浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

28歳テイラー・スウィフトの政治的影響力

久米郁男他『政治学』(12)

今回は、第6章 市民社会国民国家 第1節 「公」と「私」 である。

本章の最初に、ゴミ処理施設の建設反対の事例が紹介されていた。原発、空港・道路・鉄道、高層マンション、葬儀場などの建設も同様である。公と私の対立をどう調整するのか。

以下本書に従い、「公」と「私」の二分論、共和主義と共同体主義フェミニズムについて見ていくが、最初の二つは内容が無いので、そこを飛ばして、フェミニズムの項だけ見てもらっても構わない。

 

「公」と「私」の二分論

何が「公的」であり、何が「私的」なのであろうか。本書の記述は、上記の事例に即して展開されるわけではなく、政治学の教科書として、過去の政治思想が紹介されている。これを学び、上記事例にどう対応するのか、自ら考えよ、ということだろうか。

川出(本章担当)は、「公的であることの特徴は、それが政治共同体のメンバーの全員に共通するということ(共通性)、市民全員にとって一般的・普遍的であるということ(一般性)である」という。これに対して、「私的」とは、個別性、特殊性により特徴づけられる、という。この説明で理解できるだろうか。政治共同体とは何? メンバーの全員とは、老人、子ども、女性、障害者、移民・難民、犯罪者は含むのか? 「市民」とは誰のこと? 多種多様な人々がいる中で、「一般的・普遍的である」こととは何か?

市民全員に共通のものならば、それに対するアクセスは、万人に開かれていなければならず、また公開されなければ、真の意味で市民に共通のものとはならないであろう。

「共通のもの」とは何? アクセスするとはどういう意味? (情報が?)公開されれば、市民に共通のものになる?

 

公的な物事や共通の物事は、私的で個別的な物事よりも優位に立つという認識は、長期にわたって政治を論じる際の暗黙の価値基準となってきた。

そうなんだろうか。政治を論じるとは、公的な物事や共通の物事について、論じることではないのか。だとすれば、私的で個別的な物事よりも優位に立つとか立たないとかの話ではないだろう。それとも、政治は私的で個別的な事柄(AはBを愛しています)をも論じるのだろうか。

しかしながら、自由主義が支配的イデオロギーになるにつれ、この価値の序列の意味が次第に変化していく。

価値の序列が変化するとは、公的な物事よりも、私的な物事に、より大きな価値を見いだすようになる、ということだろうか。

自由主義は当初から個人主義的な傾向を強く持つ思想である。自由主義と親和性の強い契約論的国家観においては、政府はあくまで個々の市民の自由や権利をより確実に保障する限りにおいて、存在意義が認められる。なるほど、ここにおいても公的な決定は、時に誰かの私的利益を犠牲にしてまでも貫徹される場合があろう。しかしながら、公的な物事それ自体の性格が変容し、それは政治社会の構成員の私的利益との関りにおいてしか成立しえないものとみなされるようになる。公共の利益は、各人の私的な利益、もしくはその総和に還元されるのである。

公的な物事(例えば、冒頭のゴミ処理施設の建設)を決めるのは、「個々の市民の自由や権利をより確実に保障する」ものでなければ必要ない、ということになるのだろうか。個々の市民の自由や権利は、ゴミ処理施設の建設問題においてはどのように考えられるのか。もし、ゴミ処理施設の建設が「公共の利益」になるのであれば、つまり各人の利益の総和がプラスになるのであれば(どういう計算をするのか知らないが)、周辺住民の反対を押し切り、建設を推進すべきである、ということになるのだろうか。そしてこれが自由主義なのだろうか。

もっとも、こういった意味の変容が起きたからといって、自由主義が公的な物事に関する関心を喪失したと考えるのは早計である。自由主義にとって、相互に対立する市民や諸集団の個別の利害を何らかのかたちで調停し、致命的な紛争を回避するということは極めて重要な課題であり、パブリックという語はそのような場面に適用される観念となる。だとすれば、問題はどのようにして対立する利害が調整されるのか、ということになるのだが、それにはいくつかの回答がある。

