浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

私の居場所がない 社会的排除と包摂

阿部彩『弱者の居場所がない社会-貧困・格差と社会的包摂』(3)

今回は、第3章 「つながり」「役割」「居場所」をとりあげる。

社会的排除

人の生には、金銭的・物質的な指標では測れない、「質の問題」があることも事実である。ある程度の水準の金銭的・物質的な生活は、精神的な豊かさや社会参加などを可能とするための前提条件であるものの、それらが十分であれば精神的な豊かさや社会参加を享受できるというわけではない。…近年ヨーロッパ諸国では、従来の貧困の概念を、より広く捉え、深く掘り下げた「社会的排除」という概念が、社会政策の考え方の主流となりつつある。…「社会的排除」という概念は、資源の不足をきっかけに、徐々に、社会における仕組み(例えば、社会保険や町内会など)から脱落し、人間関係が希薄になり、社会の一員としての存在価値を奪われていくことを問題視する。社会の中心から、外へ外へと追い出され、社会の周縁に押しやられるという意味で、社会的排除(social exclusion)という言葉が用いられている。一言で言えば、社会的排除は、人と人、人と社会との「関係」に着目した概念なのである。

(私を含め)一応、社会の仕組みに乗っかっている人は、生活保護制度があるから、「最低限度の生活」は保障されていると考えている。いろいろな問題はあるかもしれないが、特殊な例外を除けば、野垂れ死にすることはない、セーフティーネット(安全網)は張られている、と考えている。そしてそれ以上考えることはない。

しかし、社会の仕組みから「脱落した人」の立場からみれば、世界は一変して見える。街行く人は疎遠で、まさに「住む世界」が異なる。それは、社会の仕組みに乗っかっている人にとっては、容易に想像できないだろう。ある程度想像できても実感できない。「痛み」を感じられない。(病気療養のため長期入院を余儀なくされ、退院のめどが立たず、見舞いの客もほとんどなく、窓外の風景を眺めている状況を想像すれば、少しは感じられるだろうか)。

社会的排除とは何か。社会的排除とは、基本的に社会の仕組みに乗っかっている人が、社会の仕組みから脱落した人のことを知らない、知っていても「問題だ」とは考えない、そんな人のことは考えたくない、自己責任だから仕方がない、というような態度をとることである。

それは望ましくないと思うなら、排除せず、受け入れなければならない(社会的包摂)。でも、どうやって…?

包摂される単位は、国家のみではない。会社、労働組合、地域、町内会、家族、そして様々な私的なグループやクラブ、個人行動が苦手な日本人は、「〇〇会」といったグループを作るのがとにかく好きである。同窓会や同期会、趣味のサークル。会社の中では、部や課といった、更に小さな部署単位に分けられ、その中で結束を高めていく。こうして私たちは、幾重にもいくつもの小さい社会に包摂されながら生きている。…これらの「小さな社会」は、人が他者とつながり、お互いの存在価値を認め、そこに居るのが当然であると認められた場所なのである。これが「包摂されること」である。社会に包摂されることは、衣食住やその他もろもろの生活水準の保障のためだけに大切なのではなく、包摂されること自体が人間にとって非常に重要なのである

阿部は「これらの「小さな社会」は、人が他者とつながり、お互いの存在価値を認め、そこに居るのが当然であると認められた場所なのである」と述べているが、果たしてそれはどうか。地域や家族や趣味のサークルや会社や…これらの「小さな社会」が、「人が他者とつながり、お互いの存在価値を認め、そこに居るのが当然であると認められるべき場所」であると言うなら、一つの主張として理解できる。だが、事実認識としては、明らかに誤りだろう。「地域」や「家族」や「会社」等々が、「社会的包摂」の観点からどうあるべきかは、それとして考慮されなければならない。十把一絡げに「小さな社会」として論じられるものではない。私はこれらをコミュニティと呼ぶのだが、それにはさまざまなレベルがある。国家も中間レベルのコミュニティである。それぞれのレベルにおいて、メンバーが排除されるとはどういうことか、包摂されるとはどういうことかを考えなければならない。阿部は「包摂されること自体が人間にとって非常に重要なのである」と言うが、その通りだと思う。

社会的包摂の観点がない貧困政策は愚策である。人を飢えないように、凍えないように、それなりの物質的・金銭的な生活水準を保てる生活を保障していても、それがその人の社会とつながる機会を奪い、彼/彼女が自分の存在価値を発揮できる機会を与えず、ただ社会のお荷物として生きることだけを強いる政策であったら、そのような政策は意味を持たない。それがヨーロッパ諸国における社会政策の反省点であり、ヨーロッパにおいて貧困政策が社会的包摂政策に変容してきた理由なのである。

