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レイシオ・デシデンダイ 「先例」に拘束されなければならないのか?

平野・亀本・服部『法哲学』(42) 

今回は、第5章 法的思考 第1節 法的思考とは何か 第5項 制定法主義と判例法主義 である

裁判官は、何を根拠に(何を判断基準として)判決を下しているのだろうか?

もし裁判員になったら、何を根拠に判断することになるのか? 非常識な(?)裁判官に物申すのか?

 

法源

裁判は実定法の適用という方式で行われる。何が裁判において適用されるべき実定法かに関しては、制定法主義をとる諸国と判例法主義をとる諸国とがある。制定法、慣習法、裁判先例、学説、条理等、実定法の存在形式を法源という。ここで制定法とは、我が国について言えば、国会によって制定された「法律」(ここでは憲法についても考えることにする)、法律の授権に基づき内閣及び省庁によって出された「命令」(政令・省令・規則など)、及び条例を指す。「法律」という言葉が、この意味での制定法と同義に使われることもある。

一般に、ドイツやフランス、日本など大陸法系(ローマ法系)の諸国は制定法主を採用し、イギリスやアメリカなど英米法系(コモン・ロー系)の諸国は判例法主を採用している。

法源とは何か。

法源とは、一般的に裁判官が裁判を行う際に基準となるものという意味である。…大陸法国においては、議会制定法が主要な法源であるのに対し、英米法国においては、裁判官による判例が第一次的な法源である。…法源としては普通、制定法、慣習法、判例法、条理の四つがあるとされる。(Wikipedia)

「裁判官が裁判を行う際に基準」とか「実定法の存在形式」を、法源(sources of the law)と呼ぶのは、随分と奇妙な言葉遣いである。「自然法の源泉(淵源)」としての「神」や「理性」を、法源と呼ぶのであれば、何となく分かるし、その話題はそれなりに面白いだろうが、ここでは「裁判官が裁判を行う際に基準となるものは何か」についての話であると受けとめておこう。

裁判官が裁判を行う際に「議会制定法」を基準にするのは、議会制民主主義を是とする限り、当然のことと思われる。ところが、イギリスやアメリカでは「判例法主義」を採用しているという。これはどういうものだろうか。

 

判例法主

判例法主義の下では、過去の裁判の先例が第一次的な法源とされる。この「第一次的」ということは、優先順位が高いという意味ではない。近代的な議会制民主主義の下では、議会による制定法が裁判先例に優先するのは当然である。「先例が第一次的法源である」とは、制定法がある場合でも、法は本来それを裁判で解釈・運用した先例として存在するという思想の表現である。したがってそこでは、裁判における制定法の解釈は、あくまで先例の考慮を通じてなされるべきものとされる。

「制定法がある場合でも、法は、本来それを裁判で解釈・運用した先例として存在する」とは、どういう意味だろうか。「法」を「ルール」と言い換えてみよう。「ルール」は「裁判」(争いごと、犯罪)が無ければ存在しない? これは明らかにおかしい。裁判とは関係なく、ルールの存在意義はある。

このような考え方は、古くから法律家階層が国家から相当程度独立して存在し、法曹一元制の下で裁判官を供給してきたイギリスのような国で初めて成立するものである。このような「司法権の優位」の思想は、今日ではイギリスよりもアメリカの法曹の間で相対的に強くなっている。

だとすれば、「判例法主義」は、法律家階層のための理論のようにも思える。「司法権の優位」というが、裁判官(法曹)は「神」ではないだろう。

この後、亀本(第5章担当)は、「判例法主義で第一次的法源とされる先例は、わが国でいう「判例」とは、意味の点でも、地位や役割の点でも若干異なる」として違いを説明しているが、それが重要な相違であるとも思えないので省略する。(後で、重要な相違だと思えばとりあげる)

 

