気の向くままに

井蛙は以って海を語るべからず、夏虫は以て冰を語るべからず、曲士は以て道を語るべからず

人間の敗北である単なる事実を正義と言いなす

立岩真也『私的所有論』(5) 

立岩は、決定の分散と集権について、次のように述べていた。所有の「初期値」をなぜ問題にしないのか? 参照。

決定の分散が決定の集権化よりも好ましいものだとしても、それはある特定の、例えばこの社会における分散された決定のあり方を支持するものではない。これも単純な誤解である。自由や、決定の多様化という基準からは、別の(分散された)決定のあり方がより望ましいものとしてありうる。

これには(注13)がある。なぜ、中央集権的な計画経済よりも、分権的な市場経済が正当化されるのか。

  • 個別に決定を委ねることによって危険の分散になる。
  • 個々人の独創性が発揮されないことで革新が図られない。
  • 固定した目標や道徳的な原則から現実が導かれることによって、それ以外の部分が閑却され、現実に存する欲望の多様性に対応できない膠着した社会が出来上がってしまう。
  • 地下にもう一つの市場を、より不健全な形で作り上げてしまう。
  • 市場ではあらゆる人々が単純にお金を媒介することによって、自分の価値観や本音を出さずに、多種多様な交流をすることができる、それによって彼らは、見知らぬ人々からあらゆる社会的協力を引き出すことができ、自分の生活圏で各々の信念と人生を築くことができる。これが市場の重要性の本質である。市場によってこそ、各人の生活を追求する自由と多様性が達成されるのである。」(桂木隆夫)

立岩は、桂木が述べていることに対して、次のように言う。

これは市場を正当化する論理ではあっても、本章で見ている私的所有の体制を正当化するものではない。「自分の価値観や本音を出さずに、多種多様な交流をすることができる」ために必要なだけのものを各人が保有しているなら、「多種多様な交流」は実現されるだろうが、そうでなければ実現されない。そして生産物の私的所有の体制下ではこの条件は必ずしも満たされない。

「多種多様な交流をすることができる」とか「自分の生活圏で各々の信念と人生を築くことができる」とか「各人の生活を追求する自由と多様性が達成される」とか言っても、これは「おカネがあれば」の話である。海外旅行に行ってますか。コンサートに行ってますか。スポーツをしていますか。別荘をもっていますか。持家に住んでいますか。株式売買で利益を得ていますか。趣味のサークルに入っていますか。…これらの質問に肯定的に答えられないとしたら、そしてまた肯定的に答えられない人が多数いることを知っていながら、なぜ市場経済を支持するのかの説得力ある説明が必要だろうと思う。

「われわれがケーキを分けるときのことを考えてみよう。どの人間にとってもケーキは多ければ多いほど望ましい、と仮定すれば、その仮定だけで、すべての分配の仕方はパレート最適である。ある人間をより満足させるようにケーキの分け方を変えれば、他の誰かの満足が必ず減じられるからである。このケーキの分割の問題における唯一の主要な問題点はその分配なのであるから、ここではパレート最適の考え方はなんの効力も持ち得ない。こうして、ただひたすらにパレート最適のみに関心を寄せてきた結果として、せっかくの魅力的な一学問領域であるところの厚生経済学が、不平等の問題の研究にはすっかり不向きなものとなってしまったのである。」(アマルティア・セン、『不平等の経済理論』)

数式まじりのミクロ経済理論(新古典派経済学)を学んだ人は、このようなセンの言葉を聞いたことがあるだろうか。現実の「労働市場」における賃金決定のありかた(給与所得者なら、身に染みて実感しているだろう)を実感することもない人たちが、「市場」を祭り上げ、それを無批判に受け入れているということはないだろうか。

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https://www.vox.com/conversations/2017/5/23/15516752/science-human-nature-free-will-robert-sapolsky-interview

 

