浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

あなたは本当に性的被害者なのか? ショッピングモールの迷子 

長谷川寿一他『はじめて出会う心理学(改訂版)』(10)

本書では、第8章 ストレスとメンタルヘルス の「心理病理はなぜ起こるか-精神分析学の説明」の項で、また第9章 カウンセリングと心理療法 の「フロイト精神分析療法」の項で、フロイト精神分析について若干の説明がある。ここでは、精神分析について、次の解説を参照しておこう。

フロイト神経症の治療法として創始した精神療法(精神分析療法)と,その理論から発展した彼の深層心理学の体系,およびその系統を引く学説と学派の称。…フロイトは心的過程を,意識,意志的に意識化し得る前意識,精神分析による以外は意識化し得ない無意識に分かち,神経症研究に際して,抑圧され無意識に押し込められてコンプレクスの基になった幼児の性的体験を重視,心的装置[心的構造]としてイド(エス),自我,超自我を措定して,人間の異常行動は,無意識に属しているイドと,それが放出されるのをおさえようとする自我および超自我の葛藤の表れだと指摘した。そして自我の防衛を目的とする心的機制として昇華,投射,転移,退行などをあげた。無意識化されたものの意識化を目的としたものが精神分析療法で,その技術・理論はフロイト以後も新フロイト派などとして各国で発展している。精神分析は,精神身体医学やL.ビンスワンガーらの現存在分析などに影響を及ぼしたほか,近代的理性中心主義の幻想性を暴露する理論として文学・芸術,社会学,教育学,文化人類学などにも強力な批評の装置として浸透している現代思想総体にかかわる精神分析の知的展開のなかではJ.ラカンのそれが最も重要。(百科事典マイペディア)

精神分析療法について、脳科学辞典は次のように述べている。

基本的理念…精神分析は、「人々が自分自身の真の欲求や恐れに気付かないままでいるときに精神病理が発現する。健康な機能は、抑圧されてきたことを意識することによってのみ改善される」という基本的な理念に基づく。以下、精神分析療法であるための必要条件である。…無意識のとくに性的衝動の病因性および防衛機制という考え方を技法の鍵概念として認めること。[他の条件は省略]

適用範囲…対人関係に強い障害のある人・世界や自分自身について固定的な見方をする人・反省したり考えたりするよりも行動することを好む人には不適である。自らの行動について熟考できるクライエントに適している(言語能力が必要である)。したがって病理レベルも、神経症レベルが対象となる。(袴田優子、下山晴彦、心理療法

これら簡潔なまとめの文章を読んでも理解したことにはならないが、ここでは、フロイトの理論の詳細には立ち入らない。精神分析学の現状はどうなのか。

精神分析学の衰退…20世紀後半になると、科学哲学、新行動主義心理学、生物学的精神医学、脳科学などから、精神分析の科学性、客観性、治療法としての有効性に疑問が投げかけられるようになる。抗精神病薬としてのクロルプロマジン「再発見」以来、精神疾患への薬物療法が発達し、精神分析療法で改善が見られない患者が治療できるようになると、精神医学領域における精神分析の影響力は徐々に衰えていく。精神分析の影響が大きかったアメリカにおいても、1980年のDSM-III(精神疾患の診断と統計の手引き)以降、神経症の概念が解体される方向に向かい、患者の希望した薬物治療を拒否して精神分析に専念した治療者が、患者との裁判で敗訴した(参照:過誤記憶裁判こともあって、精神分析医の数は減少した。

21世紀ならびに近況…近年、従来の薬物療法に加え、認知行動療法の有効性が確認され、薬物療法と併用する医師が増加している。これに加え、医療経済上も成り立たなくなっていることから、精神分析の影響はさらに減少し、国内外を問わず、精神科の臨床でフロイト当時のままの精神分析療法を用いる医師はほとんどいない。アメリカでは、薬物療法認知行動療法の進歩と普及により、精神分析エビデンスの不十分な療法として支持を失った。これには精神分析及び精神分析的精神療法が、その構造上エビデンスを提供することが大変困難であることも影響している。ただし、精神療法の基本的な考え方が精神分析学派の諸概念を基に発展してきているのも事実であり、精神科医臨床心理士などが患者理解のために精神分析の概念を援用することがある。口語版精神分析とも呼ばれる交流分析心療内科や看護、介護の領域で活用されている。(wikipedia精神分析学)

エビデンスの不十分な療法」ということであれば、「カルト集団の代替医療」ではないかとも思うが、そう単純な話でもなかろう。代替医療(通常医療の代わりに用いられる医療)の具体例としては、次のようなものがある。

中国医学漢方医学鍼灸柔道整復術、指圧、マッサージ、その他の東洋の各種伝統医学(アーユルヴェーダなど)、オステオパシーカイロプラクティックのような欧米発信の手技療法、アロマセラピー、各種療術、民間療法、宗教的なヒーリング、ホメオパシーwikipedia代替医療

精神分析療法が、なぜ怪しげな民間療法と同類のものとみなされるのか。上に出てきた「過誤記憶裁判」とは、どういうものであったか。1980年代以降のアメリカの話であるが、

家庭内暴力近親姦の被害を訴えるクライエントたちに、一部のカウンセラーがアミタールなどの催眠系薬物を使用する催眠療法である回復記憶療法を用いて、無意識の中から抑圧された記憶を引き出し、意識の上に回復された記憶として置きなおすことによって諸症状を治療しようと試みた。…多くの女性クライエントが、引き出された記憶をもとに、加害者である家族(近親姦をおこなった父など)を被告に相手どって法廷闘争をくりひろげるようになる。…被告側の弁護に立った認知心理学者エリザベス・ロフタス(Elizabeth Loftus)が、「ショッピングモールの迷子」という実験をおこない、クライエントの訴える近親姦の記憶は、セラピストやカウンセラーが捏造した事件をクライエントに植え込んだものであると主張し、原告たちの一連の訴えを偽記憶症候群FMS:False Memory Syndrome)と名づけた。(wikipedia、過誤記憶)

