浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

生殖医療技術と生命倫理 夫のものではない精子、妻のものではない卵子を使って子どもを持ちますか?

立岩真也『私的所有論』(11)

第3章 批判はどこまで行けているか は、人工授精・体外受精等の生殖技術への批判の言説を検討している。前回は、その内容をみる前の予備知識の収集で終わった。立岩は、このテーマを「私的所有・自己決定、市場への境界設定」といった視角から検討している。この視角のほうが主たる関心であり、生殖技術の問題はその一例であるようにもみえる。

まず第1節 自己決定の条件 では、

自己決定の原則を認め、自己の身体を自己の決定権の下にあるものとした上で、この原則から、生殖技術の現実を批判する議論の有効性の範囲を検討する。

としている。ここで生殖技術をどのようなものとして考えるか。前回見た通りいろいろあるが、ここでは特に問題となる体外受精とりわけAID(非配偶者間人工授精)を念頭においておこう。夫のものではない精子、妻のものではない卵子を使うことの是非である(例えば、冷凍保存された有名大学の学生の精子を買って人工授精しますか?)。これは過去の話ではなく、遠い将来の話でもない。いま現在の話である*1

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http://s-bi.com/wp_diary/kou/2017/03/26/post-51696.html

 

(第1の批判)決定のための情報

自己決定の前提として、決定のための情報が提供されていなければならないが、それが(十分に)なされていないことが批判される。

体外受精代理母というような生殖技術を利用するか否かを決定するための情報とは何か。

 ・身体的負担・心理的負担が大きいこと

 ・体外受精の成功率[統計情報の信頼性]

 ・技術そのものの問題性

などが挙げられている。

わずかの成功に至るためにどれほどの負担が必要なのか。まず要する時間、期間。また排卵を誘発するためのホルモン剤の投与がどれほどの苦痛をもたらし、副作用等の危険性を持つのかも十分に知らされているとは言えない。

自己決定は決定のための正確な情報を前提として初めて自己決定となるのだから、これらの問題は当然解決されなければならない。…さらに最低限の情報提供の体制が整うまで技術の応用にモラトリアムを設定すべきという主張も成立しうる。

 

(第2の批判)自己決定ではないとする批判

現実になされる行為が本当に自由な行為なら認めるが、この条件を満たしているか、それが強制されたものだとすれば問題だ[という批判]。

各人の持つ資源(の格差)の問題、例えば貧困が代理母になることを強いているといった指摘は第2節で検討することにし、ここでは子を持つことを強いられるという指摘を考えてみよう。批判者は、子を産むことを強制する社会規範の存在を指摘する。「産む」のではなく「産まされている」のだと言われる。「女なら」あるいは「夫婦なら」子を持とうとするものだ、あるいは持つべきだという言葉はそこらに満ちている。その一つ一つは具体的な強制として現れていないとしても、当事者に重くのしかかってくる場合がある。あるいはもっと具体的に、夫や親によって人工授精等が強要されている。…社会学的な作業とは、少なくとも一つに、こうした「現実」の「権力」関係を解き明かすことであるのかもしれず、真空に議論を展開する既存の「生命倫理学」に欠けており、社会科学に期待されているのもそうした役割なのかもしれない。しかし、そのことの意義を承知しながら、なお私は、その「現実」を解明した後に現れる反論を見ておかなくてはならいと考える。

「子を産むことを強制する社会規範」が存在することを明らかにし、それを非難したとして、それでどうなるのか。

①技術の利用に対する強制[人工授精等の強制]が、当事者によって報告される場合、また確実に推定される場合、これは自己決定の原則に明白に違反するのだから、それを問題にし、その解決のための手段を講じなければならない。

生殖技術を批判する者に対しては、「(自己決定の原則に違反するから)そんな強制はいけないね」と同意されて、おしまいにされるかもしれない。

②「社会」が女性に産むことを促している事実は、当人の報告を待たずとも、例えば各社会間の各集団間の差異を検出するといったしかるべき方法をとれば確認可能であり、現実のある部分を確かに説明するだろうが、それは個々の人の欲求の全体を説明しているとは言えない。子を持ちたいという「素朴な気持ち」が語られ、それを「社会」の言葉で説明しようとする、しかしやはりそうは思えないと言われ、だがそれは実は…、という繰り返しになる。職業上社会科学者は後者の側にいることが多い。だが「規範」「役割」の言葉で全てを説明することは出来ない。