「貧困政策」が、「健康で文化的な最低限度の生活」のための金銭給付・現物給付にとどまっていてはダメだということである。「社会のお荷物」として扱ってはいけない。コミュニティのメンバーとして遇しなければならない。そのための手立てを真剣に考えなければならないだろう。

私は社会的排除/包摂というトピックについて、彼ら[ホームレス]のことなしに考えることはできない。…社会的排除や包摂という概念が、難しい熟語や外来語を並べた何だかわからない机上の哲学や理想論のように語られるのを見ると、「いや、社会的排除は、そんなもんじゃない。もっともっと、リアルな、現実的な、生々しいものなんだ」と叫びたくなるような衝動を感じるのである。…私は、彼ら[ホームレス]を社会的排除の究極の姿として、皆様の前に提示したいわけではない。確かに、彼らの生活には一般市民の生活とはかけ離れた、凄まじいものがあるが、私が彼らに教わったのは、社会的排除の悲惨さではない。彼らが身をもって語ってくれたのは、「つながり」「役割」「居場所」というものが、いかに人間の尊厳を保つ上で不可欠なものであるのか、ということなのである。どのような状況にあっても、彼らが最後までかじりついていたのが「つながり」であり、「役割」であり、「居場所」であった。私たちが当たり前のように享受しているこれらが人間の生にとって、いかに大切なのか、いかに基盤的な存在なのか、それを彼らのエピソードを通して語っていきたい。

人が社会の中で「共に生きる」とは、さまざまなコミュニティの中で、他者とつながり、何らかの役割を持って、生きることである。そのように生きることが認められているということが、「居場所」があるということである。そしてそのように生きることが認められるべきだ(居場所を確保すべきだ)、というのが、私が考える「社会保障政策」である。(具体的な政策、制度を論じることは、まだ先の話だが…)

 

(1) 関係からの排除-つながりがあるということ

阿部は、4人のホームレスのグループの話を紹介している。

うちの一人[おじいちゃん]は…歩くことさえできない寝たきりの状態で、残りの3人は、おじいちゃんをリヤカーに寝かせ、公園で野宿したまま24時間全介護をしていたのである。…寝たきり老人のおじいちゃんに一日三度食べさせ、濡れたタオルで拭いて身体を清潔に保ち、下の世話もし、雨から守り、暑さや寒さを調節し、そうやって4人は仲良くいきいきと暮らしていたのである。…残念なことに、おじいちゃんはしばらくして亡くなった。すると、それまであれほど密接な共同生活をしていた3人は、バラバラになり、やがて皆公園から姿を消した。おじいちゃんが、このグループの要(かなめ)だったのである。「人のお世話をする」「自分を必要とする人がいる」。このことが、彼らの「生」を満ち足りたものにし、疑似家族のようなつながりを築き上げていた。ホームレスの多くは、自分が生きていくことの意義を見失っているが、彼らには「おじいちゃんのお世話」という大義があったのである。…「孤立」の本質は、誰も自分を必要としない、ということではないだろうか。そしてその裏側には、どれほど頼れる人がいるか、ということがある。公園の4人グループのうち、介護する3人はおじいちゃんから必要とされていることで生きる意義を見出し、またおじいちゃんは、3人に生きる意義を提供する存在として必要とされていた。だから、その「つながり」の要となっていたおじいちゃんを喪うと、3人はまた孤立していったのである。

寝たきりのおじいちゃんが、コミュニティの要だったとは…。「つながり」とは、単にコミュニケーションがあるということではない。表層のコミュニケーションは、つながりがあるように見えて、実はつながっていない。私は、「入院生活 人の優しさ」 の記事で、入院していたおじいちゃんに、「おじいちゃん、聞こえる、おじいちゃん、聞こえる、おじいちゃん、おじいちゃん」と呼びかける孫娘の話を紹介した。そこに会話はなくとも、たしかに「つながり」はあった。

家族という存在

ここまで、日本では、他者とつながりがほとんどない状況にいる人が驚くべき割合でいること、困ったときにサポートを得られる人がいない「社会サポートの欠如」の状況にある人が少なからずいることを示した。…ここで一つのキーワードとして考えられるのは、家族であろう。家族以外の人間関係からの社会サポートを持たない人が多いことや、「友人、同僚、社会団体」などの付き合いが他国に比べて少ないことの理由として、一つには、日本においては「社会サポート」や孤立を免れる人間関係の多くが家族から提供されているから、その他の社会サポートが発達しなかった、とも考えられる。…だからこそ、家族を失ったとき、家族を形成しないときの、孤立やサポート欠如のリスクは高い。少子化による子どもの数や兄弟姉妹の数の減少。生涯未婚率の上昇による配偶者を持つ人の減少。これらに見られるように、家族という社会の構成基盤が弱くなっている今、家族以外の社会サポートを築くことが急務なのである。

