被害の回復と関係の修復を図るためのものと理解する考え方。修復的正義。

応報的司法…犯罪を、国家に対する違反行為と捉え、司法を、国と加害者の対立関係において刑罰を決定するものと理解する考え方。(デジタル大辞泉

修復的司法…具体的な犯罪被害者を犯罪被害を受ける前の状態まで引き上げる(回復する)ことによって、被害者の尊厳を確証する一方、加害者に修復への義務と悔悛の機会を与えることによってその尊厳をも認めるものであり、応報に比べて癒しを促進しやすいものである(ハワード・ゼア)。…修復的司法は、欧米ではディスカッションを苦手としない人が多いことなどもあって普及が進んでいる。これに対し日本では、被害者側に加害者と会うことへの拒否感が強いケースが多いことや、加害者が罪を軽くするよう利用しているのではないかとの疑念などから、活用が低迷しており、2001年に最初に活用した千葉県では、2014年までの数年間は利用ゼロの状態であり、大阪府でも、被害者と加害者との対話を支援する目的で設立されたNPOが解散に追い込まれたという。(Wikipedia、修復的司法)

山下は、「対話の力」を強調している。

対話の力というものは、問題解決において非常に大事です。今、社会で、対話が不足しているということによって、たくさんの問題があちこちに山積していると思います。物事を対立的に考えて、対象を非難したりバッシングしたりするような風潮が目立ちますが、人を否定することによって良い結果が生み出されることはありません。お互いを尊重して関係をどういうふうに構築していくかという視点を取り入れ、パラダイムを対象非難から調和型・対話型に変えて行くべきではないでしょうか。そうしたことが、私たちの社会の中の潤い、つながりを実現していく非常に大きなキーワードになると思います。

これは、ほとんどあらゆる社会問題に通用する基本的な考え方であると思う。「物事を対立的に考えて、対象を非難したりバッシングしたりする」、北朝鮮非難、テロリスト非難、犯罪者非難、精神異常との決めつけ、力ある者に反抗しようとする者に対する取り締まり……、いずれも人を否定することであって、「お互いを、人として尊重し、よりよい関係を構築しよう」という意志が感じられない。対話の力をいかにすれば回復できるか?

 

国内人権機関の創設

2014年2月20日、日本弁護士連合会は、「国内人権機関の創設を求める意見書」を法務大臣及び外務大臣に提出した。本意見書の趣旨は次の通りである。(https://www.nichibenren.or.jp/activity/document/opinion/year/2014/140220_5.html

2012年(平成24年)9月19日及び同年11月9日、人権委員会設置法案が閣議決定され、国会に提出されたが、衆議院解散により廃案となった。子どものいじめ、障がい者の差別など社会の諸分野で人権救済のための公的な機関の設置が必要となっている。国連人権理事会の勧告をはじめ、国連人権条約諸機関は、日本政府に対して、再三にわたりパリ原則に則った国内人権機関を早急に設置することを求めている。これらの要請に鑑みて、当連合会は、引き続き、政府から独立した国内人権機関の早期設立を強く求めるものである。

国内人権機関とは何か、パリ原則とは何かについては、本意見書を参照願うとして、「子どものいじめ」関連部分のみとりあげよう。本意見書の「3. 日本において国内人権機関がとりわけ必要な理由」として、3つの理由が挙げられている。

日本においては,近年ではとりわけ次のような人権侵害事例が頻発し,それら人権侵害に対する対策が喫緊の課題となっている。

(1) 子どものいじめ・体罰・虐待問題解決のために

日本においては学校,会社をはじめとする人の集合体の中で,その構成員が他の構成員から肉体的,精神的苦痛を伴うような,いわゆるいじめを受けるということが,日常的に多くある。また,いじめは,学校を舞台として生ずる病理現象であり,教師による体罰,競争主義的な教育環境などが複雑に絡み合って生まれる。学校社会におけるいじめだけでなく,子どもに対する学校や家庭など全ての生活場面における体罰,虐待,屈辱的な取扱いは,日本社会が解決すべき大きな人権課題とされている。

