浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

不可解・不明瞭な、「消極的自由」と「積極的自由」

久米郁男他『政治学』(4)

今回は、第3章 自由と自由主義 第2節 古典的自由主義の展開 の続き。バーリン(1909-1997)の「消極的自由」と「積極的自由」が説明されている。

消極的自由と積極的自由

バーリンの説明によれば、消極的自由とは、ある人がいかなる他者からの干渉も受けずに、自分のやりたいことを行い、自分がそうありたいようにあることを放任されている場合に、その人が「自由」であるとみなす考え方である。それはまさに、「〇〇からの自由」という形に書き換えられるものである。それに対して、積極的自由とは、ある人があれよりもこれを行うこと、そうあるよりこうあることを、自らが主体的に決定できる際に、その人が自由であるとみなすという考え方である。これはまさに「自律」としての自由、もしくは自分が自分の支配者であるという意味での「自己支配」としての自由である。例えば若いサッカー選手が練習をさぼりたいという誘惑を克服して、Jリーグ入りしたいという自分の夢の実現のためトレーニングに励むとき、彼は積極的な意味で自由なのである。

これだけの説明ではよく分からない。もう少し読み進めよう。

バーリンは、この積極的自由の概念に対して、きわめて批判的である。というのも、先ほどの例で言えば、つい誘惑に負けてしまう意志の弱い選手を殴りつけても練習させる鬼コーチの存在が、選手の積極的な意味での自由にとって必要だ、という論法が忍び込みかねないからである。このような論法が政治や社会のレベルに押し広げられた場合、それは最終的には極めて危険な帰結をもたらしかねない。即ち、判断力の未熟な個人に代わって、国家や階級や民族という個人の上位に立つ全体的な存在が、より合理的な選択肢を個人にあてがうという「自由への強制」という事態まで進みかねないというのである。こういった事態としてバーリンが想定しているのは、第一義的にはファシズム共産主義であろう。それとともに彼は、第三世界の新興独立国のナショナリズムや、第3節で説明するグリーンが求めたようなある種の福祉国家の構想に対しても、それらが消極的自由を損ないかねないとして批判的である。

バーリンが「積極的自由」に批判的なのは、それが「自由への強制」につながり、「ファシズム共産主義」に至ると考えているかららしいが、「積極的自由」の意味がどうもよく分からない。、wikipediaの説明をみてみよう。

消極的自由他者の権力に従わない状態他者の強制的干渉が不在の状態を意味する。

積極的自由は、自己実現や「能力」(capability)によって規定される概念であり、自己の意志を実現しうること、能力のあることが自由である。自己の行為や生が自己の意志や決定に基づいているかどうか、自己自身を律しうる自立した状態にあるかどうかという観点から見た自由である。そのように基づいていることが自由、そのような肯定的な状態にあることが自由なのである。

両者の区別は、自由という語の解釈の違いと平行するものでもある。自由を他者に従わないことと見れば消極的自由の側面が現れ、自己自身に従うことと見れば積極的自由の側面が現れることとなる。消極的自由は「~からの自由(liberty from)」、積極的自由は「~への自由(liberty to)」とも呼ばれる。(wikipedia、消極的自由) 

 この説明で、何となく分かるような気がする。消極的自由とは、ある行為をするにあたり、他者の強制や干渉がないこと、積極的自由とは、ある行為をするにあたり、自らの意思で行うこと。…このように言えば、同じことを表現を変えて言っているだけのようにも思える。積極的自由は、次のようにも言い換えられる。自らの意思で行う、自らが主体的に決定する、自分の立てた規範に従って行動する、自分が自分の支配者であるなど。