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http://movieblogger.tistory.com/1321

 

ショッピングモールの迷子」とは、

家族から聞いたほんとうのエピソード3つに、ショッピングモールで迷子になったという虚偽のエピソードを1つ加えて、被験者がその4つともほんとうの話だと思い込むようになるかどうかを試すものである。その結果、被験者の4分の1が、植え込まれた記憶もほんとうの自分の体験だと思い込んでいることを示した。しかも、偽りであるはずの記憶は非常に詳細であり、のちにこれが偽りであった事を知らされた被験者たちは皆驚いたという。この実験に基づいて、家族という密室で起こった虐待などの犯罪を、司法の場で追及しようとした原告たちは敗訴し、原告たちから抑圧された記憶を引き出したセラピストやカウンセラーは莫大な賠償金を払わされることになった。また、これによって回復記憶療法も用いられなくなり、2000年までに完全に行なわれなくなってしまった。(wikipedia、過誤記憶) 

 本人が、いかに嘘偽りなく正直に証言しているように見えても、それは事実ではない可能性が立証されたのである。もちろん真実はわからない。しかし「疑わしきは罰せず」の大原則からすれば、被告人は無罪としなければならない。ここでは、原告の記憶が、精神分析医、セラピスト、カウンセラーにより作られたものである可能性があること、それがフロイトの理論に依拠していることが重要な点である。冤罪を生むリスクがあるということである。

しかし、ロフタスの実験に対する批判はある。

虚偽記憶という概念を武器にしたロフタス側は、裁判では勝った。しかし、法廷の外ではその陣営への批判は少なくない。まず、ロフタスの研究は通常の記憶(例えば、「ショッピングモールで迷子になった」という嘘の話)に関する実験であって、心的外傷(通常ではない記憶)には必ずしも当てはまらないことが指摘された。…記憶形式が違うのにそれを全部一緒にしてその不確かさを述べるのは間違いと批判者らは述べる。(wikipedia虚偽記憶

「記憶形式」が違うという点については、脳科学認知科学)の観点からどうかということが解明されなければならないだろう。「記憶形式」が違うというだけでは、説得力ある反論とは思えず、ロフタスの主張が誤りだとは言えないように思われる。

また、ロフタスの実験である「ショッピングモールの迷子」では4分の1の被験者が記憶を作ったが、ハーマンはこれに対し逆に4分の3は作っていない事を証明した実験だと反論した。(wikipedia虚偽記憶

「4分の1」をどう評価するかは、「科学哲学」のテーマかも知れないが、法的には、十分に「疑わしい」とされるだろう。

児童虐待の告発者として著名な、アリス・ミラーは次のように述べているという。

彼らは人間の記憶は信頼できないと証明するために、法廷や科学機関を含めて、できうるあらゆる方法を用いる。しかしそのような証明は無用である。我々の記憶が信頼できないのは事実であり、それは容易に操作される、内側からも(希望的思考)そして外部からも。しかしとりわけそれらは我々の生き延びようとする意志に貢献する生き延びようとする意志は決して我々を苦痛に満ちた物語を生み出すよう強いることはない。全く逆である。我々の子供時代の苦痛に満ちた真実をわからなくするために、魅力のある記憶を作り上げる。私たちはこのことを決して見失ってはならない。(wikipedia虚偽記憶

Wikipedaは、上のアリス・ミラーの言葉を、ロフタス批判の項で引用しているが、これはロフタス批判なのだろうか。…私たちは記憶を改変する。苦痛に満ちた真実をわからなくするために、魅力のある記憶を作り上げる。過去を美化する。昔はよかった。…過去の「苦痛に満ちた真実」を思い起こさせることが本当に治療になるのだろうか。

 

ロフタスは、「抑圧された記憶」は存在しないと主張したのだろうか。(フロイトによると「抑圧された記憶は、性的虐待の記憶の耐えられない苦痛から発生し、その記憶は無意識の領域に封印され、それが意識に影響を与え続ける」のだという)。もしそうなら、

精神分析の流れを汲む還元主義者エリック・カンデルは動物実験においてCREBのブロックにより長期記憶の形成が妨げられる事実を発見し、記憶を忘れたり強化したりする事が人工的に可能であることを示した。…1990年代末には、複数の研究でコルチゾールという物質がトラウマティック・ストレスにより発散され、これが記憶の抑制に関与していることがわかった。この物質がストレスにより誘発された場合には長期記憶で貯えられる情報の検索を妨げることができるこの物質は海馬を損傷させる作用があり、この物質が大量に分泌された場合、実際に記憶の検索が妨げられ「抑圧された記憶」のような現象は起こりうる可能性がある。…大脳新皮質において統合されないまま海馬や扁桃体大脳辺縁系)に記憶が散在する事が抑圧された記憶を作り出す。(wikipedia、抑圧された記憶)

これらは、「抑圧された記憶」は存在しないということに対する反論にはなるだろうが、ロフタスは、フロイト流のやり方では、抑圧された記憶が捏造される可能性がある、ということを示したのではなかったか。

いずれにせよフロイト流の精神分析療法が、「科学性、客観性、治療法としての有効性」において、大いに疑問のあることは1990年代に明らかになっていたのではなかろうか。