気の向くままに

井蛙は以って海を語るべからず、夏虫は以て冰を語るべからず、曲士は以て道を語るべからず

生きているとはどういうことか? もう一度根元的な問いを問い直すこと

木下清一郎『心の起源』(27)

第6章(最終章)は、「心の未来はどうなるか」である。

[前章までで]ひとまずの結果は得られたとして、筆を止めても良いのかもしれない。しかし、心の世界についてはなお気がかりなことが残っている。それは例えば、心の世界の未来がどうなっていくのか、心の世界では何が可能になったのか、あるいは何が可能でないのか、といった問題である。…それはもう自然科学の領分を遠くはずれた領域に踏み入ることであって、生物学の立場から見えてくることは、ほとんど残っていないであろうという心配はある。

 以下、見出しだけを見てみると、

 第1節 心と心のつながり…心の未来、心と心の接触、心の世界の階層、階層の成立

 第2節 社会という階層…社会と世界、混在する社会、

 第3節 生物社会の特異さ…生物社会の多様さ、ふたたび記号系、社会と記号系、生物社会の支配則

 第4節 心の社会の特異さ…意志の制約、心の社会の支配則、心の社会と生物社会

 第5節 世代を超えて心の世界は継承される…二つの世界の重なり合い、生物世界の再構成、心の世界の再構成

 第6節 「心の未来」への期待…心の世界はまだ進化する、心の世界の規範則を求めて、愛について

これらについて、逐一引用とコメントはしないことにする。(これまでと同様、「わからない」ということに落ち着くだろう)。

それでも、わからなさの一例をとりあげてみよう。(第4節の「心の社会と生物社会」から)

(1) 生物社会(例えばハチの社会)では、個体は社会の中に埋没している。個体ははじめから社会の構成員として生まれており、単独の個体としては生存することすら危うい存在である。

(2) これに対して心の社会(例えばヒトの社会)は個体(つまり個人)の自由な意志に基いて作られる連帯である。生まれてくる個体は丹念に心と心の結び目を一つずつ繋いでいって、その結果として社会が作られるという形をとる。

(3) ハチでははじめに社会があって、そこから個体が生ずるのに、ヒトでははじめに個体があって、そこから社会が生ずる。あるいは、ハチの個体は脆弱であるが、その社会は強靭であるのに、ヒトの個体は強靭であるが、社会は脆弱であると言っても良い。社会が現れる順序が、ハチでは全体から個別へと向かっており、ヒトでは個別から全体へと向かっているのであるから、全くの逆である。

(1)は、ハチの社会のみならず、ヒトの社会でも言いうることだろう。(2)の「心の社会(例えばヒトの社会)は個体(つまり個人)の自由な意志に基いて作られる連帯である」は、何を言っているのかわからない。(3)の「ハチの個体は脆弱であるが、その社会は強靭である」、「ヒトの個体は強靭であるが、社会は脆弱である」というが、何をもって脆弱とか強靭とか言っているのかわからない。「社会が現れる順序が…ヒトでは個別から全体へと向かっている」というのも、意味不明である。「社会が現れる」と言うときの「社会」という言葉が何を意味しているのか、詳細な説明がないと分らない。

 

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https://biointerestingfacts.wordpress.com/what-does-it-mean-to-be-alive/

 

木下は「あとがき」で、こう書いている。

生きているとはどういうことか」などという大時代的な問いを発する機会は、最近の生物学では少なくなってしまったように思う。また「心を持っているとはどういうことか」を問うのは、自然学よりもむしろ人文学に属していたのだが、そこでもこういう書生的な問いを顧みる機会は、少なくなっているように思う。こうして「生」と「心」の二つは、孤児同様にうち捨てられてしまった。

自然学といい、人文学というものの、もとはと言えばどちらも人間の根元を知りたいという欲求から生じたものであったはずであるのに、正面切って人間の根元を問うなどということが、かえって面はゆいようにさえ思われるといったら、言い過ぎになろうか。いずれの分野でも、あまりに専門的な問題に深入りし過ぎているからかもしれない。その上、いつからか両者の間には乖離さえ生まれてしまった。

もう一度根元的な問いを問い直すこと、そして自然学と人文学との間に橋を架け渡すこと、どちらの領域にとっても大きな夢である。この幻の架け橋はいつかは完成させたい。いまここで果たせなかったとしても、その先は若い人たちがきっと繋いでくれるであろう。もし本書がその糸口になれたら、わたしとしてはそれで十分に満足である。本書が目指すところは、この一事に尽きる。

 私は「哲学」がどういう営為なのか知らないが、やたら難解な言葉を、根拠なくふりまわすのではなく、自然科学者にも理解可能な言葉で、「人間の根元」を問うことが必要であると思う。しかし、「哲学」という一学問分野に、それを期待することはできないと感じている。

「生きているとはどういうことか」というこの素朴な問い、それは「大時代的な問い」でも、「書生的な問い」でもない。

今回で、『心の起源』の読書ノートを終了する。