しかし、バーリンは「判断力の未熟な個人に代わって、国家や階級や民族という個人の上位に立つ全体的な存在が、より合理的な選択肢を個人にあてがうという自由への強制という事態まで進みかねない」という。ここがよく分からないところである。「判断力の未熟な個人」は、ある行為をするにあたり、自らの意思で行うことが出来ない、即ち「積極的自由」を行使しえない。だからといって、何故「国家や階級や民族という個人の上位に立つ全体的な存在が、より合理的な選択肢を個人にあてがう」事態になると言えるのか。「国家や階級や民族という個人の上位に立つ全体的な存在」は、「ファシズム共産主義」を念頭においてのものであろうが、そのような「全体的な存在」が、「合理的な選択肢を個人にあてがう」とは、何のことを言っているのだろうか。バーリンの著作を読めばわかるのかもしれないが、この説明では何を言わんとしているのか全く分からない。仮に「合理的な選択肢」であるなら、それを「判断力の未熟な個人」(子どもや専門知識の無い素人)に指し示すことは、望ましいことではないのか。「判断力の未熟な個人」(子どもや専門知識の無い素人)に、「民主主義国家」が、「正確な情報」を提供し、「ある行為をするにあたり、自らの意思で行うこと」ができるよう手助けすること(これを「強制」と呼ぶのは適切ではない)は良くないことなのだろうか。

では「消極的自由」はどうだろうか。本書は、「消極的自由とは、ある人がいかなる他者からの干渉も受けずに、自分のやりたいことを行い、自分がそうありたいようにあることを放任されている場合に、その人が自由であるとみなす考え方」と言い、wikipediaは、「消極的自由は、他者の権力に従わない状態、他者の強制的干渉が不在の状態を意味する」と言う。これだけの説明では、「かまってくれるな、何をしようと俺の勝手だ」という自由と何が違うのか、よく分からない。

 

積極的自由の概念が、直ちに全体主義的な「自由への強制」に結び付くかどうかは、議論の分かれるところであろう。全体主義への批判という点ではバーリンに同意するとしても、積極的自由と呼ばれる自由の観念が、別の方向に展開していったなら、それは必ずしもバーリンが危惧するようなものとはならないと見る見方もあるからである。リベラルな国家が実際に存続しうるか否かは、結局のところ、それを構成する個人のあり方に左右されざるをえない。そうである以上、自由主義にとって個人の選択能力の問題は簡単に議論の俎上から排除できるものではない。積極的自由が、人間の内面を国家が直接支配するという抑圧的な方向ではなく、個人の選択の外的な条件整備という方向に展開するなら、それは個人の自由をむしろ強化していくことになるのではないか。すなわち、一定程度の豊かで健康的な生活や十分な教育が保障されてはじめて、各人は本人の望むような選択を行うことが出来るのである。こういう見方の登場によって、古典的自由主義は19世紀末から20世紀初頭にかけて大きな変貌を遂げることになる。福祉国家自由主義の登場である。

積極的自由の概念が、直ちに全体主義的な「自由への強制」に結び付くかどうかは、議論の分かれるところであろう。全体主義への批判という点ではバーリンに同意するとしても、積極的自由と呼ばれる自由の観念が、別の方向に展開していったなら、それは必ずしもバーリンが危惧するようなものとはならないと見る見方もあるからである。リベラルな国家が実際に存続しうるか否かは、結局のところ、それを構成する個人のあり方に左右されざるをえない。そうである以上、自由主義にとって個人の選択能力の問題は簡単に議論の俎上から排除できるものではない。積極的自由が、人間の内面を国家が直接支配するという抑圧的な方向ではなく、個人の選択の外的な条件整備という方向に展開するなら、それは個人の自由をむしろ強化していくことになるのではないか。すなわち、一定程度の豊かで健康的な生活や十分な教育が保障されてはじめて、各人は本人の望むような選択を行うことが出来るのである。こういう見方の登場によって、古典的自由主義は19世紀末から20世紀初頭にかけて大きな変貌を遂げることになる。福祉国家自由主義の登場である。(本書)

積極的自由の概念が、全体主義的な「自由への強制」に結び付くかどうかは、重要な論点だとは思うが、議論が紹介されていないので、ここではこれ以上ふれないでおく。(「リベラルな国家が実際に存続しうるか否かは、結局のところ、それを構成する個人のあり方に左右されざるをえない」というのは、全くの舌足らずで、「議論」になっていない)

「個人の選択の外的な条件整備」というのも、よく分からない。「一定程度の豊かで健康的な生活や十分な教育が保障されてはじめて、各人は本人の望むような選択を行うことが出来る」というのも分からない。そもそも、何を選択しようというのだろうか。その選択が、健康的な生活や教育とどう関係してくるというのだろうか。