先例はルールかケースか

「参考例としての先例」という側面をひとまずおけば、「先例」とは、「同一裁判所の過去の事件において採用された法規範である」という一応の定義を与えることができる。そこでは、その「法規範」がルールの性格を持つことが暗黙のうちに仮定されている。しかし、このように先例をルールとみる見解に対しては異論もある。

それは判例法思考の特徴を、制定法主義におけるのと同様、ルールに準拠する思考とみるのではなく、あくまで個々の事件の具体的事実に着目するところにみる。そのような思考を「ケース準拠型思考」と呼ぶことにしよう。もちろん判決は、一定の事実に関して下されるのであるから、その事実を何らかの観点から一般化または普遍化すれば、ルールが構成されることになる。その限りでケース準拠型思考は、「ルール準拠型思考」と両立する。 

「裁判官の先例」が、法規範であるとは、随分とおこがましい言い分のように聞こえる。「判決は、一定の事実に関して下されるのであるから、その事実を何らかの観点から一般化または普遍化すれば、ルールが構成されることになる」と言うが、議会において「法制化」されなければ、法規範にはなりえないと考える。

 

判決理由のスタイル

ルール準拠型思考との相違を強調し、ケース準拠型思考としての判例法思考の独自性を主張する見解は、判例法主義における実際の判決理由の書き方、特に先例の取り上げ方の技術に注目すると理解が容易になろう。

英米法の判決理由の標準的なタイプにおいては、当該事件と関連する過去のさまざまな先例をとりあげ、(実質的理由の説明を時に伴いつつも)この点が同じでこの点が違うという説明を延々と行うことがしばしばある。

これは英米法に、同種の事件については先例と同じ扱いを要求する「先例拘束の法理」が存在することとも密接に関係している。それ故、現在の事件について、一見類似する先例と異なる判決を裁判官が下そうと思えば、特に類似の先例を現在の事件と「区別」する技術が、判決の正当化にとって重要となる。もちろん、「先例拘束の法理」は絶対ではなく、場合によっては先例を「廃棄」する。即ち、実定法としての効力を喪失させることもできる。いずれにせよ、過去の先例との異同を細かく論じるという判決理由のスタイルの点では変わらない。

このようなスタイルは、制定法主義における一般的抽象的な法ルールの解釈という手法と一見異なる印象を与える。しかし、我が国のような制定法主義の裁判においても、判決理由に「先例」、」特に最高裁判決を引用することはよくあり、英米法の判決理由とのスタイル上の違いは、現在の事件に適用できない先例よりも、現在の事件が準拠すべき先例を引用する傾向が強いという点にある。

 

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「先例拘束の法理」に関連して、Wikipediaの「判例」の説明を参照しておこう。

判例(はんれい)とは、

  1. 裁判において具体的事件における裁判所が示した法律的判断のこと。
  2. 英米法において、第1の意味での判例のうち、「レイシオ・デシデンダイ」(ratio decidendi)として法的拘束力を有するもの。
  3. 第1又は第2の意味での判例が積み重なることによって形成される法規範(英米法)または実務上の法解釈(大陸法)のこと。この意味では、「判例」と言うこともある。

厳密な意味では、裁判所が示した判断全てを「判例」と呼ぶわけではなく、「一定の法律に関する解釈で、その法解釈が先例として、後に他の事件へ適用の可能性のあるもの」のみを「判例」と呼ぶ。判決の一部を取り出して、「先例」としての価値のある部分(レイシオ・デシデンダイ)のみが「判例」であるとの考え方もある。この場合、その部分に含まれない部分を「傍論」(オビタ・ディクタム)と言う。

判例は、「先例」としての重み付けがなされ、それ以後の判決に拘束力を持ち、影響を及ぼす。その根拠としては、「法の公平性維持」が挙げられる。つまり、「同類・同系統の訴訟・事件に対して、裁判官によって判決が異なることは不公平である」という考え方である。なお、同類、同系統の事例に対して同様の判決が繰り返されて積み重なっていくと、その後の裁判に対する拘束力が一層強まり、不文法の一種である「判例法」を形成することになる。(Wikipedia)