この表現には、注意が必要だろう。これを肯定的に受け止めれば、「市民の自由を尊重するが、同時に個別の利害の調停を図る(紛争を回避する)ことは重要な課題である」となる。否定的に受け止めれば、「個別の利害の調停を図るというのは口先だけで、実際には「公共の利益」の名のもとに、一部集団の利益にのみ資する強引な解決を図ろうとする」となる。…いかに「自由」を称揚しようと、現実には「公共の利益」を考慮し、政治的な決着を図らざるを得ない。逆に、「公共の利益」一辺倒で、「市民の自由や権利」を無視することも出来ない。つまりは、「公益」と言い、「私益」と言おうとも、程度問題である。…しかし、よく考えてみよう。一般論として、自由主義を称揚し、「公益」をもきちんと考慮すると主張することは、現実にどういう結果をもたらすことが多いか。この主張は、そのような結果を隠蔽するイデオロギーの役割を果たしているのではないか。

例えば、多元主義者であれば、利害集団間の交渉やかけひきがもたらす力のバランスによって自ずから秩序が成立する、と主張するであろう(第23章3節)。他方、こういった多元主義的均衡モデルに批判的な論者は、より厳密で公正な手続きを通した「合意」による決定の重要性を強調する(第18章3節)。これらは、リベラルな国家における自由主義にふさわしい公共性とは何かについての二つの有力な解答である。

多元主義の話は後で出てくるようだから、その時に考えよう。「これらは、リベラルな国家における自由主義にふさわしい公共性とは何かについての二つの有力な解答である」と言われても、判断のしようがない。

 

共和主義と共同体主義

自由主義の枠内での公共性を探求する努力が存在する一方で、公的な物事、共通の物事には、個人の私的利益の追求に還元されない、より積極的な意味が存在すると考える論者も存在する。以下においては、代表的な自由主義批判の議論として、共和主義共同体主義について見てみることにしよう。

この表現には、「公」か「私」かの二分法思考があるように感じられる。「公」を重視するのか、「私」を重視するのか、の対立があると捉えているように思われる。「公」も「私」も両方を重視する、となぜ考えられないのだろうか。

私的な利害関心を離れ、公的な物事に関わることそれ自体を高く評価する考え方は、基本的には古典古代の政治論に特有の発想である。こうした伝統的な政治観は、近代国家の成立と共に忘却され、権力国家観や契約論的国家観が台頭するのと引き換えに、もはや大きな影響力を行使することはなくなったというのが従来の思想史解釈であった。ところが、近年、必ずしも古典古代の伝統が、近代の政治過程において完全に意味を失ったとは言えないのではないかという見方が提起されるようになった。

「現実政治」の変遷と「政治思想」の変遷は、一応分けて考えなければならない。「政治思想」については、いろんな考え方があるわけで、何が主流の考え方であるか(それが妥当であるか)の解釈についても分れることだろう。

こういった歴史の再発見の作業の中でもとりわけ大きな影響力を持ったのが、政治思想史家ポーコックによる公民的人文主義(civic humanism)の系譜の発掘である。公民的人文主義とは、もともとルネッサンス期のイタリアにおいて展開された一種の共和主義思想を指す名称である。但し、ここで言う共和主義思想とは、帝政以前の古代ローマの体制をよき政体のモデルとし、貴族政か民主政、もしくはこの二つと君主制の三つが巧みに混合した体制(これらが総称されて「共和政」と呼ばれる)を最善の政治体制であるとみなす思想のことである。ポーコックによれば、この伝統が従来考えられていた以上に長期にわたって西洋の政治思想に影響を与え続けたというのである。

共和主義思想のこの説明は、何を言っているのか全くわからない。「貴族政か民主政、もしくはこの二つと君主制の三つが巧みに混合した体制」って、何なんだろうか。

マキアヴェリの『リヴィウス論』においては]共和政は、政治的リーダーを始めとして、政治に何らかの形で関わるすべての市民が独立した生活基盤(典型的には不動産)を持ち、私的利益の追求にのみかかずらうのでなく、公共の物事に進んで貢献しようという高度な公共精神を備えている場合にのみ維持されると考えられた。

マキアヴェリが実際にこのように書いているのかどうか知らないが、「公共精神を備えていれば、共和政が維持される」というような単純でほとんど無内容なことを、共和主義思想は主張しているのだろうか。

