浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「法の欠缺」(ルールの不存在)に、どう対処すべきか?

平野・亀本・服部『法哲学』(44) 

今回は、第5章 法的思考 第2節 制定法の適用と解釈 第1項 法の解釈とは何か である。*1

ここで「法」を、いろいろな組織、団体、グループの決め事、行動の手順(仮に「ルール」と呼んでおく)と考えれば、ルールの解釈というのは、(あまり意識しないかもしれないが)日常生活の大部分に関係してくる。

ルールがない、あるいは不明確である、というのはよくあることであるが、そのような場合どうするか。「法の解釈」とか、「法の欠缺(けんけつ)」というのは、こういう問題である。例えば、公務員の政治家に対する「忖度」、これが犯罪になるかどうかを考える場合、「法の解釈」、「法の欠缺」の議論が参考になるだろう。(今回の記事は、森友問題に直接ふれるものではありません)

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2018/3/16 毎日新聞 https://mainichi.jp/articles/20180316/ddm/001/040/169000c

 

法の解釈

「法の解釈」とは、法文を読んでその意味を明らかにすること、あるいは「意味」という不明確な言葉を使わずに言えば、法文の表現を別の表現で言い換えることを指す。それは、法解釈学の中心をなす営為である。「解釈に争いがある」とは、ある文Aが別の表現B、C、Dなどに言い換えられ、しかも、B、C、Dの意味が互いに異なるとされている状態のことである。…「法の解釈」が必要になるのは、法文の意味が必ずしも明白でないからである。

ルールは必ずしも文書化されているとは限らない。暗黙のルールというものもある。

法解釈学とは、

解釈法学ともいう。実定法の規範的意味内容を体系的,合理的に解明し,裁判における法の適用に影響を与えることを目的とする実用法学。実定法を構成する文字および文章の多義的な規範的意味内容を明確かつ一義的に確定していく作業が法の解釈であるが,この作業には,文理解釈,論理解釈,縮小解釈,目的論的解釈,反対解釈,勿論解釈,類推解釈などと呼ばれるものがある。(ブリタニカ国際大百科事典)

私は、既存の法の「解釈」よりも、「立法」(どのようなルールにすべきか)に関心があるのだが、現実にあるルールがどのように解釈されるのか(解釈されるべきなのか)を知らないで良いわけがなく、ルール制定の観点からも、解釈のありようが影響を及ぼす。(文理解釈等については、後で説明がある)

 

なぜ解釈が必要なのか

① 立法者が若干の具体的な事件または事件類型を念頭においていたとしても、立法技術上、条文を一般的抽象的な形で表現し、その具体的適用・解釈は、最初から判例の展開、ないしはそれを支援する法学の展開に委ねていることがある。
② ある条文の適用がその文言上は可能であるかに見えるが、実際には立法者が念頭においていなかった事件が裁判所に提起されることがある。
③ 立法者が全く予想しておらず、しかも該当する法律規定がないようにみえる事件が実際に起こる。

本書は裁判を念頭においてか「事件」と言っているが、「行為」と広く理解しておけばよい。

この3つは、ほとんど同じことを言っているようだ。状況や人間行動のすべてを、将来にわたって、細部まで規定することは出来ない。抽象的にならざるをえない。「ことば」が既に抽象である。立法者は抽象のレベルをどの程度にすべきかを考えながら、法文を作成している。

 

解釈の対象と目標

法の解釈の対象は、制定法の文章すなわち法文である。しかし、法文を手掛かりにして何を明らかにするのかということ、この意味での解釈の目標についてはそれほど明らかでない。解釈の目標については、それを立法者の意思におくものと、法律の客観的意味におくものとの間で対立がある。前者を立法者意思説、後者を法律意思説または客観説という。 

 何のために解釈するのか? それは上述の通り、条文が抽象的な形で表現されるからである。従って、現在の状況に適合的に、それを具体化すれば良いだろう。その際、立法者の意思は、一つの参考にはなるが、立法者の意思を明らかにすることが解釈の目標であるというのは理解しがたい。だからと言って、解釈の目標は、「法律そのものの客観的意味の解明にある」というのも分からない。「客観的意味」などあるはずがないのだから、抽象的な表現を、状況に応じて具体化(解釈)するしかない。(もちろん、法文からかけ離れた解釈が許されるわけではない)

なお、法律の解釈を、「立法時を基準にして行うか、適用時を基準にして行うか」の議論があるようだが、問題にする意味がよく分からないので省略する。

 

法の欠缺(けんけつ)

「法の欠缺」という言葉は聞きなれない言葉かもしれないが、ぜひ覚えておきたい。簡単に言えば、「法=ルールが存在しないようにみえる場合、どうしたらよいのだろうか」という問題である。

「法の欠缺」とは、事件が裁判所に提起されたのに、適用すべき法規範が既存の法源、とくに制定法の中に見出せない場合を指す、法解釈学上の専門用語である。

wikipediaの説明は、次の通りである。

ある問題に対して適用する法規が欠けている(存在しない)状態にあることを指す。成文法においては、文章で法規が書かれているため、その文章の範囲内でしか適用する事が出来ない。このため、立法当時の配慮の不足や立法後に生じた当時においては全く予想も出来なかった事例の発生などによって生じる場合がある。(wikipedia、欠缺)

本書の説明では、事件が裁判所に提起された後の裁判官だけの問題であるかのように思われ、興味を持てない。これでは、社会生活上での重要問題をスルーすることになるだろう。Wikipediaは、このような限定をせず、「ある問題」と言っているのはいいのだが、「法規(ルール)が存在するか否か」は、微妙な問題であること、「立法当時、将来ありうべき事例を考慮の結果、抽象的な文言にしていること(それゆえ一見ルールなしに見えること)」に言及してもよいのではないかと思われる。

