気の向くままに

井蛙は以って海を語るべからず、夏虫は以て冰を語るべからず、曲士は以て道を語るべからず

統覚(統合能力)とは

木下清一郎『心の起源』(22)

今回は、第4章 心のはたらく「場」 第3節 統覚なしには心は生まれない である。

統合能力の存在

自己回帰が働くと、瞬間の堆積はやがて時間となり、位置の堆積はやがて空間になると述べた(時空の特性)。また、原因と結果の堆積は論理となり(論理の特性)、快・不快の感覚の堆積は感情になるとも述べた(感情の特性)。しかし、いずれの場合にも個別の記憶情報が堆積することと、最終的に生成される時間や空間、論理や感情などとの間には、大きな飛躍がある。

第2節 時空・論理・感情 で、「記憶と照合の相互作用によって情報の自己回帰が始まり、そこから時空・論理・感情の特性が生みだされる」という話があった。(前回の 記憶から、時間・空間、論理、感情が導き出される 参照)

自己回帰というのは、記憶と照合の相互作用のことを言っているのだと理解しておこう。この自己回帰から、時間・空間・論理・感情が生成されると言われても、もう一つよく分からないものであったが、私にとっての、その分からなさは、「意識」(心)を持たない生命体にとって、「時間・空間・論理・感情」がどういうものであるかが想像できないということであった。しかし、木下がここで言わんとするのはそういうことではなく、「瞬間、位置、原因と結果、快・不快」の堆積が、そのままでは、「時間、空間、論理、感情」になることはなく、そこに飛躍があるということである。

例えば、瞬間の記憶をどれほど循環させても、所詮それは瞬間の堆積であるにとどまるだけで時間にはならないし、位置の記憶をどれほど循環させても、それは位置の堆積にとどまるだけで空間にはならない。離散的な瞬間の集合を連続的な時間とし、離散的な位置の集合を連続的な空間とするものが予め備わっていなければ、時間と空間はあらわれてこないはずである。論理や感情の特性についても全く同じで…(以下、略)。

結局、記憶からこれらの特性が生じてくるには、単に記憶と照合のあいだを情報が往復し循環するだけでは不十分であって、離散的なものを堆積しておいてそのなかに連続的なものを見出す能力、つまり「経験できるもの」から「経験できないもの」を抽出する能力を、予め持っていなくてはならないということである。こういう性格を持った能力を果たして何と呼ぶべきか、私たちは実はまだ知らないのであるが、ここでは哲学の用語を借りて仮に「統覚」(apperzeption、 apperception)と呼んでおこうと思う。

時間・空間は「連続的」であるから、瞬間や位置の堆積のような「離散的」のものの集合から、「連続的」な時間や空間は生じないというのであろう。時間や空間が「連続的」であるかどうかは分からない。それは「公理」ではないかと思うが、それを前提すれば、確かに「離散的なものの堆積から、連続的なものを見出す能力」が要請されるように思われる。木下はこれを「統覚」と呼んでいるが、小見出しにあるように「統合能力」と呼んだほうが分りやすい。

 

離散性と連続性

ところが、離散したものを連続化するといってもそう簡単なことではない。この二つは全く対立するものであって、その間には越えがたい溝が横たわっている。再び時間を例にとってみるならば、瞬間という離散的な部分を堆積していたはずであるのに、それがいったん連続的な時間になってしまえば、それは無限に分割可能になる。するとここでたちまち、無限に分割できるもの(時間)が有限な部分(瞬間)の総和であるはずがないという矛盾に陥ってしまう。有限から無限へはそのまま移行できない。離散と連続の間を隔てる溝とは、「無限」という越えがたい深淵であった。

そうしてみると、無限というものは心の発生と共に現れていながら、未だに謎のままで何人の接近も許さないままになっている。それはギリシャ数学では「数」の離散性と「量」の連続性についての論争となったし、ゼノンが記した「アキレスは亀に追いつけない」「飛ぶ矢は止まっている」などのパラドックスは、有限と無限の間にある埋めがたい間隙から湧き出してきたものであった。いまそのことに深入りしようというのではないが、心の働きでは、離散したものから連続したものを、いともやすやすと生み出しているのをみれば、統覚とはどういう性格をもったものなのか、少しばかりみておく必要がある。

