気の向くままに

井蛙は以って海を語るべからず、夏虫は以て冰を語るべからず、曲士は以て道を語るべからず

所有の「初期値」をなぜ問題にしないのか?

立岩真也『私的所有論』(3) 

第2章 私的所有の無根拠と根拠 第2節 自己制御→自己所有の論理 の続きである。

 自由は何も言わない

ある範囲のものが(全面的であるにせよ、一定の制約下にあるにせよ)その者の決定のもとにある時、その者の決定は「自由」であると言える。これは第1節に見た近代的所有権の特徴の第二点に関わる。また「個人」の自由という点を見れば、第一点にも関わる。…自らの行為、自らのあり方が他者から干渉されないことは、確かによいことなのかもしれない。

第1節で述べられていた近代所有権の特徴とは、次のようなものであった。

  1. 個人単位に、財に対する権利が配分されること
  2. 配分されたものについて独占的に自由な処分が認められること
  3. その権利は、ある者が実際にあるものを所持している、利用しているといった具体性から離れていること

誰だって、「自らの行為、自らのあり方」を、他人から指図されたり、妨害されたり、ケチをつけられたくはないだろう。そのように干渉されないことが「自由」である。では、立岩は何を問題にしているのか。

だが、ここで私が問題にしているのは、あるものx、誰かの決定に委ねられるものであろうxを、そもそも誰に配分するのかである。xについての決定を委ねられたAはそのことにおいて自由であると言えよう。しかし、同様にBもまたxについて自由でありうる。そして両者が同時に自由であることができるとは限らない。xをAのもとに置くべきか、Bのもとに置くべきか、「自由」はこれについて何も語らない自由というだけでは、Aにaに対する(aを取得する)自由があってBにないのは何故かという問いに答えることが出来ないのである。

Aはxについて決定できるなら自由である。Bもxについて決定できるなら自由である。しかし現実には、Bはxについての「決定権」を持たず、自由ではない。Bは何故、自由ではないのか。Bは何故、決定できないのか。自由論者は、Bが決定できない(=自由ではない)のは何故か、という問いに答えることができるのか。

個々人への割り当ての正当性の問題と、ある割り当てを前提した上での自己決定の原理の正当性あるいは有効性の問題とは別である。…例えば、いわゆる「社会主義」体制であっても、個々人の消費のための財は個々に分配される。そして、その消費について個々人は自由であり得る。各人が何か行うための資源の配分のあり方とその資源を使って行う各人の行為の決定とを別のものと考えることができる。このことは後の章で述べる。

「個々人への割り当て(=資源の配分のあり方)の正当性の問題」と「ある割り当てを前提した上での自己決定(=その資源を使って行う各人の行為の決定)の原理の正当性あるいは有効性の問題」とは、別問題である。自由を自己決定と同視して、初期値としての資源配分のあり方を不問に付すことはできないのである。後の章で詳論されるようだから、そのときに改めて考えてみよう。

さらに、決定の分散決定の集権化よりも好ましいものだとしても、それはある特定の、例えばこの社会における分散された決定のあり方を支持するものではない。これも単純な誤解である。自由や、決定の多様化という基準からは、別の(分散された)決定のあり方がより望ましいものとしてありうる。このような誤解が生ずるのは、私的所有の体制に対置されるものとして生産から消費の全過程についての中央集権だけを想定してしまうことによるだろう。

立岩は、「決定の分散」と「決定の集権化」という言い方をしている。ここで直ちに思い浮かぶのは、組織における集権と分権の問題である。

集権と分権とは,組織内において権限の配分が集中的になされているか,分散的になされているかの区別であるといわれる。経営学においては,たとえば,職能別組織において,トップ・マネジメントが製造・販売・研究開発などの活動に関する決定の権限を集中して所有していればいるほどその組織は集権的であるといわれ,反対にそのような権限が各下位単位に委譲されていればいるほど分権的であるといわれる。また権限をもつということは,同時に目的遂行に必要な資源をみずからの決定のもとに保有することを意味する。(世界大百科事典)

