浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

表象の動きに対して制約を加えるもの

木下清一郎『心の起源』(25)

今回は、第5章 心の世界を覗きみる 第5節「自己展開をなし得る」である。

自己展開の特異性

新しい世界の出現はすでに3つの前提[①特異点、②基本要素、③基本原理]によって保証されているにもかかわらず、それが実際に動き出した時、始めて④自己展開を規定する法則性が現れて来、その法則がこの世界の将来の運命を決定してしまうという関係になっている。世界は自ら動くことによって、自らを束縛し始めると言っても良い。世界が動かない限り生まれてこないものがあるとさっき述べたことがあったが、それはこの法則性を指していたのであった。

木下は以前、自己展開について次のように述べていた。「一つの体系を構成する基本要素が、基本原理に則って変化を遂げるとき、体系を支配する法則がおのずからあらわれる。この法則が自己展開を規定する」。ここでは、世界が動くことによって法則性があらわれてくるというのである。それは「生物世界」では、どうであったか。

生物世界の基本原理は自己複製則であったが、この原理によって個性を持った核酸分子(遺伝子)の増殖が限りなく引き起こされることから、必然的に遺伝子の個性の間に競合がおこり、そこから自然淘汰という生物世界の全体を通じての自己展開の支配則が導き出されるに至っている。自然淘汰は遺伝子の情報としてあるのではなく、遺伝子の個性を選択する原理として現れてきたものであった。この意味で遺伝子を超えていると言って良い。

生物世界においては、「自然淘汰則」が、「自己展開を規定する法則」だと言うのだが、私は「自然淘汰則」については検討を保留した。(2018/04/25 基本要素としての表象 参照)

 

自己展開と選択原理

それなら心の世界ではどうであろう。心の世界が動くとは、表象が自己回帰則に従って、表象の場の中で動くことに他ならない。その際に、複数の表象が表象の場で同じ位置を巡って争ったとすると、そこに抽象作用と捨象作用が現れてくる(それが統覚であった)。複数の表象の中から共通な点を見いだしてこれを抜き出し(抽象)、共通でないものを捨てる(捨象)という過程には、何らかの選択原理が働いているに違いない。この原理が表象の個性に対するものであることは、生物世界における自然淘汰則が遺伝子の個性に対するものであったことに、ちょうど対応している。

表象の個性とは何か。木下は前節で、「表象は、論理[生きる目的に合致しているか]と感情[快であるか不快であるか]についての値を与えられて、表象の場の中にある定まった位置を占める。この尺度の座標値は表象の個性を表すものともなっている」と述べていた。(2018/04/25 基本要素としての表象 参照)

自己回帰については、「古い記憶(論理と感情の座標値)と新しい表象が照合されることによって、論理値と感情値の修正(抽象作用)が行われ、新しい記憶になる」ということを意味するのだろうと理解したが(2018/05/21 基本原理としての抽象 参照)、これを「自然淘汰」になぞらえるのはどうなのだろうか。ただ生命を維持・継続させることが「目的」として前提されているような気がする。

 

制約者の出現

表象の個性に対して選択原理が働くとは、表象の動きに対して制約を加えるものが現れたことであろう。この制約の働きを考えるのに、再び表象の場という考え方を借りたい。表象の場ではすべての表象は論理、感情、自己回帰の3つの軸に対する座標値を持つものとしてあった。表象の動きに対して制約がかかるとすれば、その制約者もまた表象の場で働くのであり、表象と同じように制約者も3つの軸に対してある値を持って現れてくると予想しても良いであろう。

原初の制約者は、始めから完成したものとして現れるわけではない。制約の対象である表象自身がそうであったように、制約者の方も自己回帰を繰り返すことによって次第に成長を遂げ、やがて一つの制約原理としての姿を現してくるものと思われる。私たちが意志と呼んでいるものは、そういう制約者を総合したものを指している。制約者がそれ自身の根を引きずりながら、表象の場の中で成長していくとすれば、制約者が総合された意志そのものにも個性があると考えられる。

制約者」とは誰のことか。いささか神がかってきたようだ。文章を逆に辿れば、「制約者」とは、「表象の動きに対して制約を加えるもの」であり、それは「表象の個性に対して選択原理が働くこと」である。表象の個性とは、論理[生きる目的に合致しているか]と感情[快であるか不快であるか]についての値を意味するのであれば、結局のところ、「生命を維持・継続させようとする力」に帰着するのではなかろうか。そのような「自然力」を「制約者」と呼んでも構わないが、そう名付けたところで、何か新しい知見が得られたことになるのだろうか。

意志」を「制約者を総合したもの」としているが、「総合」が何を意味しているのか、意味不明である。「表象の場の中で成長していく」というのも意味不明である。それゆえ、「意志そのものにも個性がある」と言われても、何のことか全く分からない。

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http://www.simply-being-spiritual.com/the-art-of-meaningful-living-6-building-awareness/

 

意志

意志が個性を持つとは、意志が一種の自発性自律性を持つことであると言い換えてもよいであろう。これは意志の自由にもつながることであろうが、その反面で意志の不可解さをもたらすものともなっているので、ここでもう少し考えておきたい。

