気の向くままに

井蛙は以って海を語るべからず、夏虫は以て冰を語るべからず、曲士は以て道を語るべからず

「労働→所有」図式 再起動(restart)によりバージョンアップする

立岩真也『私的所有論』(4) 

今回は、第2章 私的所有の無根拠と根拠 の(注14)をとりあげる。

第1 この労働→所有の図式に乗った上で、個々の取り分を問題にする主張が大きな勢力としてあった(マルクス主義の搾取の議論)。…本来は自分に帰属すべき自分のものが相手にとられるという論理が基本的に取られている。だが基本的な問題は、例えば労働市場で実際に設定されている労賃とは別の、正当な評価をどこから導出するかなのだが、この点に関して充分に説得力のあり一般的に妥当する説明がなされているかが問題である。…誰が、なぜ、何について、誰に対して、どのような基準で、いくら払うのが本来の支払いなのかが明らかにされていないのである。…仮に妥当な基準を設定できたとしても、これは生産しない者には、また個々人の間の生産性の差には言及しない論理である。つまり能力主義そのものを問題にすることはない。ゆえに本書で扱う問いに対する基本的な答えとなることが出来ない。

労働→所有の図式については、「自己労働→自己所有」というおかしな論理 参照。

本来の支払い(正当な評価)を算定する妥当な基準はどのようなものであるか。しかし立岩が言わんとするのは、妥当な基準が設定できたとしても、能力主義そのものを問題にすることはないので、立岩の問いに対する答えにはならないということである。

第2 この論理から配分の(再)開始の可能性がある(あった)はずである。多くの未開の土地をてんでに開拓し始め、そこに暴力など全く存在しなかったといった場合がそうあるとは考えられない。過去から現在に引き継がれている財の配置が、その時々の自己労働による取得によるものではなかったと見る方が現実の即している。

強奪や武力による占有(原始取得)の後、それを承継してきたとみるほうが現実に即した見方であり、「その時々の自己労働による取得」ではなかった。

ならば、全てを一度ご破算にしてもよいはずだ。全員が一線のスタートラインに並んで、スタートの号令と共に耕しだすとか、柵で囲い始めるとか、それが非現実的なら、最初に与えられる土地や資材をひとまず均等に配分するとか、ともかく全てを最初から始めればよい。

立岩のこの言葉も、「厚顔無恥」な人には響かないだろう。自分がいかに「厚顔無知」であるかを理解できるレベルの人ならば、「全てを一度ご破算にしてみる」というアイデアには考えさせられるだろう。

もちろん、実際にそんなことが市民革命の時代に起こったわけではない。この時期の論者の論理は、――例えば皆が合議の上で配分を決定したとか、労働による取得によって所有が決まってきたというような、歴史的現実からは乖離した自然状態を、現実の状態に連続させ、この状態を政治社会が確定(承認)するといった形をとることによって、現状改革的な性格が薄くなってしまった(薄くなるように構成されていた)。けれども、[配分を]再開始しようと言わなかったのは、彼らが自らの前提に忠実でなかったのだと考えることも出来る。

一見合理的な(納得できそうな)前提から、不合理な(納得できそうもない)現実を導くことによって、現実を肯定するという手口は要注意である。結論に違和感を覚えたら、前提と推論を再検討すべきである。

彼らのような用い方でこの論理を用いる必然性はなく、リセット、再起動するという方法はこの論理の内部で可能である。実際、少数の地主が土地の大半を所有し、多くの農民が地主に隷属しているといった状態に比べて、これはよほどましなやり方だと多くの人は思うだろうし、こうした状態の変革として20世紀の革命の多くも起こったのだった。このことに――自己労働の自己取得という論理が再起動を正当化する唯一の論理ではないとしても――歴史的な意味が確かにあっただろう。 

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 http://www.strategic.com/blog/2016/qad-enterprise-edition-time-come/

 

現在は、「ご破算にする」というより、「リセットする」とか「再起動(restart)する」といったほうが通じやすい。ここで、再起動(restart)を正当化する論理が、「自己労働→自己取得」ではない、ということに留意する必要がある。