レイシオ・デシデンダイとオビタ・ディクタムの区分は、大事なところだろう。

「一定の法律に関する解釈で、その法解釈が先例として、後に他の事件へ適用の可能性のあるもの」のみを「判例」と呼ぶのは、適切である。この意味で「先例」という言葉を使うことに異議はない。ある範囲で一般化可能な法解釈を「先例」として踏襲することは、「法の公平性維持」にとって望ましい。説得力の無い論拠で、先例(一定の法解釈)を踏襲しないことは、改革(革新)でも何でもない。

逆に、説得力の有る論拠で、先例(一定の法解釈)を踏襲しないのであれば、これは改革(革新)になりうる。

提出する論拠が説得力を持つか否かが、論点だろう。

 

日本における判例の地位

日本法でいう「判例」は通例、最高裁判決理由のうち、制定法の解釈をルールとし定式化したものを指す。後の裁判官が、最高裁判例を援用する場合、英米法におけるように、先例における事実と判決の関係を厳密に再検討した上で、先例拘束を標榜しつつも先例ルールの解釈を実質的に変更するというテクニックを使用することは少ない。判例ルールの再解釈を行う場合も、あたかもそれを制定法の条文とみなして、制定法解釈と同様の仕方で行うことが多い。

制定法の解釈が、先例と異なるのであれば、おそらくそれは事実認定の相違と一般条項の解釈の違いであろう。先例(判例、従前の解釈)は当然考慮しつつ、当該事案に即して解釈されなければならない。

判例法源性に関しては、「事実上の拘束力はあるが、法的な拘束力は無い」という説明がなされることが多い。これは多くの裁判官は、上告された場合に自己の判決が破棄されないことを望むから、最高裁判例を実際上考慮するが、最高裁判例に反する判断を下しても、それだけで違法となるわけではない、ということを意味する。というのは、最高裁の判断は間違っていることもあるし、最高裁自身が判例を変更することもあるからである。また形式的に言えば、憲法には、裁判官は「憲法および法律にのみ拘束される」とあるだけであり、「最高裁判例に拘束される」とは書いてないからである。

これに対して、法律については、裁判官が法律に反する判断をすれば、その法律が違憲の法律でないかぎり、違法となろう。しかし、法律に解釈の余地があるかぎり、「法律に従う」とは、自分が正しいと考える「法律の解釈に従う」ことに他ならない。この点で、法律の(規範的)「拘束力」も、判例の拘束力と同様、相対的なものであることに注意する必要がある。

最高裁判例の地位に関しては、法源制度との関連で考えるだけでなく、後にとりあげるように、判決の正当化との関連でも考察し、法律の可能な解釈のうちで他の解釈に優先するもの、従ってそれを覆すにはそれ相応の強い理由づけが必要なものと位置づけるのが適切であろう。

判例の拘束性について、

1998年の改正訴訟法は、ある判決が判例に反する場合は上告等の理由となるとして、判例の拘束性を増大させた。そうであっても、日本は実質的に法典法主義を採用しており、法律制度上はいわゆる判例拘束性の原理を採らない。とくに憲法39条のいう「適法」とは実定法のことであり判例法ではない。…現行制度は最高裁判所判例につきその変更は慎重な手続きを設けて、容易に変更が出来ないようにしており、またこれに反する下級審の裁判があったときには法令解釈の違背があるとして取り消すことができる。法令の安定的な解釈と事件を通しての事後的な法令解釈の統一を図るためであり、最高裁判所判例には後の裁判所の判断に対し拘束力があるものと解釈されている。(Wikipedia判例

制定法主義と判例法主義の区別云々よりも、先例拘束の法理の言わんとすることを理解することが大切だろうと思う。言葉遣いに惑わされなければ、きわめて常識的なことを言っているように思う。

では、裁判員は、何を根拠に判断すればよいか?