表象は過去からの根を引きずっており、そこに同じく過去からの根をひきずった制約者が加わるとすると、そこで行われる抽象(捨象)は歴史的背景を負った一回限りの出来事になり、必然的ではあろうが決して普遍性を持ったものとはなり得ない。それが意志の自律性、または意志の自由と呼ばれるものにあたる。意志の自由とは表象の動きに対する制約のかけ方についての自由である。「制約の自由」とはそれ自体矛盾した組み合わせであるが、意志の自由にはこういう奇妙な矛盾がつきまとう。

 「制約者」が「過去からの根をひきずっている」とは、どういう意味だろうか。「意志の自由とは表象の動きに対する制約のかけ方についての自由である」というが、何を言わんとしているのだろうか。「自由」という極めて多義的で、曖昧で、よく分からない言葉を、これまたよく分からい「意志」に結び付けて「意志の自由」といったところで、全く理解できない。

 

意志の不可解さ

表象が自己回帰を行うことによって、表象を「自律的」に選択させるものがあらわれ、それを私たちが「意志」と呼んでいるとするならば、その自律的選択は自己回帰の結果ではあるが、表象自身が選択を行っているのではなく、一つ高い次元での現象である。それは心の枠組みの中にあらかじめ用意されているものではなく、表象が動くことによって初めて現れてくる。これはちょうど、生物世界で遺伝子の選択を果たす自然淘汰則が、あらかじめ遺伝子の情報としてあるのではなく、遺伝子自身よりも一段高い次元で働いていることと相即している。しかも、自然淘汰則を働かせているものを捉えようとしても捉えられないのと同じく、表象を「自律的」に選択させているものは捉えようがない。捉えようがないとは、先の見通しが全く立たないということである。その捉えようのないもの、見通しの立たないものを意志と考えるのであるから、問題は難しくなる。

生物世界における自己展開が自然淘汰則に従って動いているのと同じく、心の世界における自己展開は意志の自由則に従って動いているとすると、なお一層難しい問題が現れてくる。自然淘汰則が競争原理であるのと違って、意志の自由則の働き方は単純な競争原理ではないように見えるからである。それは一種の自律原理であるらしいが、自律の内容はまだよくわからない。これは将来の課題として残しておきたい。このあたりに道徳律の起源や、道徳律を命ずる超越者に関わる秘密が隠れているように思える。道徳律や超越者は、表象が動いている次元よりも一つ高い次元で働いているのであろう。

ここでは、表象を「自律的」に選択させているもの[制約者、意志]は捉えようがないと言っている。そしてまた「自律の内容はまだよくわからない」ともいう。これでは、ただ単に言葉を並べているだけではなかろうか。しかも「道徳律」とか「超越者」が、「高い次元で働いている」という。全く理解できない。

 

意志は自由か

「意志は自由であるのか」というような大きな問いに、ここで答えることなど到底できるものではない。

先ほど、意志の自由について説明があり、ここでは答えることができないという。

しかし、ここまで導かれてきた心の働きの流れを逆に辿ると、統覚の出現という自己矛盾に行き着くほかなかったということから、自ずと引き出されてくる帰結にだけはふれておきたい。

以前、「統覚=統合能力の出現という自己矛盾」の話があったかと思うが、何が自己矛盾なのかわからない。

それは一つの自己矛盾を解決しようとすれば、また別の自己矛盾をもって替えるよりほかなく、どこまでいっても決着をみることなく、矛盾の連鎖をなすであろうというやや悲観的な結論である。

「別の自己矛盾」というのも分からない。

従って、意志もまたこの矛盾を先送りするほかないという運命を担っていると言えよう。意志とは一見自由であるように見えるが、それは自由であるというよりも、その中で再び矛盾を引き起こして、更に行く先を模索している姿でしかないのであろう。意志とは統覚の出現という不条理に端を発する自己矛盾の連鎖の中の一つの様相であるように見える。

先ほど、意志の自由について説明があったが、ここでは意志の自由などない、と言っているのだろうか。

私には、「生命を維持・継続させようとする不可知の力」を、「意志」と名づけたにすぎないように思われる。

つまり、心の世界は矛盾の連続であり、それに対する取り繕いの連続であるということになる。しかし、これは心の世界のみに与えられた不備、あるいは欠陥というわけではない。生物世界でもやはり同じように、世界のはじめに据えられた自己矛盾という破れ目をどこまでも際限なく繕い続けることの中に、発展の道を見出しているのであって、心の世界に現れている破れ目も、これと軌を一にしていると言えよう。これはいわば有機体の宿命なのであろうか。その反面で、心はいつまでも今のままの心であり続けるものではなく、これから先なお発展し変貌していくに違いないという希望を与えてくれるものでもある。

ここで立てた仮定は次のようであった。

(14) 心の世界における自己展開の支配則は「意志の自由」である。

 

本節もまた理解不能である。哲学もどきの説明で、意味不明の言葉を並べ立てられても理解することはできない。