連続性-無限の話は、難しい。ゼノンのパラドックスは解決したのだろうか*1。…「離散的なものの堆積から、連続的なものを見出す能力」(統覚)を論ずるのに、数学的に厳密な「無限」の概念が必要であるとは思われない。

 

統覚は生得的か獲得的か

統覚を定義しようとしても定義しきれないところがあって、おそらく無定義概念の一つとせねばならないのであろう。しかし、いまは離散的なものと連続的なものとをつなげる能力としての統覚を考えようとしているので、そのことだけに着目して「統覚とは離散的なものを連続的なものの部分として把握させる能力である」としておこう。

哲学的な「統覚」の議論*2はいろいろあるのだろうが、ここでは木下に従い「統覚とは離散的なものを連続的なものの部分として把握させる能力である」(統合能力)、もっと簡単に「バラバラなものを関連づける能力」と理解しておこう。

心を支える枠組みとして時空・論理・感情の特性をあげたときに、これらの特性の根底には根元的要素が潜んでいるかもしれないと述べたが、その根元的要素とは実は統覚であった。その統覚とはどこから生まれるものであろう。記憶が照合を伴い、両者の循環による情報の自己回帰とともに統覚が現れていることはすでに述べた。記憶と統覚の出現の後先を考えると、記憶の後から統覚が生まれたのではなく、むしろ記憶に先だって(あるいは記憶と同時に)あったとしなくてはならないであろう。ところが記憶がすでに生得的な能力であるとすれば、統覚もまた生得的なものと見做さねばなるまい。

記憶が生得的な能力であるか獲得的な能力であるかについては、以前の記事 記憶 参照。統覚(統合能力)が生得的なものであるというのはその通りだろう。(というか、その由来を分析できそうもないから、生得的としているのか?)

しかし、ここで生得的といっていることには、幾分の留保を付しておかねばならない。確かに経験に先だって統覚を所有しているという意味では生得的であるが、統覚は経験によってはじめて経験に基づかないものを抽出してくるのであるから、統覚の働きが顕在化するには経験が必要であり、経験が入ってこない限り統覚はいつまでも潜在的能力にとどまっている。まして統覚の顕在化には個体の発生時期にある臨界期があったとすればどうであろう(例の刷り込みにおけるように)。統覚とは一種の空白域をもった脳力であって、その能力自体は生得的であるが、しかしその空白域を何で埋めるかは全く経験によるのであって、その意味では獲得的であるという極めて微妙なことになる。統覚とはまさしく生得的と獲得的の中間にあることになる。

さっと読めば、その通りだと思う。ただ統覚とは「離散的なものを連続的なものの部分として把握させる能力」と定義したのだから、「離散的なもの」が「感覚データ」である限り、既に「経験」を前提しており、「統覚の働きが顕在化するには経験が必要であり、経験が入ってこない限り統覚はいつまでも潜在的能力にとどまっている」という表現は紛らわしい。「経験が入ってこない」というのは、「離散的なもの」が存在しないということを意味しないか。そうだとすれば、定義により「統覚」は存在しないということにならないだろうか。

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https://www.slideshare.net/youichiromiyake/ss-48781470

 

視覚における統覚

統覚のこういう微妙な性格を示すと思われる例が、視覚の研究から得られている。視覚とは光の刺激が網膜で受容された後、中脳の視蓋や視床などを経て大脳の新皮質にある視覚野に入り、第一次から第五次まである視覚野を次々に送られて行って最終的に統合野に達し、そこで初めて成立する感覚である。網膜で受容されるのは離散的な光の刺激に過ぎないが、それが最終的には連続的な運動や図形の視覚として完成されるのであるから、大脳皮質のどこかで統覚が働いていると考えねばなるまい。これを最もよく示すのは錯視である。錯視では実際に存在しない図形や運動を、あたかも存在するかのように思い込ませる。これは統覚の仕業である。

この説明は分かりやすい。このようなものが「統覚」(統合能力、バラバラなものを関連づける能力)であると言われれば、なるほどと思う。

大脳新皮質では神経細胞が幾重にも積み重なって層状をなしているが、視覚野を機能の上から言えば、皮質の重層構造が縦に区切られて柱状に並んだ形になっており、この林立する柱状構造の一本ずつが機能の単位を為していることが最近になって分かってきた。視覚の情報は一本の柱の中を上下する間にある程度まで統合され、さらに何本かの柱を束ねたより大きい単位でより高次の統合が行われると考えられている。 