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http://www.lifehack.org/articles/communication/15-life-lessons-from-banksy-street-art-that-will-leave-you-lost-for-words.html

 

積極的自由への批判

消極的自由を是とする者は、積極的自由を批判する。Wikipediaによれば、次のような批判である。

積極的自由が自己の意志に従うことができることによって規定されることから、その「自己」が「我々」や「投影された自己としての理想的他者」、あるいはより一般的には「本来の自己」に横ずれすれば、真に自己の意志に基づいてなされた行為までも規制することが可能となり、パターナリズムの一種に他ならない、また、特定の立場の人々の自己実現を容易にするために、他者の自由な行動を犠牲にすることを容認する結果となる、などの理由から容易に他者による支配を肯定してしまう。…積極的自由は、むしろ自由の正反対で全体主義にも繋がりかねない危険な概念である。

どうにもよくわからない論理である。「横ずれ」とは何? 横方向にずれること? 「自己」が「我々」にずれる? 「自己」が「本来の自己」にずれる? もう少し具体的に言ってもらわないと、話が通じない。「自己」が「我々」に置き換わる、といったほどの意味かと推測するが…。

「横ずれすれば~」と言うが、「自己が我々に置き換われば~」という意味だとすると、実際にそのようなことがあり得るのか。論理的にありえず、歴史的現実としてもそんなことがあったとは考えられない。ファシズム共産主義がそうだと言いたいのかもしれないが、それを「自己が我々に置き換わり、他者による支配を肯定する」ことになるというのは、「積極的自由」の歪んだ解釈であるように思われる。ファシズム共産主義が何故生じたのかの分析なしに、安易に「積極的自由」に結びつけたところで説得力はない。「積極的自由は、むしろ自由の正反対で全体主義にも繋がりかねない危険な概念である」というのは、「全体主義ダメ」から「積極的自由ダメ」、「消極的自由ヨシ」にもっていこうとする誤った議論だろう。

「AがBになれば、Cになる」というのは、「AがBにならなければ、Cにはならない」ということである。Cが「悪」だとすれば、AがBになる(可能性が高い)か否かが問題であるはずだ。

 

Wikipediaはまた、「経済思想との関係」について、次のように述べる。

消極的自由を信奉する古典的自由主義は、個々人の利己主義がその意図せざる結果として社会公共の利益(最大多数の最大幸福)を達成すると説くアダム・スミス以来の見えざる手を信頼するものであった。

それに対し、社会公共の利益を達成する手段としては、利己心(見えざる手)のみに信頼することはできないとして、積極的自由を推奨する現代のリベラリズムが登場した。この立場では、見えざる手を補完するものとして、不完全雇用均衡を是正するためのケインズ政策などによる政府の意図的な介入が是認されることになる。

一方、現代のリベラリズムが、社会主義を起源とする福祉国家的施策を容認する社会民主主義的な弱者救済思想との親和性を高めるに至ったとして、これが結局個人の消極的自由を侵害することになると批判し、古典的な自由主義の立場を再主張する思想がリバタリアニズムである。この立場では、政府の意図的な干渉は、帰結主義的には最大多数の最大幸福を達するためにはかえって有害であり、自然権的には自明の理とされる私的所有権を侵害するものとして捉えられる。現在では、消極的自由を信奉する立場を指す用語として、古典的自由主義の系譜に属するリバタリアニズムという用語が使われるようになった

 図式的には、

 消極的自由主義古典的自由主義リバタリアニズム

 積極的自由主義-現代のリベラリズム

になるのであろう。こういう分類は、それなりに見通しをよくするものではあるが、ラベル(レッテル)を貼って、「リバタリアニズム」だからダメ、「リベラリズム」だらヨシ、というように対立を煽るものとして受け止めるべきではない。「消極的自由主義」、「積極的自由主義」いずれにも、傾聴すべき主張があるだろうから、具体的な行動やルールをめぐって、話し合い(議論)による合意を目指すべきである。

不明瞭な抽象論で、議論しても得るものはないように思われる。