浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

ケンカツ(健康で文化的な最低限度の生活)、「ふつうの生活」

阿部彩『弱者の居場所がない社会-貧困・格差と社会的包摂』(1)

先週より、生活保護をテーマにしたドラマ『健康で文化的な最低限度の生活』(フジテレビ系)が始まった。

日本国憲法第25条

第1項 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

第2項 国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 ドラマは始まったばかりであり、コメントは控える。ここでは、阿部彩『弱者の居場所がない社会-貧困・格差と社会的包摂』(2011年)をとりあげる。第1章は「生活崩壊の実態」であるが、これは省略し、第2章「最低生活を考える」を見ていくことにする。

 

「貧困」ってなに?

物質的に豊かになった現代日本において、「貧困」とは、いったいどのような状況を指すのであろう? この問いは、簡単なようでいて簡単ではない。「貧困」という言葉を聞いたとき、多くの人は、発展途上国の人々や、第二次世界大戦中及び戦後の日本を思い浮べるという。しかし、このようなイメージの「貧困」は、現代日本のコンテクストにおいては、ほとんど存在しない。たまに、給食費を滞納する子どもがいるものの、「これは、きっと親の怠慢だろう」「ホームレスの人たちだって、飢えているようではなさそうだ」。多くの人は、そうやって、日本においては「貧困」は撲滅されたと考える。

時折、悲惨な状況を見聞きすることはあっても、それは極めて例外的であろうとスルーしてしまう。「貧困」が何を意味するかをまともに考えようとしない。

「貧困」という言葉は、社会として「許されない」生活水準のことである。即ち、「貧困」を定義することは、逆に考えれば、現代の日本社会において、どこまでが「許容範囲」の生活なのかを定義することである。当然ながら、ここには価値判断が含まれる。

おそらく「貧困」という言葉には抵抗(マイナスイメージ)があるだろう。だから、そういう問題は考えたくもない、という気にもなろう。

阿部は、「社会として許されない生活水準」とか「どこまでが許容範囲の生活なのか」という言い方をしている。どんな事例でもいいのだが、社会生活の一コマを思い浮べてみよう。

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写真のような「浴衣デート」が現実に可能かどうか? 相手がいなければデートもできない。いたとしても「浴衣」など買えそうにもない。イベント会場までの交通費もかかる。遊んでいる時間はない……。では「浴衣デート」は、社会として許されない生活なのか。許される生活なのか。(たぶん、許されないだろう。何故か?)

人によっては、人それぞれの能力や努力や単なる「運」の結果として、それこそ餓死してしまう人がいても、それは自然の摂理、致し方ない、と言うかもしれない。究極の弱肉強食の世界である。一方で、ある人は、全ての人が、贅沢とは言えなくても、1日3食、栄養的に適切な食事がとれるべきだ、と言うかもしれない。

恐らく現代の日本社会において、前者の「負けたら死んでもしかたない」というような究極の弱肉強食の原理を良しとする人は少ないであろうが、どれほどの生活が「最低限」の許容範囲なのか、という水準については、さまざまな意見があろう。この判断がまちまちであるため、人によって「貧困」とはどのような状況を示すのかの見解に大きな差が出てしまうのである。

「競争」に負けたら、お前に能力が無かったか、努力が足りなかったからだ、「自己責任だ」という人は多い。そういう人でも、「最低限の生活は保障すべきだ」と言う。そのように言うことで、「何故、最低限の生活を保障しなければならないような事態が生じているのか?」という問いを問おうとしない。そういう人に限って、不正受給に目くじらを立てる。

世の中にはいろいろな意見の人がいるとしても、国家としては、我が国における「最低限の許容範囲」は何かを定めなくてはならない。そして、国として、それを保障するための制度や政策を実現していかなければならない。日本国憲法においても、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と、国民の権利としての「最低限度の生活」を定めている。 

 国として、「健康で文化的な最低限度の生活」を保障しようというなら、それがどの程度の生活かを定めなければならない。

問題は、この「健康で文化的な最低限度の生活」がどのようなレベルの生活を示すのかを憲法が明記していないことにある。憲法第25条は、生活困窮者に生活費、医療費、住宅費などの給付を行う生活保護法の根拠法であるが、生活保護法で定める「最低生活基準」が何であるかは厚生労働大臣の裁量によって決定される、となっている。実際には、最低生活基準は、一般的な世帯の消費水準の約60%に設定されている慣行が1984年から続いているが、この慣行とて、国民の理解と合意のうえで設定されているとは言い難い。

「健康で文化的な最低限度の生活」がどのようなレベルの生活かを憲法に規定するのがよいかどうかは検討事項だろうがここではふれない。

なお、「最低生活基準は、一般的な世帯の消費水準の約60%に設定されている慣行が1984年から続いている」とあるが、これは現在は(2007年~)、生活保護を受けていない低所得世帯(年収下位10%以内)の消費実態との均衡が図られることになっている(詳細は別途)。

 

相対的貧困絶対的貧困

日本の多くの人が持っている「貧困」のイメージは、食べ物にも事欠いており、衣服もボロボロである、といった、発展途上国の難民や、終戦直後の日本の状況であるという。このような、生きることさえ危うい状況のことを「絶対的貧困」と呼ぶ。…絶対的貧困は、時代や地域、国を越えて共通な定義である。すなわち、人間という生物において不変のもの、例えば生存するために必要な栄養量や衣服など生物学的な見地から捉えられていることが多い。