 「統覚」の物理的基盤が、大脳皮質の柱状構造なのであろう。

恐らく、この間に情報の自己回帰が行われていると想像される。記憶と照合とは相互に相手の原因となり、また結果ともなるという循環の関係にあることが、情報の自己回帰を生みだし、これによって情報の堆積と重層化が進むということを考えると、視覚情報が柱状構造で上下運動を行っていることの最大の意味は情報の自己回帰であって、それが統覚の一部分をなしているのであろう。

「この間に情報の自己回帰が行われている」とは、「柱状構造」の中で、バラバラなものを関連付ける情報の授受が行われている、という意味だろうか。それは実験で検証可能なようにも思える。

統覚が生得的であるか、経験的であるかを考えるのに、大事な鍵になる事実がある。生後のある期間だけ目を閉じたままにされて、光の刺激を与えられなかった動物は、その後になって目が開かれても、光の感覚はありながら視覚は成立しない(聴覚についても同じようなことがある)。生後のこの期間を臨界期と呼ぶが、目のあいている動物では、この間に統覚に相当する能力が経験によって作られるのであろう。これは視覚における統覚の能力がたとえ生得的なものであっても、それは潜在的な能力にとどまり、光の刺激という経験を媒介として、初めて実現されるものであることを示唆していると思う。時空・論理・感情といった心の枠組みをなしている要素については、それらが成立する際にこういう臨界期があるかどうかはまだ分かっていない…

ここは「臨界期」が論点であるが、「統合能力」が遺伝的基礎を持つとするならば、その発現条件との関連で、「臨界期」は当然予想されるところである。

 

「はたらきそのもの」へ

これまで考察した限りでは、記憶から時空・論理・感情の諸特性を生みだす根底にあって、私たちが仮に統覚と名づけた統合能力は、たとえ潜在的であるにせよ、生得的に与えられていると結論せざるを得なくなった。すると、心の働く「場」としての「枠組み」は生得的であるということになる。ただ、その生得的能力が現れるには、経験を媒介とする以外にないということも、また確かである。

心の働きは遺伝子に隷属しているのか、それともその支配から自由であるのかという問題には、まだ完全に答えられていないが、解答を見出せるとすればどのあたりにあるかについて、だいぶ絞り込まれてきたように見える。それは心の「はたらきそのもの」に求めるほかないということであろう。それが次の章の課題である。

心の働く「場」としての「枠組み」は生得的である。確かに、そのように思う。だが「生得的」ということは、「何かよく分からないが、そのようになっている」ということの言い換えであるようにも思える。

心の働きが、「遺伝子に隷属しているのか、それともその支配から自由であるのか」という問いは興味深い。

ここで立てた仮定は次のようである。

 (10) 心の体系の根底をなす仕組みは、「統覚」と仮に名付けた統合能力によってつくられる。統覚の潜在的能力は生得的に与えられているが、その顕在化には経験が必要であって、その意味では獲得的である。つまり、統覚は生得的と獲得的のちょうど中間にあるといえる。

*1:中村秀吉はいう。「自然はある意味で、無限の分割を嫌う。」「われわれは『自然は飛躍せず』のモットーを運動に具体化することによって、無限の操作を現実に必要とするような事態を経験的世界から放逐することができる。こうしてゼノンの分割とアキレスと亀パラドックスは成立しなくなるのである。」(wikipedia、ゼノンのパラドックス

*2:統覚…カントによれば、対象の成立には、直観の多様を起点として、覚知の総合、再現の総合、再認識の総合など、さまざまの段階における総合が必要である。そうした諸総合の根源に「われ思う」という意識の基本的同一性が前提されねばならない、として、これを先験的統覚あるいは純粋統覚と名づけた。先験的統覚は、認識作用には欠くことができない核心的能力であって、自己同一意識の根幹をなすものであるが、ただこれはあくまでも論理的統一であって、デカルトが実体概念と直結させたコギトとは別のものである。この先験的統覚は、のち新カント学派の手によって、超個人的主観へとさらに発展していくことになる。(武村泰男、日本大百科全書