阿部が述べるように、「少子化による子どもの数や兄弟姉妹の数の減少。生涯未婚率の上昇による配偶者を持つ人の減少。これらに見られるように、家族という社会の構成基盤が弱くなっている」。これに対して、昔はよかったとばかりに家族の復権を称揚して済むような話ではない。依然として家族が「つながり」の中核の位置を占めるではあろうが、「家族以外の社会サポート」を考えなければならない。家族のサポートを得られない人を、社会の周縁に押しやるべきではない。

 

(2) 仕事からの排除-役割があること

Aさんは…一心不乱に[駐輪場の]自転車の整理をしていた。朝は通勤客が雑多に自転車を停め始める7時から、夜は駅舎が閉まるまで、毎日、自転車整理をしていた。毎日、毎日である。…Aさんの目はいつもいきいきと輝き、この仕事をすることの喜びに溢れていた。時折、駅員さんやお巡りさんが「Aさん、ご苦労さま」と声をかけていく。そんなとき彼は、はたから見てもわかるくらい自分の仕事に対する誇りで胸を一杯に張っていた。彼にとって、この駅の自転車整理は、まさに「天職」であったのであろう。自分が役に立っていること、自分が良い仕事をしていること、その自負があるということがこれほどまでに人の生を豊かにするのであろう。Aさんの生活は、決して楽ではない。食事は市から配給される弁当1個のみ。一日一食である。ねぐらは、駅のシャッターが閉まった後の駐輪場の隅に、段ボールで囲った1畳ほどのスペースである。毎日15時間あまり働いていたのではないだろうか。しかし、自転車整理は彼の「役割」であり、「出番」であり、駐輪場が彼の「居場所」であったのである。

Aさんの役割は、(組織の誰かから)「与えられた役割」ではなかった。Aさんの自転車整理は、嫌々するような仕事ではなかった。Aさんは、市から配給される弁当一個で、毎日15時間も働くような「バカ」であった。しかしそのバカは、「仕事にたいする誇り」を持ち、「よい仕事をしている自負」があった。

他方、Bさんの役割は、(組織の誰かから)「与えられた役割」であった。Bさんは、いわゆるエリートで、年収1千万円以上の高給取りであったが、本当のところ「仕事にたいする誇り」を持たず、「よい仕事をしている自負」がなかった(会社の利益のために、つまりは金もうけのために、(法ではなく)倫理に反するような仕事をしていた)。

「役割」とは、いったい何なのか。 

役割と承認

社会的包摂政策をいち早く打ち出したEU諸国において、社会的包摂を促す政策の最大の柱は雇用政策である。なぜなら、EU諸国では、現代社会において、個人が他者とつながり、自分の価値を発揮する最たる手段が就労だと理解されているからである。働くことというのは、ただ単に賃金をもらうための手段というだけではない。働くことによって、人は社会から存在意義を認められ、「役割」が与えられる働くことは、社会から「承認」されることなのである。だからこそ、人は「働く権利」があり、失業していることは、その機会を奪われることであり、失業そのもの自体が、例えそのことが生活に何の影響を及ぼさなくても、社会問題であるとの認識なのである。

上に見たように、就労の促進、雇用政策で、「役割」が与えられたとしても、それがいかなる「役割」であるかが問題である。ブラック企業に就職を斡旋し、理不尽な「役割」を与えられたとしたら、社会から「承認」されたとは言えないだろう。失業が問題なのは当然として、就労=社会からの承認とみなし、それでOKというわけにはいかないのである。

日本でも、近年、ヨーロッパ諸国の給付から就労支援へのシフトにならって、やたらと就労支援が強調される傾向がある。しかし、ヨーロッパ諸国における雇用政策への重点のシフトは、贅沢な福祉制度を前提として起こったものである。日本とはそこが大きく違う。日本の生活保護をはじめとする公的扶助からの給付額も給付対象者数も、増えてきているとはいえ、ヨーロッパ諸国に比べて大幅に少ない。その中で、就労支援」ばかりが強調されると、「働かざる者、食うべからず」的な、スパルタな制度となってしまう恐れがある。

繰り返すが、まっとうな生活を保つための貧困対策と、社会的包摂対策は、両者とも必要である。ヨーロッパにおける就労支援は、「食うための手段としての就労」、すなわち公的な給付を代替するための就労ではなく、あくまで包摂の手段としての就労の支援なのである。(p.111)

「包摂の手段としての就労支援」、ここが大事なポイントである。「働く現場」が、「包摂」の理念に反するものであってはならない。それは具体的にどういうものであるか。

(労働者の権利を守るといわれる)労働基準法にしても、基本的には「働かざる者、食うべからず」(ノーワークノーペイの原則)を承認している。働かない者に、給料を支払う企業は存在しない。それはある意味当然である。