現代の組織(企業や官僚組織など)を考えてみれば分かる通り、諸活動に関する決定権限は、「職務権限表」(例えば、http://1st-corp.com/pdf/syokumukengenhyou.pdf 参照)に定められる(もちろん、規模・業種等により、項目内容は異なる)。権限移譲という言葉があることから分かる通り、諸活動に関する決定が、集権的か分権的かの二者択一でないことは言うまでもない。

立岩が「決定の分散が決定の集権化よりも好ましいものだとしても…」という言い方をしているのは、「決定の分散が好ましい」というか、「中央集権」を嫌う自由主義者を意識してのことだろう。

しかし、現代の組織を考えてみれば分かるように、「決定の分散」などというものはどこにもない空想物のように思える。せいぜいが、消費者の消費活動が、中央集権的に強制されていないというくらいのものだろう。これを「決定の分散」、「自由」などとして称揚すべきものなのだろうか。

行為の自由、生産行為の自由も認めるとしよう。以上で欠けているのは、①生産の自由でもなく、②消費の自由でもなく、①→②生産の結果を取得する自由だけであり、①→②の否定は、①生産の自由の否定ではなく、②消費の自由の否定でもない。①→②の自由[生産の結果を取得する自由]は(生産しない人の)②消費の自由の自由を妨げうる。財の帰属が定まった上で、その処分について自己決定の原理を採用することもできる。しばしば見受けられるのは、①②を不問に付したままで、①→②の自由[生産の結果を取得する自由]を自由とし、これをもって私的所有、市場を正当化したとする議論であるが、これは事態の一面を見落としているものであると言わなくてはならない。

「生産の結果を取得する自由」に関しては、「自己労働→自己所有」というおかしな論理 参照。

ここで「自由」という言葉を使うのはおかしい。「取得したものを利用・処分する自由」というのならわかるが、「取得する自由」などというものは考えられない。

 

続いて、第3節 効果による正当化と正当化の不可能性 である。

利益?(1)

「私のものは私のもの」という私的所有の観念はそれ以上根拠づけられない。これ自体を最終的な根源的な規範として設定するのにとどまるのでなければ、この規範から帰結する結果、こうした原理をとることによる効果によってこれを正当化しようとする

これはどういう意味だろうか。私的所有の観念をもつことの効果(利益)は何だろうか。

では、私的所有の体制は人々にどのような利益を与えるのか。私的所有の一番単純な擁護者は、この原理が自己(当事者)にとって有利であることを主張する。決定が自己決定である以上、それは自己にとって有利なはずだと言うのである。そしてこれを拡張し、例えば、市場は各々が各々の手持ちのものを処分する場であり、各々はそれによって利益を得ており、市場はそうした者達だけによって構成されているから、(取引で損をすると思う人は売りも買いもしない)、市場はそこに参加する者すべてに利益をもたらすと言う。市場において「パレート最適」が成立しているという場合、ごくごく簡単に言い切ってしまうなら、こうした事態のことが言われているのである。

パレート最適(パレート効率的)とは、

誰かの状況を改善しようとするとき,必ず他人の状況を悪化させてしまうような状況はパレート効率的であるという。全ての人の状況を同時に改善できるとき(あるいは同じことだが,少なくとも1 人の状況を改善でき,残りの全ての人の状況を悪化させないことが可能なとき),パレート改善の余地があるという。パレート改善の余地のないような状況がパレート効率的な状況である。(http://fs1.law.keio.ac.jp/~aso/micro/micro4.pdf

