浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

統覚(心の世界を開く特異点)

木下清一郎『心の起源』(23)

今回は、第5章 心の世界を覗きみる 第1節 心をその働きからみる と 第2節特異点としての統覚 である。

心の働く「場」を構成している要素は、どうやら生物世界に属しているらしい。…心とは、その「場」をみる限りでは生物世界そのものであり、それを超えるものではないとすれば、今度は探求の目を向け変えて、心の「働きそのもの」に着目したなら、心は生物世界を超えられるかという問いを吟味せねばならない。

心の働く「場」を構成している要素が生物世界に属しているというのは、第4章で述べられていた次のようなことだろう。

心を考えるとき、神経系、なかんずく脳を無視するわけにはいかない。心を脳の中に開かれた世界と考えたとき、脳は心が働く場になっている。ところが、脳は生物の器官の一つであって、発生に伴って遺伝子の設計どおりに作られている。すなわち、脳を心の働く場として見る限り、それは生物世界に属しており、それを超え出ることはできない。

本章は、心の「働きそのもの」に着目する。心の働きとは、「脳という場の働き」を解明するということになるのだろうか。それとも……?

 

心をその働きからみる

ここで、これまでの議論の復習を兼ねた説明がある。

新しい世界を開くとは、いったい何を指しているのか。…生物は、物質の特殊なあり方として、つまり物質世界の延長として捉えることは可能である。しかし、新しい原理が生まれ、新しい世界としての生物世界が開かれたと捉えることもまた同じように可能なのであって、この見方の違いは結局のところ、定義の置き方、公理の立て方から発しているとしか言いようがなく、いずれかが正しいとか誤っているとかいう問題ではない。

生物は「物質」に過ぎないのか、それとも「物質とは異なる何か」なのか。…生物は物質だが、そこらへんに転がっている石ころとは違う物質である、というのはごく常識的な直観だろう。この「石ころとは違う物質」を、木下は、「新しい原理が生まれ、新しい世界としての生物世界が開かれたと捉えることが可能である」と言っているようだ。

すると、心の世界についても全く同じことが言えよう。心を単に生物現象として捉えることも可能であるし、その一方で心という新しい世界が生まれたとすることもまた可能である。後の可能性をこれから検討してみようとしているのだが、この問題の厄介なところは、たとえ心が新しい世界であるとする立場が成り立つとしても、それのみを正しいとするわけにはいかないということである。

どんな生物でも「心」を持っているのか。「バクテリア」は「心」を持っているか。「ワカメ」は「心」を持っているか。…やはり、どんな生物でも「心」を持っているというのは言い過ぎの感じはする。そうすると、生物が「心」を持つようになるということに関して、「新しい世界が生まれた」という言い方も、ありかなと言う気がする。但し、こういう言い方をしたからといって、物質世界を「超える」というものでもなかろう。

これは単に定義の置き方、公理の立て方の問題に過ぎないとも言えるが、もっと開き直って言えば、心についての選択は私たちにとって極めて重大な二者択一になっているように思う。…心の働きを生物世界の現象に還元しようとすると、ことはそこに留まらず、生物の働きもまた物質世界の現象にまで還元せざるを得なくなり、いま現に生きている私たち自身は物質でしかなくなる。つまり、心の世界を否定すると途端に歯止めがはずれてしまい、心の世界ばかりか生物世界までも消滅して、結局、物質世界だけが残るところまで一挙に後退してしまう。

物質世界の現象にまで還元する→物理化学の言葉で説明したとして(私たちは「物質」に過ぎないといったところで)、果たしてそれは何を「説明」したことになるのか。これは「科学哲学」の問題であろう。私にとってはこれは今後のテーマである。

ここでいう「二者択一」とは何か。…①物質世界のみが存在する。②物質世界を超えた生物世界や心の世界が存在する。この二者択一だろうか。これはやはり、木下のいうように、「定義の置き方、公理の立て方の問題」であるように思う。

逆に、私たち自身を物質の次元におくおことを肯ぜず(がえんぜず)、その次元を超えた生物世界に属していると主張するならば、生物世界の次元を超えたところに心の世界を置くことを許容せねばならなくなる。なぜなら、生物世界と心の世界とは一つだけ次元を異にしてはいるが、それぞれの定義が据えられ、それぞれの公理が立てられた時には、同じようにそこに新しい世界の成立を認めざるを得なくなるからである。つまり、私たち自身が物質の次元を超えようとするならば、その先に自ずから心の世界が現れてくることになる。