イギリスで展開したこの古典的共和主義思想は大西洋を渡り、そこで大きく花開くことになる。…アメリカ革命(1775-83)を支える一つの有力な理念となるにいたる。…建国の初期の段階において、古典的共和主義が果たした役割は大きかったといわれている。…こういった共和主義パラダイムに対しては、規範的関心が勝り、一面的な歴史解釈に陥っているという批判もないわけではない。

省略しながら引用したが、「古典的共和主義思想」がどういうものであるかは、全くわからない。それに現代の「共和主義」の話かと思っていたら、いつの間にか「古典的共和主義思想」の話になっている。

 

つづいて、「その一方で、公共性や共同体の問題を哲学的に探究することで、より直接的に自由主義を批判しようという理論家もいる」として、アーレントの話が出てくる。共和主義と共同体主義の話をしているのかと思ったら、(簡単には要約できない)アーレントに言及して、何を言いたいのだろうか。

こういった、近代社会そのものへの全面的な批判に基く議論の他に、もう少し限定的な範囲で、リベラル・デモクラシーにおける公共性の喪失を批判する議論も存在する。しばしばコミュニタリアニズム共同体主義として一括される立場からの議論がそれである。例えば、その一人であるサンデルは、ロールズ自由主義が標榜する正義の原理の「限界」を指摘する。サンデルによれば、ロールズは人間の「自己」はそれが帰属する社会によって構成されているという側面を捉えそこなっている。即ち、リベラリズムにおいては、各人は、あたかも共同体の規範とは全く無関係に、独立した独自の目的や利害や善悪の観念を持ち、何の負荷も課されていない自己を持つかのように想定されている、というのである。

サンデルやロールズが何を言ったのか(何を言いたかったのか)を横において(詮索しないで)、「リベラリズムにおいては、各人は、あたかも共同体の規範とは全く無関係に、独立した独自の目的や利害や善悪の観念を持ち、何の負荷も課されていない自己を持つかのように想定されている」という言明だけを見てみよう。深く考えるまでもなく、そのような「負荷なき自己」*1などありえようはずがない。

だがサンデルの見るところ、こういった「負荷なき自己」という前提からは、ロールズが主張するような、個人の才能を社会全体の共通資産とみなし、それを格差原理によって適正に再分配すべきであるという主張を十分正当づけることはできない。というのは、自己と共同体との間の密接な関係を前提としない限り、何故この共通資産が共同体のメンバーの一部ではなく、全員に公正に分配されなければならないかを説得的に示すことはできないからである。むしろ、自己と共同体との結びつきを自覚し、共通善に積極的に貢献することのできる市民の存在こそが、自由主義を真に支えるというわけである。

これが「共同体主義」の説明? サンデルのロールズ批判が紹介されるだけで、どうして「共同体主義」が理解できるのだろうか。最後の文、「自己と共同体との結びつきを自覚し、共通善に積極的に貢献することのできる市民の存在こそが、自由主義を真に支える」も意味不明である。自己と共同体との結びつき?共通善? サンデルは自由主義の話をしているのだろうか?

マッキンタイアは、共同体の伝統から切り離された理性に依拠する近代以降の自由主義は、道徳規範を人々の単なる好悪の感情表現にすぎないものとみなすことになってしまい、問題を解決するための真の理性的基盤を喪失してしまったと批判する。サンデルやマッキンタイアのように、理論的レベルでの自由主義批判を展開する論者がいる一方、コミュニタリアンの中には、共同体の活性化のために、より直接的な政治活動を行う者もいる。共同体主義の議論の多くは、明らかにアリストテレスの国家観から大きな示唆を受けており、その意義を現代において再確認しようという試みと見ることができる。だが、共同体として具体的に何を想定するかによって、その議論は「保守的」なものにも「進歩的」なものにもなりうるものであり、その政治的含意は論者によってかなりの幅がある。

川出(本章担当)の議論をベースに、考えを深められればいいなと思っていたのだが……。

「共和主義」とは何であり、「共同体主義」とは何であるか、別途ということにしよう。

 

