浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

サバイバル・ロッタリー(臓器くじ) ハッピー・リタイアメント法(老人駆除法)

立岩真也『私的所有論』(8)

今回は、第2章 私的所有の無根拠と根拠 第4節 正当化の不可能性 第1項 サバイバル・ロッタリーである。

哲学者(倫理学者)のジョン・ハリス(John Harris、1945-)は、次のような思考実験(臓器くじサバイバル・ロッタリー)を論じている。

「すべての人に一種の抽選番号(ロッタリー・ナンバー)を与えておく。医師が臓器移植をすれば助かる2、3人の瀕死の人を抱えているのに、適当な臓器が「自然」死によっては入手できない場合には、医師はいつでもセントラル・コンピューターに適当な臓器移植提供者の供給を依頼することができる。するとコンピューターはアト・ランダムに1人の適当な提供者のナンバーをはじき出し、選ばれた者は他の2人ないしそれ以上の者の生命を救うべく殺される。」(The Survival Lottery、1980)

(a) 2人の生と1人の死、(b) 1人の生と2人の死、どちらが望ましいのだろうか。

Wikipediaは、この問題を次のように説明している。

「臓器くじ」は以下のような社会制度を指す。

1.公平なくじで健康な人をランダムに一人選び、殺す。

2.その人の臓器を全て取り出し、臓器移植が必要な人々に配る。

臓器くじによって、くじに当たった1人は死ぬが、その代わりに臓器移植を必要としていた複数人が助かる。このような行為が倫理的に許されるだろうか、という問いかけである。(Wikipedia、臓器くじ)

ハリスは、功利主義の立場から次のように述べる。

最大多数の最大幸福という観点からは、前者(a)が選ばれることになる。どのような配分の初期値も前提せず、各状態から得られる各々の幸福の総量を基準として、その総量が最大であるものを良しとする「正しい」功利主義に立てばこうなる。

これには様々な反論がある。反論と応答を見てみよう(Wikipediaに依拠するが、若干表現を変えた)。

  1.  臓器が必要な人をそのまま死なせることは消極的に殺すことかもしれないが、健康な人から臓器をとるのは積極的に殺すことであり、その意味は当然異なる。後者は許されない。(応答)最終的に多数の命を救う事になることを考えれば、1人の犠牲に対する意味の違いなどは大きく取り上げることではない。臓器移植を待っている人の生きたいという意思をも考慮しなければならない。
  2.  生死は天命によるものであって、人が誰が死ぬべきかを決める(神を演じる)ものではない。(応答)臓器を移植せずに死なせることも、同じように誰が死ぬべきかどうかを決めることである。我々に物事を変える能力がある時に、物事を変えないという選択をすること(不作為)もまた、世界に何がこれから生じるかを決定することである。神を演じていることに変わりはない。
  3.  こうした社会制度の下では、臓器を提供する側から除外されるよう、人々は健康を維持しようとする(例えば肝臓のために大酒を飲まないようにする)努力を怠るというモラル・ハザードが起きる。(応答)不健康になれば自身が病死する確率も高まり、また、臓器を提供することのできる人間の基準が引き下げられるであろうため、長期的に見れば自身の健康をあえて損なうことの意味自体が薄れる。
  4. 臓器提供はしたい人がやればいいのであって、籤だからといって臓器を提供したくもない人が強制されるのは人権侵害である。(応答)緊急避難*1の考え方を社会全体に適用できる。死ぬ人数が少ない方が、より多くの人権を保護することになる。
  5. 臓器移植を必要とする人を助ける方法は他にもある。なければ、他の方法を研究開発すべきである。(応答)他の方法がないというのが、この思考実験の前提である。他の方法を研究開発すべきというが、有効な方法が開発されるまでの間、どうするかが問題なのである。
  6. 社会全体としては、臓器移植が必要な複数の重病人の生存よりも、健康な人間1人の生存のほうが有益である。(応答)健康な人間1人が社会全体に与える損益は、その個人の生命活動そのものとは無関係である。また、移植を受ければ健康状態は格段に改善する。

反論と応答には、それぞれ一理あるようだ。

 

立岩は、次のように言う。

ハリスは、臓器移植という技術について考えることによって、機能主義者によって自明とされ、考慮されることのなかった論点を辿った[探求した]。従来、身体(内の器官)の移動は想定されることが無かったのだが、免疫抑制剤の登場が①の条件をある程度は解除してしまった。

①の条件とは、

AにAの資源a1(能力・身体……)がある。それはBに移動することができない。(P46)

というものであった。免疫抑制剤の登場により、臓器移植=身体内の器官の移動が可能になった。

だからといって(通常であれば)移動、交換は行われない。しかしハリスは、このようにして各自の臓器が各自に置かれたままであることが利益となるかと問い、否定的な結論を導くのである。

立岩はいろいろ書いているが、言いたいことは次のようなことではなかろうか。

私的所有・交換の正当化の議論には、次の4つの前提がある。

①AにAの資源a1(能力・身体……)がある。それはBに移動することができない。

②その[資源a1の]ある部分について、Aはそれを使うか使わないか、行為a2を実行するかどうかを決めることができる。他方、Bは直接的にそれを決めることができない。Aだけが燃料槽から燃料を出し燃焼させる栓[COCK]を開けたり閉めたりできるようなものである。

