浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

<「Aとも言えるが Bとも言える」は、何も考えていないだけ>なのだろうか?

たまたま、<「Aとも言えるが Bとも言える」は、何も考えていないだけ。>という記事が目に入ったので、これについて少し考えてみよう。

ブロガーの「ちきりん」さん(以下、Yと呼ぶ*1)が、こんなことを言っているらしい。検索してみたら、<「Aともいえるが Bともいえる」とか言う人の役立たなさ>が出てきた。

Yは述べている。

私が「Aだ!」といったとき、「いや違う、Bだ!」と言える人は、自分のアタマで考えてます。単に結論が違うだけ。でも、たいていの人はそこまで言えません。「何も考えてないが、とにかくなんらか反対したい!」という人は、あたしが「Aだ!」と言った時、「いや、Aではない!」としか言えないんです。いわゆる「批判と否定しかできない人」ですね。自分の意見が無いから、他者の意見を否定するしかない。

私はこんな文章を読んだ場合、通常はスルーする。しかし、「自分の頭で考える」とはどういうことか、を考える手立てとして、あえてこの文章を取り上げてみよう。

最初の<私が「Aだ!」といったとき、「いや違う、Bだ!」と言える人は、自分のアタマで考えてます>からひっかかる。AとかBで、何を指しているのか。それを明示しないで、「自分のアタマで考えてます」などと言えるのだろうか。

 ①太陽系の惑星は8つある。

 ②いや違う、太陽系の惑星は9つある。

 ③太陽系の惑星は8つではない。

①の主張に対して、②を主張する人は、自分の頭で考えているのだろうか。…①の主張が、2006年国際天文学連合による惑星の定義を踏まえて、「水・金・地・火・木・土・天・海」を考えていたとする。②の主張が、その定義を知らず、昔ながらの冥王星を含めていたとする。彼は「自分のアタマで考えていた」のだろうか。③の主張が、「9つとは言えきれないが、少なくとも8つではない」という意味であったなら、彼は「批判と否定しかできない人」なのだろうか。惑星の定義の仕方が問題なのは明白である。

次のような例はどうだろうか。

 (1)消費税を20%にすべきである。

 (2)いや、むしろ消費税は減税し、所得税累進課税を強化すべきだ。

 (3)消費税を20%にすべきではない。

(3)の主張は、「批判と否定しかできない人」の言明なのだろうか。何%にすべきか、まだよくわからないが、少なくとも20%に増税すべきではない、という主張だったとしたらどうだろうか。

第1の事例は「客観的事実」に相当する事柄、第2の事例は「価値判断」が絡んでくるものをとりあげた。

さて、Yの主張のどこがおかしいか。私が思うに、「いや違う、Bだ!」とか、「いや、Aではない!」という言葉のみを取り上げて、「自分のアタマで考えている」とか、「自分の意見がない」とか、「他者の意見を否定する」とかと、断定している(決めつけている)ことである。そのような断定(決めつけ)ではなく、「いや違う、Bだ!」とか、「いや、Aではない!」とかの主張(言明)に出会った時、「それはどういう意味か」、「そう主張する根拠は何か」、「どうしてそういうふうに感じるのか」と、話し合い(議論)を始めることが重要なのである。「批判と否定しかできない人」と決めつけて、話し合い(議論)を拒否することが問題である。それゆえ、私はYのような主張を聞くと、非常に不遜な態度に見えてしまう。

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https://www.youtube.com/watch?v=gH77lBPsaNk&index=27&list=RDsiW-2xl0hyY より、ピックアップ

 

一番つまらないのは、「Aとも言えるがBとも言える」みたいな意見。「それは、そもそも意見なの?」って感じです。そんなことなら何ひとつ考えなくても言えるし、5歳の子でも言えます。

私は、「Aとも言えるが、Bとも言える」みたいな意見を一番評価する。ある事柄を判断するのに、前提イの場合はAと言えるが、前提ロの場合はBと言える。話し合い(議論)をするのに最重要な前提に対する明確な意識を持って、「Aとも言えるが、Bとも言える」と切り出して自説を展開することはよくあることである。これはよく考えなければ言えないし、5歳の子が言えることではない。

前提に対する明確な意識を持っていない場合はどうか。有識者aがAを主張し、有識者bがBを主張している時、それを聞いている一般人は、それをどう判断するか。「AともBとも言えるようだが、よくわからないね」というところが正直なところではなかろうか。だが少なくとも、ある程度はA,Bを理解したのである。A,Bを理解しなければ、「Aとも言えるが、Bとも言える」とは言えないはずである。そして、そのように言えるということは、何ひとつ考えなくても言えるということではないし、5歳の子でも言えるというものではない。

またこれは確かに「意見」ではないかもしれない。「意見」とはどういう意味かわからないが、「感情表現」であっても良いではないか。「Aとも言えるが、Bとも言える」という言い方で、何を感じ、何を表わしたいのか。それを汲み取ろうとする姿勢・態度が肝要ではないか。

Yの主張は、「対案」を示さなければならない、それができないのは「自分の意見」がないということである、という決めつけ(断定)のように聞こえる。つまり、いろんな意見(感じ方)を、十分に話し合って(さらに言えば、そのような意見(感じ方)を拾い上げて)、より良い方向を目指すという姿勢が欠如しているように見受けられる。

 

「自分の頭で考える」とか「自分の意見を持つ」ということは、決して容易なことではない。そもそも、どういうふうになれば、「自分の頭で考える」とか「自分の意見を持つ」と言えるのか、という点に関してすら合意を得ることは難しいだろう。

私には、「言語」とか、「脳の生物学的構造と機能」とか、「自己と他者」とか、…それらの一定程度の了解なしに、「自分の頭で考えろ」とか「自分の意見を持て」と言うことはできない。

 

※「ものの見方・考え方」に関しては、伊勢田哲治、『哲学思考トレーニング』をおすすめします(本ブログ「読書ノート」でとりあげた)。

 

※これまで「自分の意見」について言及したことがあります。「自分の意見」で、ブログ内検索してみて下さい。

*1:Yと置き換えたのは、当該記事に書かれたことのみをとりあげるという趣旨であって、「ちきりん」さんの真意を問題にしないためである。(私は、営利企業のマネジメントに限定した話をしていない)