しかし、社会から承認が得られ、仕事に対する誇りを持てるように、各自の仕事の配分を考えるような組織を設計することが、今後望まれる方向であろう。それは排除ではなく、包摂を理念としている。それは一組織でなしうることではない。この点の敷衍は、今後の課題である。「包摂の手段としての就労支援」と言っただけでは、お題目だろう。

問題は「役割」を提供してきた最も大きなメカニズムである労働市場の中で、与えられる「役割」の質が下がってきていることにある。簡単に言えば、雇用の劣化が起こっているのである。

正規雇用の拡大は、ワーキングプア(働いていながらも、貧困規準以下の収入しか得られない人々)の増加を促し、彼らの生活を危機的な状況にしているという問題意識で語られることが多いが、同様に問題なのは、それらの就労が、人々がそこから自分の存在価値を見出し、自分の「役割」「出番」として自負できるようなものではないことである。職場で「アルバイトさん」などと名前でさえも呼ばれず、人間関係も育まれず、不景気になればモノのように切り捨てられる。次の職に就いた時に評価されるような経験を得ることはない。このような職では、社会から「承認」を得たと感じることは、極めて難しいのではないだろうか。就労支援の先に、このような就労しかないのであれば、それは社会的包摂政策とは言えない

正規雇用の何が問題か。阿部が述べるように、最大の問題は、「自分の存在価値を見出すことができない」、「自分の仕事に誇りを持てない」ということである。キャリアアップを図ることが難しいことである。

しかし、営利企業にとっては、彼らは貴重な存在である。グローバルな競争環境、不可避な景気変動の中で、企業が存続成長するためには、非正規雇用をなくすわけにはいかないだろう。

とすれば、「雇用の劣化」などと断罪して済むような話ではない。何か抜本的な改革が必要であろうが、それが何であるかをいまここで示すことは出来ない。

 

(3) 場所からの排除-居場所があること

社会的排除が極限まで達した時、人は「場所」からも排除される。社会の中で、自分のいる「場所」がないということは、どのようなことなのだろうか。…私たちは、みな、自宅であったり、会社の自分の机であったりと、何らかの「居場所」を持っている。そこに自分がいることが当然であり、周りもそう認めている場所がある。人によっては、行きつけの店や、趣味やボランティア活動の事務所などの「居場所」を持つ人もいるであろう。そういう「居場所」を持つことが、私たちにとって、いかに重要なことなのか。…このように安心できる場所というのは、この広い社会の中で、実はあまりない。もちろん、自分の家というのがほとんどの人にとっての第一の「居場所」であるだろうが、一歩家の外に出れば、意外と私たちの「居場所」はない。家がない状態であったり、家から離れていたり、はたまた家自体が安息の場でない場合は、まさに「身の置き場」がない状態になってしまうのである。

ここでは、そこに自分がいることが当然であり、周りもそう認めている(物理的な)場所が、居場所として考えられている。

都市においては、ほとんど全ての空間が私物化されており、そこに居続けることは難しい。一見、オープンのように見える地下街や商店街やビルの軒下であっても、そこに長時間いれば警備員がやってきて追い出される。こうして、ホームレスの人々はもちろんのこと、家にいづらい若者なども、公園や河川敷に集まってくる。しかし、公園や河川敷でさえも、安心して居続けることはできない。いわゆる「ホームレス問題」が都会のあちらこちらで深刻化した1990年代、多くの都市では、長椅子型のベンチが取り除かれ、一人毎に仕切りがあるベンチや、最もひどい例では、パイプ型のベンチに取り換えられた。…しかし、このようなベンチには、足腰の不自由な高齢者や、赤ちゃんを抱えた男女など、公園でもっとも座ることが必要であると思われる人々でさえ、長くは座れないであろう。社会で一番弱い層を「排除」しようとすることは、結局、すべての人に住みにくい社会をつくることなのである。

今度、公園のベンチを注目してみよう。

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http://yanasegawa.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-4211.html

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http://www.mikasacorp.com/seihin/design_pipe.html

 

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新宿中央公園から消えたホームレスはどこへ行ったのか より(この記事は、おすすめです)

「居場所」がないこと、安心して休める場所がないこと、「そこにいてもよい」と社会から認められている場所がないこと。「居場所」は、単に雨や風をしのげるといった物理的な意味だけで重要なのではない。「居場所」は、社会の中での存在が認められることを示す第一歩なのである。

物理的な場所としての居場所だけが問題なのではない。上に見た「つながり」、「役割」がないことこそ、居場所がないことの本質であろうと思われる。

東京オリンピックを控え、ホームレスはますます排除されるだろう。しかし、いっときの喧騒が過ぎれば、また元通りの平和な町(?)が戻ってくるだろう。…社会的包摂は生易しいことではない。