③さらにa1のあるものについてAはそれを増やしたり増やさなかったりすることができる。そしてBは直接的にそれを行うことができない。Aだけが貯蔵する燃料(資源)を増やしたり増やさなかったりできるということである。

④Aには、a2を行うこと(a1を使うこと)[労働、生産]とb[対価]を得ることについて欲求の関数[f(a,b) ]がある。ここではbをできるだけ多く、aをできるだけ少なくしたいと思っているとする。

a2を必要とするBは、④対価を支払うという形でAの関数に働きかけることによって、②a1を使い、a2を提供することを促す、③a1を増やすことを促す。(P46)

しかるに、「臓器移植」は既に現実のものであり、前提①は部分的に覆されている。つまり私的所有・交換の正当化の議論には穴があいている。…私は、立岩の議論をまだ理解していないので、後でもう一度考えよう。

 

ハリスの思考実験は、①「1人の死と2人の生」、②「2人の死と1人の生」のどちらかを選ばなければならない状況においては、どちらが望ましいかを問うものであろう。しかるに、その状況の記述で、「健康な人をランダムに一人選び、殺す」という非現実的な仮定をおき、しかも「殺す」などという不穏な言葉を使うものだから、「倫理学者(哲学者)」の机上の空論という印象を与える。従って、そこでどんな結論を出そうと、現実社会とは何の関係もないと受け取られる。現実社会と関わりのある話だというのであれば、ルール(法)の制定を考えるべきだろう。そのような法案を提出するのであれば、まともに議論する気にもなる。

 

私は、このサバイバル・ロッタリー(臓器くじ)の話を聞いて、「老人駆除法*2を連想した。

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http://sayuflatmound.com/?p=11129

 

サバイバル・ロッタリー(臓器くじ)と違うところは、第1にくじで「健康な人」を選ぶのではなく、「老人」を選ぶという点、第2に臓器を、「臓器を必要とする人」に提供するのではなく、削減された予算を「子育て世代」にまわすという点にある。功利主義の立場からは、老人駆除法は支持されるだろう。

しかし、言うまでもなく、このような法案が現実に提出されるはずもない。「駆除」という言葉がいけない。そこで、そういう不穏な言葉を使わず、まともな議論の対象となるような法案を考えてみようというわけである*3

まず、事実認識として、老人は「病気になって寝たきりになる」、「認知症になる」…そのような状態になってまで生きたいとは思わない。介護を考えれば、家族の負担はあまりにも重い。年金・医療費の増大は、財政を圧迫し、将来世代にツケをまわすことになる。しかし、自ら「自由に、死を選択することができない」。そこでこれを改めなければならない。まず心身共に健康な状態のときに、「自死」(自ら「死」を選択するという意味。自分を「殺す」のではない)を「公正証書」化しておけば、病死と同等とみなす、というような規定を盛り込む。(もちろん悪用されないように細かな規定は必要である)。これが第一段階である。

高齢になれば、心身が衰え、どうしても周りの人の負担が増え、また医療費が増大する。これは避けられないだろう。ならば、これを避けるために、「自死」を選択することは「社会貢献」することになる。感情抜きに冷静に考えれば、これは納得できる話だろう。「社会貢献」するということが、議論の上、多数の合意が得られるならば、「高齢」になった時点で、「自死を奨励する施策」を講じることに賛成できるはずである。これが第二段階である。

ここで自死が社会貢献することを理解できず、あるいは理解していても、「私は死にたくない」というような利己主義者にどう対処するかが問題となる。奨励だけでは実効性がないとすれば、「高齢」になった時点で、自死」を強制するようにしなければならない。これが第三段階である。法律名は、「老人駆除法」ではなく、「ハッピー・リタイアメント法」である。

なお、上記の「高齢」とは、どれくらいの年齢をいうかというと、大まかに言って、孫の世話が一段落するであろう70歳程度である。そこで、70歳になったら、ハッピー・リタイアメント*4の盛大な儀式を催し、表彰されることになるであろう。

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http://rocksglass.info/42-congratulations-on-retirement-powerful/congratulations-on-retirement-cards-10-final-with-messages/

*1:緊急避難…自己または他人の生命,身体,自由,財産などに対する現在の危難を避けるため他に方法がない場合に,守ろうとする利益よりも重要性が低いか,または同等の第三者の利益を侵害する行為をいい,刑法上,罪とならない。(ブリタニカ国際大百科事典)

*2:2017/07/31の記事「シルバー民主主義 老人駆除法(少子高齢化の抜本的解決)」でも、この漫画を掲載した。

*3:以下の議論は、半分冗談です。

*4:ハッピー・リタイアメント(happy retirement)…幸せな引退。若くして富を築き引退する場合や、社会貢献を目的に引退する場合など(大辞林)。ここでは、後者の意味に使う。引退とは、人生から引退するという意味である。