第2章 私的所有の無根拠と根拠 第3節 効果による正当化と正当化の不可能性 の続き。

立岩は、ここで私的所有の制度の有効性(有利さ)の話をしているのだが、ちょっと難しい。私なりの理解をしたいと思うが、間違っているかもしれない。

本書の図2.7には、下記のような図ともう一つ同じような図が描かれているが、ここでは一つだけとする。この図を見ながら立岩の説明を聞こう。

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私的所有が「有利」であるという論理はどういうものであるか。

①AにAの資源a1(能力・身体……)がある。それはBに移動することができない。

Aは固有の能力を持ち、身体を持っている。勿論それは他者に移動できるものではない。

②その[資源a1の]ある部分について、Aはそれを使うか使わないか、行為a2を実行するかどうかを決めることができる。他方、Bは直接的にそれを決めることができない。Aだけが燃料槽から燃料を出し燃焼させる栓[COCK]を開けたり閉めたりできるようなものである。

Aが行為a2を実行するかどうかを決める。コックを開閉するのはAである。但し、やむを得ずコックを開けるかもしれない。

③さらにa1のあるものについてAはそれを増やしたり増やさなかったりすることができる。そしてBは直接的にそれを行うことができない。Aだけが貯蔵する燃料(資源)を増やしたり増やさなかったりできるということである。 

 Aに固有の資源a1(能力・身体……)は、当然にAだけが増やしたり増やさなかったりすることができる。

④Aには、a2を行うこと(a1を使うこと)[労働、生産]b[対価]を得ることについて欲求の関数[f(a,b)]がある。ここではbをできるだけ多く、aをできるだけ少なくしたいと思っているとする。

a2を必要とするBは、④対価を支払うという形でAの関数に働きかけることによって、②a1を使い、a2を提供することを促す、③a1を増やすことを促す。*1

 欲求の関数というものがあり、それは資源(能力・身体)の使用(支出)と対価の獲得(収入)の関数である。

以上はその身体・力能*2がどこからきたのか、本来その者のものかどうかという問いを回避して、私的所有の有利さを言う。第1節[第2節?]にみた、A→aである「ゆえに」aはAのものだという言い方をせず、ゆえになぜ「ゆえに」と言えるのかという問いに答える必要はない。利益になることがよいことであり、これを前提として認める時、A→aであるaをAに委ねることの方が現実に有利である(場合がある)ゆえに、aをAに委ねる方がよい(場合がある)ということである。そしてこの指摘それ自体は、上に述べた人間のあり方に関する前提を認めた場合には、つまりは諸個人が自身の損失をできる限り少なく、利益を多く受け取ろうという性向を有している場合に、当たっている。

この①~④は、A→aである「ゆえに」aはAのものだ、即ち、Aはaを生産するゆえにAはaを取得する(aはAのものである)という言い方をしない。(「自己労働→自己所有」というおかしな論理 では、「ゆえに」が、それ以上遡れない信念(根拠づけられない原理)であることを見た)。ここでは、なぜ「ゆえに」なのかという問いに答える必要はない。それは、「損失をできる限り少なく、利益を多く受け取る」ことを人間の性向として認めるならば、すなわち人間は「利己的」であると認めるならば、生産物をAに委ねる(Aのものとする、Aの所有とする)ことがよいからである、という。…しかし、①~④から、なぜ「私的所有」が「有利」なのか、もう一つ明確ではない。

次に「有利さ」がどこまで言えるのか。そしてその「有利さ」とはどういう有利さなのか。

条件①~④が満たされている場合。第一に、そのものが①本人のもとにだけあるものであること。第二に、②当人(だけ)が「出し惜しみ」できる、それを行う/行わないが選択できること。…さらに、③当人が、(その者に与えられるものの予測に基づいて)自らの資源を管理し、増やす(減らす)ことができること。…以上のような場合に、私的所有を認めることは生産の増大に有利に働く。また③の条件が成立している限り、各自は自分の資源を自分の決定によって操作することできるのだから…受け取りの多少に関する問題もまた起こらない。 

 立岩が、ここで述べていることは、「条件①~④が満たされている場合、私的所有を認めることによって、生産の増大に有利に働く」ということだろう。しかし、私的所有→生産の増大の機序がよく分からない。そしてまた、「生産の増大に有利に働く」からといって、なぜ「生産の増大が望ましい」ことなのかを説明しているわけではない。(「経済成長」は望ましいことなのか? 「経済成長」のために働いているのか?)