国連子どもの権利委員会は,このような子どもの人権状況に懸念を示し,日本政府に対して,過去3回にわたって,パリ原則に沿った独立した監視機関の設置を勧告している。いじめによる自殺が社会問題となるなかで,2013年(平成25年)いじめ防止対策推進法が成立した。しかし,いじめ防止対策推進法は,重大ないじめ事案への対処として,学校・地方公共団体に調査を行う組織・機関を設置すると定めているが,いじめ防止の目的も含め常設の子どもの権利に関する第三者機関を設けていない。しかも,いじめを受けた子どもといじめを行った子どもの二者間の問題としてのみ捉え,被害者に対してはケアを,加害者には規範意識をという構造であり,加害者も援助が必要な子どもであるという視点がない。現在,全国の少なからぬ自治体では,いじめ問題調査のための第三者委員会を設置するようになってきているが,その多くが事件発生後,特例的に設置されるものであり,委員の選任,調査権限,勧告権限等について透明性と公正性が担保されておらず,自らの事務局を持たないなどその独立性も希薄であり,本来の人権救済機関とはほど遠い。子どもの人権の伸長,救済,侵害の予防のためにも国内人権機関の設置が必要である。

(2) 障がいのある人の権利救済のために…略

(3) 公権力による人権侵害救済のために…略

国内人権機関については、また別の機会にふれるとして、ここでは、「子どものいじめ・体罰・虐待」が、明らかに人権侵害であるとして、その対策が喫緊の課題であるとしていることを確認しておこう。

「被害者に対してはケアを,加害者には規範意識をという構造」というのは、先ほどの山下の話から分かるように、「病理モデル」を採用しており、「応報的司法」の考え方に立っているということである。

第三者委員会が、「委員の選任,調査権限,勧告権限等について透明性と公正性が担保されておらず,自らの事務局を持たないなどその独立性も希薄であり,本来の人権救済機関とはほど遠い」というのは、その通りだろうと思う。(前回までの記事参照ください)

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法務省の「いじめ問題に関する緊急メッセージ」

法務省の人権擁護機関である人権擁護委員の全国組織である「全国人権擁護委員連合会」は、次のような緊急メッセージを発している。(http://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken02_00026.html

平成24年(2012年)8月8日 「いじめ問題に関する緊急メッセージ」

平成27年(2015年)7月24日 「いじめ問題に関する再度の緊急メッセージ」

平成29年(2017年)7月12日 「いじめ問題に関する再度の緊急メッセージ」

いじめが人権問題であることを、法務省は以前より認識している。

 

福井中2自殺 担任らの告発について

さて、冒頭の福井池田中2の生徒が自殺した問題で、市民団体が担任、副担任、校長を業務上過失致死の疑いで、地検に告発した件をどう考えたらよいだろうか。

  • 地検が起訴し裁判になれば、既存の法の解釈により、有罪か無罪、有罪なら5年以下の懲役/禁錮/100万円以下の罰金となる。
  • 市民団体の代表は「告発を通じて真相解明と再発防止の徹底を求める考えを示した」というが、事実認定が行われたとしても、「真相解明」がなされるか疑問である。どういう意味の「真相」を期待しているのか分からないが、木下のいう「背景」が明らかになることはないと思われる。事実認定は、再発防止を視野に入れて、原因を深く追求するというものではないと考える。
  • 「再発防止」は、裁判の範疇にはない。再発防止策の検討は、事故調査委員会の役割だろう。
  • しかるに事故調査委員会が、日弁連のいうように「委員の選任,調査権限,勧告権限等について透明性公正性が担保されておらず,自らの事務局を持たないなどその独立性も希薄であり,本来の人権救済機関とはほど遠い」のであれば、再発防止は期待できない。
  • 教育委員会は告発されていない。校長が管理責任を問われるのであれば、教育委員会監督責任はどうなるのであろうか。
  • とはいえ、この告発が全く無意味だとも思わない。事実認定において、事故調査委員会が明らかにした事実とは異なる、あるいはまた新たな事実が明らかになれば、それは将来につながるものになるかもしれない。

*1:割れ窓理論(Broken Windows Theory)とは、軽微な犯罪も徹底的に取り締まることで、凶悪犯罪を含めた犯罪を抑止できるとする環境犯罪学上の理論。アメリカの犯罪学者ジョージ・ケリングが考案した。「建物の窓が壊れているのを放置すると、誰も注意を払っていないという象徴になり、やがて他の窓もまもなく全て壊される」との考え方からこの名がある。(wikipedia