一方、相対的貧困とは、その社会のほとんどの人が享受している「ふつうの生活」を送ることができない状態と定義される。「ふつうの生活」の中には、食事、衣服、住宅の「衣食住」はもちろんのこと、就労やレクリエーション、家族での活動や友人との交流、慣習といったことが含まれる。ただ単に労働能力を維持するだけであれば、家畜でも奴隷でも同じである貧困でない生活には、人としての尊厳や人権が守られ、社会参加の機会が保障されていなければならない。その「ふつうの生活」、例えば、働いたり、友人や親戚と付き合ったり、結婚したりするためには、ただ単に寒さをしのぐだけの衣服ではなく、人前に出ても恥ずかしくない程度の衣服が必要であろうし、電話などの通信手段や、職場に行くための交通費なども必要であろう。そしてそれらの費用は、社会全体の生活レベルによって決定される。このように考えるのが、相対的貧困である。

相対的貧困率*1という指標がある。この指標の理解の前に、阿部が述べる「相対的貧困」の意味をよく考える必要がある。「ふつうの生活」を送ることができるかどうかがポイントである。「ふつうの生活」と言っても一義的ではなく多種多様であろう。確かにそうなのだが、「寝たきり生活」や「引きこもり」や「刑務所暮らし」…は「ふつうの生活」ではないだろう。私は、すべての人が、社会の中に「居場所」があることが、最も大切なことだろうと考えている。それが「ふつうの生活」を送るための条件であろう。(なお、「ふつうの生活」とは、すべての人が同じ生活をすることではない。)

 もちろん、生存していくことさえ不可能な絶対的貧困の状態にある人が社会に存在することは大問題であるが、相対的貧困も時として絶対的貧困と同等の、またはそれ以上のダメージを人に与える。…例えば、クラスで一人だけ給食費は払えない子どもがいる状況はどうであろう。みんなが同じ給食を食べている時、その子は一人、家から持ってきた塩おにぎりを食べているとしたら、これが相対的貧困である。その子の感じる疎外感、心理的ダメージはどのようなものであろう。みんながお腹を空かせていた中で育った子ども[絶対的貧困]と、一人だけ給食が食べられない子ども[相対的貧困]。どちらがより貧困の影響を受けるであろう。答えはそれほどシンプルではない。

 他者と同じことができない。他者と同じ「ふつうの生活」ができない。疎外感。…子どもの例があげられているが、もちろん大人の世界でも同様である。疎外感(社会から排除されている、人として尊重されていない、自分は仲間に入っていない…)が、多くの人々の共通感覚になっているように思われる(統計的に確認したわけではないが…)。…あなたは「和服デート」が出来ますか? もし出来るとしたら、出来ない人のことを考えたことがありますか?

 

精神的な貧困論

精神的な貧困論とは、「本当に豊かな生活とは、モノの多寡によって決められるのでなく、精神的に豊かな生活のことである」といった主張である。…確かに、所得が低くても、モノをあまり持っていなくても、精神的に豊かな生活を送ることは可能かもしれない。次章で紹介するホームレスの人々の中にも、生活水準としては極貧の生活を送りながらも、実に穏やかな目をした方がいた。彼らを見ると、経済的な貧困と精神的な貧困は、必ずしも一致しないのだな、と感じる。道行くサラリーマンの方が、よっぽど、げっそりと死んだ魚のような目をしていたりする

精神的な貧困論が、「本当に豊かな生活とは、モノの多寡によって決められるのでなく、精神的に豊かな生活のことである」といった主張であれば、賛同できる。しかし、「物質的(経済的)な貧困が問題なのでなく、精神的な貧困が問題なのである。」とか「物質的(経済的)に貧困であっても、宗教を信じれば、心が豊かになれる。」と主張し、物質的(経済的)な貧困が問題ではないように主張するのであれば賛同できない。私たちの生活がモノ(例えば衣食住)なしに成り立たないとすれば、モノと心(精神)の関係を単純に切り離すべきではないのである。

しかしながら、すべての現代人に共有される現代社会の「精神的な貧困」があるとしても、経済的貧困が問題ではない、という理由にはならない。むしろ、経済的貧困の及ぼす影響を見ていくと、経済的貧困が精神的貧困を誘発するという図式も見えてくる。だから私は、あえてここで経済的貧困がいかに破壊的であるかを強調したい。

阿部は極めて真っ当な見方をしていると思う。「経済的貧困が精神的貧困を誘発する」。カネが無ければ、「ふつうの生活」を送れない。そうなれば「精神を病む」。もちろん、精神的貧困は経済的貧困のみに起因するわけではないだろうが…。

 

御意

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意に沿わない命令(価値観の異なる命令)にも、従わなければならない。

どうしてか?

「ふつうの生活」が送れなくなるから。

 

ブラック企業ばかりではない。一流企業とされる上場企業や官庁における事例を見れば、問題の根は深いと思わされる。

*1:OECD経済協力開発機構)では、等価可処分所得(世帯の可処分所得を世帯人数の平方根で割って算出)が全人口の中央値の半分未満の世帯員を相対的貧困者としている。相対的貧困率は、単純な購買力よりも国内の所得格差に注目する指標であるため、日本など比較的豊かな先進国でも高い割合が示される。(デジタル大辞泉