「子を持ちたい」という「素朴な気持ち」は、どのように生ずるのか。親の願望(孫の顔が見たい)、親戚付き合い(私たち夫婦にだけ子どもがいない)、友人たちとの会話(子どもの話題に入れない)、街で見かける子供連れのカップル(私たち夫婦には、何かが欠けているのではないかとの思い)…。「子を持ちたい」というのは「希望」であり、「ストレス」でもある。しかし、「子を産むことを強制する社会規範」や「女性の役割」に反発し非難したところで、この「素朴な気持ち」が消えることはない。これをどう評価するか。

③選択・行為が「自由意志」に拠らなくてはならないという条件を強くとれば、…自由な行為なるものの範囲は非常に限られたものになるだろう。…私たちが一般に採用する「実践的」な規定としての「自己決定」の基準とは、その動機の出所がどこにあるにせよ、それを当人が実際に行おうとしたなら、それはその者が選んだ行為とするというものだ。ここでは、子を育ててみたいから子を望むのと血縁の連続のために子を持ちたいという動機とは、それが当人の欲望として表明されている限りで、同じ準位にある。…通常の妊娠→出産の場合に、その意図、その意識の内容が問われることはない。その「普通」の人にしても、家系の存続のため、妻だから当然という意識から、子を産もうとするのかもしれない。とすれば、生殖技術を利用して子を持とうとする者もまた、その「普通の人たち」と少なくとも同等に扱われてしかるべきではないか

生殖技術に頼らず、普通に妊娠、出産する人も、先にみた「ストレス」(社会からの心理的強制)から産もうとしているのかもしれない。しかし、(不妊であるがゆえに)「自己決定」で(自分の意志で)生殖技術に頼ろうとする者を、それはダメと否定できないのではないか。

通常言われる自己決定の原則を認める場合に帰結することを以上で述べてきた、

  1. 決定の前提となる情報の提供が実質的になされることを条件とした上で(現実の問題の過半はここにあるだろう)、
  2. 技術の利用を選択するという者の意志を認めること、「自発的」に行うとする者を許容すること、
  3. 技術の利用を積極的に望まない者の決定が、できる限り他者の意向に左右されないものとすること、
  4. 全般的な制限は、個別に対応することが難しく、そこに深刻な被害がある場合に限られる。

例えば、③の条件を現実に満たすことが困難であり、多くの人が技術の利用を強いられてしまい、生命に関わるような危険が高い割合で生ずるといった場合が考えられる(厳格な自己決定を擁護する者はこの場合にも制限を認めないかもしれない)。

「生殖技術の利用が強いられる」という点について、

「安易に」子を持てることに対する危惧が語られ、逆に「解放」の可能性への期待が語られた。家族や性的な関係の未来や、受精卵や胎児の権利(と女性の権利との衝突)について語る言説だけがあった。いくつかの報告がようやく、現にある、しかし隠されている諸問題を指摘したのだ。技術の応用の実態に絞ってこれを徹底的に問題にし、その解決策を提案する方が、焦点の定まらない全般的な批判を行うよりも有効なことがある。しかし、それでよいなら、今見た範囲については基本的には批判はこれで終わる。

「隠されている諸問題」が何であるかよく理解していないのだが、「焦点の定まらない全般的な批判」(表面的な批判)で済ますことなく、「技術の応用の問題点を明確にし、その解決策を提案する」ことが重要であることには、同意できよう。

[生殖技術を]利用するかしないかはあくまでも本人の選択の問題であろう。それにもかかわらず…生殖技術の問題を取り上げるのは、それを利用する側(患者)より、むしろそれを提供する側(実験科学者や臨床医)の倫理観やそのバックグラウンドとなっている現在の医療制度に懐疑を抱かざるを得ないからである。(御茶ノ水女子大学生命倫理研究会)

「実験科学者や臨床医の倫理観」や「医療制度の問題点」については、今後勉強していこう。

*1:次回以降、詳しく見ることになろう。