制定法の欠缺の場合、罪刑法定主義をとる近代的な刑事裁判では被告人は無罪となる。民事裁判でも刑事裁判と同様、欠缺の場合原告敗訴というやり方もありうる。だが、近代的な民事裁判では、制定法の欠缺の場合、擬制や類推などの欠缺補充の技術を用いて、適用すべき法規を創造または発見するのが普通である。以下主として民事裁判を念頭において説明する。

法の欠缺(不存在)は、罪刑法定主義との関連でも考慮されなければならない。無条件に、民事と刑事を区分したら、ダブル・スタンダードにならないか。後で考えてみよう。

既にふれたように、どのような場合に欠缺が存在するかについては争いがある。上述の①の場合が、欠缺不存在で、狭義の解釈によって対応できる場合であることについては争いがない。だが、「正当」「相当」などの評価的な不確定概念を含む規定や一般条項などは、当初から立法者が裁判官に法創造の余地を残したもの、つまり意図的に欠缺を作ったものと解することもできる。これに対して、欠缺が存在し、裁判官による法の継続形成が必要となるのはどのような場合かということについては、それを②及び③の場合であるとする立場と、③の場合のみであるとする立場とがある。

上述の①は、条文は抽象的な形で表現されるという話なので、欠缺不存在=抽象的な形だが、法は存在する=ルールはある、解釈で具体化すればよい、という話だろう。

では、「正当」「相当」などの評価的な不確定概念を含む規定や一般条項はどうか。「当初から立法者が裁判官に法創造の余地を残したもの、つまり意図的に欠缺を作ったもの」というのは、どうだろうか。立法者が、「裁判官が法を創造する」ことを許容するはずがない(すべきでない)。こんなことを言ったら、裁判官が立法者になってしまう。とんでもない話だと思う。但し、実態として、裁判官が法を創造したかにみえることはあると思う(例:解雇権濫用法理)。しかし、これをもって「法創造」というのは言い過ぎである。あくまでも、法としては(解雇権濫用法理について言えば)「労働基準法」の改正(H15)をもって、法創造というべきだろう。また、「意図的に欠缺を作った」という言い方も不適切である。立法者は、意図的に抽象表現しているのであって、「抽象表現」と「欠缺」をごちゃまぜにすべきではない。

②③については、他の条文(上位法や他法令の)があるので、当該条文に書き込まなかったのかもしれない。そうであれば、欠缺が存在する(ルールがない)とは言えない。

いずれにせよ、狭義の解釈と欠缺補充との境界は曖昧である。一般的に言えば、法律規定の適用範囲を、その制定にあたって立法者が念頭に置いた事案のみに限定すれば、欠缺の領域は広がる。逆に、一般的抽象的に規定されている法律規定を、立法者の意図の如何に関わらず、文字通り普遍的・全称的なものと解釈すれば、欠缺の領域は狭まる。また、法源を制定法に限定せず、判例法・慣習法・条理などにまで拡大すれば、欠缺の領域は一般に狭まる。

確かに、「狭義の解釈と欠缺補充との境界は曖昧である」と思う。だとすれば、「法に規定がない=違法ではないので、訴えられない」というのは、必ずしも明確ではないということである。つまり、欠缺を補充する=解釈により、法に直接の規程がなくとも、訴えることができるかもしれないということである。少なくとも、訴えることまでしなくとも、問題としてとりあげ、よりよいルールにしていくことができるはずである。

 

狭義の解釈と欠缺補充との区別

近代的な法制度のもとで、裁判官の使命が、法とくに立法部が制定した法を適用することにあることについては異論がない。制定法の適用に際して、裁判官がそれを解釈する権限を持つことについてもほとんど異論はない。裁判官は、制定法の解釈について、有権解釈の権限をもっているのである。

これに対して、欠缺補充の場合は、裁判官の権限行使の正統性が、「立法に従うべき裁判官」という観点からは危うくなる一方で、衡平の実現という裁判に求められる要請の観点からは正当化される。国家の官吏としての裁判官という像に縛られる傾向の強い大陸法系の裁判官は、一般に前者の観点を重視するので、実際には衡平の要請にも配慮しつつも、欠缺を認めたがらない傾向がある。(狭義の)解釈ということであれば、正統な権限行使の範囲に明白に入るからである。これに関していえば、官吏型裁判官は、できるならば制定法に従った判決という外観を作りたがり、制定法がない場合も、何らかの先行する、それなりに正統性のある権威に従ったという外観を求める傾向がある。例えば、制定法や慣習法が尽きたときに援用されるべき法源として、「条理」というものが挙げられることがある。「条理」には、自然法という意味もあるが、裁判における法源としてそれが果たす機能は、制定法も慣習法も判例もない場合に、何らかの正統な権威に従っているのであって、自己の恣意的判断ではないということを標榜することにある。注意すべきことに、このような官吏型裁判官の傾向は、民主制やアメリカ型三権分立とは独立のものである。というのは、そのような傾向は、民主的権力分立が成立する前から存在したからである。

私は、裁判官は「共同体の官吏」である(べき)という像を持つ。裁判官は立法者ではない。可能なのは「解釈」である。裁判官に「法の創造」を認めようと言うのであれば、立法と私法の役割分担に関して説明する必要があるだろう。「国家の官吏としての裁判官という像に縛られる傾向の強い大陸法系の裁判官」というのは、適切な表現とは思えない。

*1:2017/12/06、2017/12/31、2018/01/31、2018/02/27の記事で、第3節、第4節、第5節としたのは、(第1節 法的思考とは何か の)第3項、第4項、第5項でしたので、修正しました。