こうして私たちは否応なしに二者択一を迫られることになった。私たちは単なる物質でしかないことに恐らく耐えられないが、さりとてまだ心の存在を確信するまでには至っていない。そこで現に生きているということだけは、ひとまず間違いのないものとして考え始めたのであったが、そこに留まることは許されないであろうというのが、ここで得られた帰結であり、いま私たちに突きつけられた二者択一である。

木下は、「私たち自身が物質の次元を超えようとするならば…」と言うが、これはよく分からない。物質の次元を超えようとする「私たち」はどこにいるのか。また「…その先に自ずから心の世界が現れてくる」とも言うが、根拠もなくそんなことを言われても?である。さらに「私たちは単なる物質でしかないことに恐らく耐えられない…」とも言うが、私は「単なる物質」であっても一向に構わない。なぜ耐えられないと考えるのだろうか。

生物世界から物質世界と心の世界という二つの方向をのぞんだとき、どちらの側に引き寄せられるかは舵の切り方一つで変わってしまう。これは唯物論と唯心論の対立に似ているようであるが、じつは少しく様子が違っていて、物質世界のみですべてを理解しつくそうとするか、それともその上に生物世界と心の世界を重ねた「入れ子」構造として理解するかという二者択一になっている。

それにしても、私たちはいずれかに態度を決めることを迫られていることは間違いない。心の世界があるかないかの問題は、自分自身が生きていることをどう受け止めているのかを問われるのと同じことであろう。

「物質世界のみですべてを理解」と言う時の、「すべて」とは何か。

入れ子」構造かどうかはともかく、「物質世界の上に、生物世界と心の世界を重ねる」という見方は、恐らく「哲学」で議論されているだろう。

「心の世界があるかないかの問題は、自分自身が生きていることをどう受け止めているのかを問われるのと同じことであろう」と言うが、これは関係のない話だろう。

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http://ulliroyal.deviantart.com/art/ICE-FLOWER-67718994

 

心は新しい世界か

木下は、以下、①特異点、②基本要素、③基本原理、④自己展開という4つの前提(=世界が開かれるための4条件=世界の始まりを考えるための4つの要請)に着目して、心をその「はたらき」から見るなら、それは新しい世界をなすと言えるかについて検討している。

特異点としての統覚

特異点*1とは、一つの世界の中に不連続な断絶をつくり出す点であり(以前に世界の裂け目と言ったことがある)、しかもそこから発展的な動機を生みだすべき点であった。

「そこから発展的な動機を生みだすべき点」というのは、よく分からないが、「それを前提とすれば新しい体系を構成できる命題」と同じ意味だろうか。

生物世界が開かれた時、…その端緒になった特異点は、原初の核酸の自己複製能の出現に見出されていた。それが分子の個性の自己複製であったことが重要である。個性を持った分子がそれぞれ自己複製を繰り返すことによって、はじめて個性同士のせめぎあいが起こるのであって、均一な分子がどれほど自己複製を繰り返してもそこのせめぎ合いの起こりようがない。それは単に物質としての成分の割合が変化するだけのことになる。「個性」という今までなかったものが複製されるという、これまた今までなかったことが起こったことは、物質世界の中に「不連続」を生みだした。「個性」と「不連続」の二つが現れたことが特徴であると言えよう。

個性同士の「せめぎ合い」というのはどういう意味か。「原初の核酸」が勢力争いをする? 「個性」とはどういう意味か。(個性については、後で説明があるようだ)

 

統覚

心の枠組みの最も奥深いところに「統覚」と呼んだ統合能力があること、この能力なくしては心の枠組みはどれ一つとして成り立たないことは、既に見た通りである。このような統覚の根源性を考えると、統覚は心の世界を開く特異点をつくる有力な候補になるかと思われる。統覚とはまことに不可思議な性質を持っている。統覚という能力そのものは経験に先だって与えられており、生得的なものであるにもかかわらず、そこから必ずしも生得的とは言い切れないものを紡ぎ出しており、過去から袂を分かって新しい体系を織り始めようとしている。例えば、統覚は離散的なものから連続的なものを抽出し、有限なものから無限なものを抽出することができる。それは自己回帰という生得的能力を媒介として、経験という「個性」ある情報から、普遍的なものを抽出する過程であるといってもよいであろう。ここで生得的能力は非生得的能力に変貌している。これは一つの「不連続点」であろう。