このような説明の仕方があるが、恐らく立岩の説明の方が分かりやすい。

随分単純な主張である。だが、そう簡単に否定できない。私たちはいつもいつも行為の自分にとっての帰結を意識しながら、十分な計算の上で行為しているとは言えないとしても、自分にとって損になるような行為は避けようとする、自分にとって良いと思える行為を選んでいるという気は確かにするからだ。所有の初期値を前提にすれば、自らの行為は自らにとって利益になる行為であり、交換は当事者の双方に利益をもたらすのであり、こうした行為によって構成される場はそのすべての者に利益をもたらすだろうと言う。そして、交換の当事者以外の者については、財の状態に変更はないのだから、少なくとも不利益は無い。「自己犠牲」や「利他的」な行為にしても、自らがすき好んで行う行為だと言えば言える。だから、こうした行為の存在はこの主張に対する反論にはならないとされる。AはBから得るものと引き換えに、自らが死んで(腎臓一個・肝臓の一部ならひとまず死なないが)臓器を差し出すことがあるかもしれない。両者は交換が行われる前より幸福になった。そうかもしれない。実際しばしばなされているのは、この類の、この水準の議論である。 

経済学の入門書には恐らくこのように書かれている。所有の初期値に言及することはない。「自由市場の経済学」にとって不都合なことなのだろうか。しかし、市場の参加者には、重大問題なはずである。カネがなければモノは変えない。所得(収入)が少なければ(稼ぎが悪ければ)、安物しか買えない。なぜ収入の多い人・少ない人が生ずるのか。…というような話は、経済学の対象にならないのだろうか。

 

f:id:shoyo3:20180203083114j:plain

東大生にピアノ経験者が圧倒的に多い理由(写真:tomos / PIXTA) http://toyokeizai.net/articles/-/161721

以上のようなことを述べ、それによって、私的所有・市場は―「完全情報の欠如」や「外部不経済」などの「市場の失敗」が起こる要因をここでひとまず考えに入れなければー正当なものであると言う。「自己決定」が妨げられる理由は何もないなどと言われる。私たちも何とはなくそういうものかなと思ってしまう。 

 所有の初期値を問題にしないパレート最適の話でもって、どうして私的所有・市場が正当化されるのだろうか。パレート最適の話と私的所有・市場の話が、論理的にどうつながるのか、不勉強なのでよく分からない。「自己決定」も、まだよく分からない。

しかしこの類の言説は、もし無前提にこのことだけが言われるのであれば、私的所有・自己決定の正当化の論理としては、全く論外である。にもかかわらずこの水準で「自由(主義)」を言い立てる者達がいるのは驚きだという以外にない。基本的に問われるべき問題、第1節にその所在を指摘した問題-第2節にみた論者達が自覚し、まがりなりにも規則を立てその正当化を図ろうとした問題―を最初から消去してしまっているからである。つまり、この類の主張は、所有、すなわち財の配分の初期値のあり方について何も言わない。右の有利であるという言明は、各々が手持ちのものを処分する時に、その処分は当の者にとって有利な処分であるというだけのことだった。これは、所有の初期値を問わずに前提する限りでだけ妥当な言明である。どのように配分されていても、それを前提としてそれ以降になされる自己決定・同意に基いた処分は、当事者に利益をもたらすとは言いうる。だがそれは、その「自己決定」の対象となる財の個々の主体への配分のあり方自体を正当化するものでは決してない。各自の身体の各自への配分にしてもそうである。これは全く自明のことだ。だが、これが呑気な自由主義者によってしばしば見逃されている。

所有(財の配分)の初期値の割り当てに着目し、その正当性が吟味されるべきなのだが、立岩いわく「呑気な自由主義者」はここを見逃す。

初期値と言った。しかしこれはただ一度だけ問題になるようなものではない。人は毎日行為し、生産している。ここで初期値とは、その、その都度その都度の各自の持ち分のことなのである。それはその都度その都度の各自の取り分の差をもたらす。

現在生きている人の初期値だけが問題なのではない。人は生まれ、死んでいく。人は生きていく中で、様々に変化する。その都度の持ち分は、いかにあるべきなのか。