しかしまず、資源の有無そして量・質が既に決定されている、所与として与えられている場合、つまり③の条件が成立しない場合はどうか。譲渡に対する対価としてBがAに与えるものがaに対してのものである限り、Aに与えられるものは、Aにあるaに比例することになるだろう。たまたま体が、あるいは頭がうまく働かないように生まれてきた者が、ただそのことのゆえに、他者に与えるものを持たず、ゆえに生きられないことになる。Aは作り出せるもの、Bに与えるものがない。だからAは生きていけない。そう極端な場合でなくとも、個々の人の能力には違いがある。何も、でなくてもよい。作れるもの、与えられるものが少ない人がいる。別段さぼっているわけではない。出し惜しみしようにもしようがない。これは各自における各自が自由に出来ない資源の差異に起因する問題である。 

資源(能力・身体)に劣る者は、生きていけない(生きづらい)。それでよいのか。

それでもこのシステムの方が有利だと言える場合があるか。例えば各自が供出するものと関係なく均等に配分されるなら…生産と生産のための資源管理のための意欲が失われ、全体の生産が少なくなり、それを均等に分配したとしても、市場での配分を行う場合に比べて不利な人が多くなる…といったことがあるかもしれない。

均等配分は「意欲」を失わせる。→全体の生産が少なくなる。→市場での配分より不利になる。(パイが小さければ、均等配分のほうが少ない)…常套句である。だがこれは経験的事実として証明されたわけではない。具体的な「均等配分」に合意があるわけでもなく、そのような社会制度が実現したこともないのだから、「均等配分は意欲を失わせる」というのは、一つのイデオロギーだろう。

ただここで確認されるのは、効果や利益から考えていく以上、そしてこれまでの検討からそれがうまく作動しない場面があることが明らかである以上、もはや私的所有の制度が特権的に維持されるべきだという主張をすることは出来ず、このシステムは相対的な位置を与えられるに過ぎないということである。

「社会制度」の合意があるわけではない。世界から戦争はなくなっていない。「私的所有」の制度は、絶対的なものとして信仰の対象とするのではなく、グローバル社会の中で検討すべきものだろう。

しかし同時に、以上述べたその全く同じことから、私的所有、市場、能力主義の強固な現実性もまた生じている。私たちの欲望の関数を事実として認め、他者の行為(の結果)の取得の欲望を認めるなら(④)、そして①・②の条件が成立している限りにおいて、市場の成立、能力主義の成立を阻止すること、阻止し続けることは困難である。それが私たちにおける強固な現実である時、この強固な現実が、私的所有の体制から抜けることのできない理由であると考える。このことは、この体制の成立の前提がどのようなものであるのかについての認識と共に、無視すべきでないと私は考える。人間のあり方について、私的所有の廃棄を言う一方の側は過度に楽観的であったか、あるいは何も考えていなかったかである。そしてこの体制を擁護するもう一方の側は、見ようによっては人間の敗北である単なる事実を正義と言いなしてきたのである

「欲望の関数」は事実として認めなければならないだろう。しかし、それを「あるべき姿」として認めるべきではない。欲望の関数は、a,bだけが変数であるような単純なものではない。欲望の関数の具体化なしに、「市場の成立、能力主義の成立を阻止すること、阻止し続けることは困難である」とも言い切れないと思う。

立岩が言うように、欲求の関数f(a,b)は、「人間の敗北である単なる事実」なのかもしれない。そしてその信仰者は、人間として敗北しているのかもしれない。

*1:図では④f(a,b)となっているが、本文は④対価となっている。④が欲求の関数をあらわすなら、本文の④対価というのは紛らわしい。

*2:力能は能力と同義だろう。苦労と労苦のようなものである。