第3 自分の働きの範囲で受け取るという主張が、途方もない格差の存在という現実を否定し、皆がそこそこ暮らしていけるという状態を想定させるものであったことが、この主張を支持させる要因であっただろう。ただ、ロックの場合に見られるように、貨幣の使用や雇用関係の導入によってこのつましい状態は破られうる。

「途方もない格差の存在という現実を否定し、皆がそこそこ暮らしていけるという状態を想定させる」主張[自分の働きの範囲で受け取る]は、イデオロギーと呼ばれるにふさわしいだろう。

第4 第3点に関連して重要なのは,贈与をどう扱うかという問題の存在である。働いて得たものしか取得してはならない論理だけであれば、贈与は禁止あるいは制限される。しかし、働いて得たものの処分が本人に委ねられるなら贈与は制限されない。贈与が許容され、財が世代に渡って贈与されることによって、世代間の蓄積が行われ、格差が拡大していくことが考えられる。つまり労働による所有という時に、労働による所有に重点を置くか、それとも所有権の保護に重点を置くかによって変わってくる。私的所有権の原理は、後者を認める。処分権を認めるということは、それをどう使おうが構わないということであり、その中に贈与も含まれる。

労働による所有というとき、①働いて得たものしか取得してはならない。②働いて得たものは、自由に処分しても良い。と解されるが、贈与(相続)を考えれば容易に分かるように、①と②は矛盾する。なお、私的所有権に関して言えば、私は、処分権を含まない排他的利用権がありではないかと考えている。

ただ原則を修正あるいは変更し、自分が働いた分しか受け取ってはならないという原則をとることもできる。

「自分が働いた分」がどれだけであるかを妥当な基準で合意できなければ、これは無理だろう。

また、第3節で見る機能主義的な正当化の論理を使い、勤労意欲を削ぐ結果になるといった主張をしなければ、あるいはこの要因をあまり重く見なければ――世代間の贈与は制限されるべきだということになるかもしれない。ここで明らかなことは、贈与が交換に対する反対物としての働きをするとはまったく限らないということである。一つは今述べたことである。

相続の「税率」は、相続財産の「所有権」の問題とからめて検討されるべきものだろう。

一つは、子どもの時など一時的であっても働くことが出来ない以上、社会を贈与という契機なしに存在させることは難しく、両者は組み合わされて使われているのであり、この意味でも交換に対抗する原理として贈与の契機を言うのは不用意である。ただ、このことを単に指摘するのでも不十分であり、後に「生産者」になる者については、親に扶養された子が次には親を扶養するといった時間をずらした交換関係を見込むことはできるし、親や雇用主や国家による労働力の生産についての費用の前払い(青田買い)を想定すること、また実際に行うことも不可能ではない。他方、生産者になる可能性がない人の場合には事情は異なる。「マルクス主義フェミニズム」の問題の一つは、こうしたことに対する注意深さに欠けている点にある。

「親に扶養された子が次には親を扶養するといった時間をずらした交換関係」は、少子高齢化の進展で不可能になりつつある。イデオロギー的には、シルバー民主主義を言い立てることにより世代間対立を煽り、このような交換関係さえも壊そうとしている。

第5 この労働→所有という主張は、――働きという言葉をどう捉えるかによるが――「労働に応じた配分」という主張と同じではない。これまで見てきたものは、働きの結果を自分のものにするということであり、その結果は苦労の度合いや労働の時間に比例するものではない。評価をしないと人がうまく働かないという次節に述べる事情を別としても、それなりの苦労をしたらそれは報われた方が良い、皆にとって良いことをしたならそれは評価されてよいという価値はあるだろうと思う。ただ、同じ時間だけ働き同じだけ苦労しても出てくる結果は異なりうる。ここでは結果の価値とは、それを自らが使用する場合には自らにとっての、相手に提供する場合には相手にとっての価値のことであり、労働自体の価値ではないその価値は相手に依存するし、その者が提供できる財の性質にも依存する

「皆にとって良いことをしたならそれは評価されてよい」、確かにそうなのだ。それは、労働自体の価値によるものではない。ましてや労働時間とはほとんど関係ない。「皆にとって良いこと」、それが何であるかを問題にし、究明すべきである。