これもよく分からない。統覚=統合能力という概念には注目する。ただ、「連続」とか「無限」を抽出すると言われると?である(断片をつなぎ合わせると言うのならば、何となくわかるような気がするが…)。「無限」がどういうものであるかは簡単には理解できない。「普遍的なものを抽出する」というのもよく分からない。…バクテリアは統覚=統合能力を持っているのか。ワカメは統覚=統合能力を持っているのか。いかなる生物が統覚=統合能力を持っているのか。

まだ議論すべき点を残してはいるが、統覚の出現を境としてその前後で明らかな断絶があるらしいことは見えてきた。統覚が実現される場面では、生得的なものとそうでないもの、つまり生物世界に属するものと属さないものとが相接しており、統覚それ自身は生得的でありながら、統覚の生みだすものは生得性の枠を超える可能性があるというところまで確認しておこう。もしそうであるなら、統覚は生物世界の法則に準拠しながら、そのなかに不連続を生みだしていることになる。

統合能力は何を生みだすのか。生物Xが統覚=統合能力を持っているとして、生物Xの統覚が何を生みだしているのかの具体的な説明がないとよく分からない。(ただ単に、抽象的な言葉を振り回しているだけに聞こえる)

もう一つ大事なことがある。離散と連続、有限と無限とは所詮は水と油であって、何としても橋渡しの叶わぬものであるのに、統覚がこれらを結び合わせてしまったことは、心の世界に決定的な矛盾を忍び込ませる結果を招いた。これは心の世界のその後の展開に測り知れない影響を与えている。というのは、それからというもの絶えず綻びかかる個別と普遍とのあいだの結び目を、際限なく繕っていかねばならぬ破目に陥ったからである。しかし、このことを原動力として心の世界はともかくも動き始める。このことは重要であろう。というのは、動くことによって新たに生まれてくるもの、あるいは動くことによってしか生まれてこないものがあるからである。これは後に考察する自己展開とも深くかかわってくる。

これは理解できない。一言一句わからない。

 

心の世界の特異点

統覚という能力は、第一に生物世界の中に不連続点をつくり出すことができ、第二にその不連続点から新しい体系を発足させることができる可能性が見えてきた。ここから踏み出される歩みこそは心の「はたらきそのもの」に他ならないが、しかしそれが決して容易な歩みではなく、行く先々で困難を極めたものとなるであろうことは、その最初の出発点こういう矛盾を抱えていることを思い合わせれば、避けられぬ宿命と言って良いであろう。このように、統覚の出現を契機としてこれまでになかった新しい展開が始まり、その背後には自己矛盾の影も仄かに見えている。そうしてみると、統覚の出現は特異点としての資格を備えていると、ひとまずはみなして良いであろう。

統覚とはあくまでも生物世界の法則に準拠して現れた能力でありながら、自らを生みだした生物世界を超えさせる性格を持っているという点である。これは一つ前の段階で、生物世界の初めに置かれた特異点が抱える事情と軌を一にしている。つまり生物世界を開くことになった自己複製という能力は、物質世界の法則に準拠して現れた能力でありながら、それが分子の個性の自己増殖に関わったことを介して、自らを生みだした物質世界を超えて新たに生物世界を開くに至ったのであったが、それと同じことが今起ころうとしているのである。

 こういう文章を読むと、投げ出したくなる。私には、わけのわからぬ抽象的文章である。

ここで立てた仮定は次のようであった。

(11) 心の世界を開く特異点は、「統覚」の出現という出来事に見いだせる。

但し、統覚=統合能力という概念は、有意味な概念のような気はする。

*1:特異点については、以前次のような説明があった。…それ以前に遡って説明することのできない前提命題、あるいはそれ以前の世界を統べる原理から導かれてはいるが、不連続的に出現しており、それを前提とすれば新しい体系を構成できる命題で、体系の基礎となるもの。(P85)