フェミニズム

フェミニズムの主張について、川出は次のように述べている。

  • 自由で平等な権利の主体である個人とは、実際には、成人男性のことを指すにすぎず、そこからはすべての女性や幼い子どもは巧妙に排除されている。
  • 家の中における活動(「私」)と家の外における活動(「公」)とを截然と区別する発想こそが、西洋社会において長期にわたって女性を抑圧してきた。(男性中心社会における「公」と「私」の二元論
  • 男性は社会的・公的な領域に関わることができるが、女性は個人的・私的な領域にのみ属するとされ、その結果、男性より一段劣る者と位置付けられてきた。

こういった主張に反対する者は、今日誰もいない(少なくとも表向きには)。但し、現代のフェミニズム理論は必ずしも一枚岩ではないとされる。

女性と男性との差異を強調するフェミニストからは、平等志向のフェミニストは女性にいわば「男性並み」になることを強いているにすぎず、現存するリベラル・デモクラシー体制が持つ男性支配の構造に無自覚であるという批判が投じられる。この派のフェミニズムによれば、これまで女性に特有なものと規定され、一段低く見られてきた経験や価値を、男性/女性という二元論から解放した上で復権させ、男性の論理のみで築き上げられてきた政治や社会を根本から見直すべきだ、というのである。

これに対して、平等を志向するフェミニストは言う。

こういった男女の差異を強調する議論は、男性の支配の論理に再びからめとられる。というのも、支配する者は、しばしば男性と女性との間の「違い」を根拠に、支配を巧妙に正当化してきた経験があるからである。

女性と男性の生物学的差異をふまえた上で、社会的役割を考えなければ、「男性並み」を要求することになりかねない。ここでは詳しく見ることは出来ないが、例えば、「労働法制における女性保護規定の撤廃」をどう考えるかということである。

平等を志向するフェミニストの反論は、反論になっていないと思う。しばしば男性と女性との間の「違い」を根拠に、支配が巧妙に正当化されてきたのであれば、そのことを指摘すればよいのであり、男性の支配の論理にからめとられるから、男女の差異を強調すべきではないというように受け取られる発言は疑問である。

こういった論争に対して、第三の波とも呼べるような議論も登場する。それは、差異や支配の構造は、男性と女性との間にのみ存在するわけではなく、女性と女性との間にも存在することに注目する議論である。そこでは、同じく女性とは言っても、社会的地位、経済状態、人種や民族、文化や宗教、または国の違いを超えて、「女性」というカテゴリーに一括できるのか、という問いかけがなされる。また異性愛者と同性愛者との間にも、男女の間以上に深刻な抑圧の構造が存在することも指摘されるようになった。

「女性」というカテゴリーで括ることができる問題もあれば、括ることができない問題もあるだろう。さまざまな差別や抑圧が、性、社会的地位、経済状態、人種や民族、文化や宗教、国家等々が絡み合って存在するとき、それらを解きほぐし、よりよき社会をめざすことは、まさしく「公」の問題であるだろう。

 

フェミニズムに関連した最近の話題はいくつかある。

  1.  国会議員・地方議会議員に占める女性の割合、上場企業における女性管理職の割合…「2020年30%」の政府目標の達成に向けて、全上場企業において積極的に役員・管理職に女性を登用していただきたい。まずは役員に一人は女性を登用していただきたい。(H25.4.19、安倍総理から経済界への要請)
  2. 医学部入試の女性差別東京医大他)…医療業界だけでなく、すべての業界において、女性の出産・育児に伴う離職は、昔からある。それは女性差別なのではなく、営利企業であるがゆえの問題であろう。
  3. テイラー・スウィフトの「民主党支持」発言(2018/10/7、11月の中間選挙を前に)

3番目をとりあげよう。 

Taylor Swift - Look What You Made Me Do 


Taylor Swift - Look What You Made Me Do

(再生回数:約10億回)

 

テイラー・スウィフト(Taylor Swift、1989 - )は、「アメリカ合衆国のカントリーポップ歌手、シンガーソングライター。女優として映画やテレビドラマにも出演している。立て続けにヒット曲を生み出しており、ファン層も広く、しばしば「America's sweetheart」と呼ばれる」(Wikipedia)。

渡邉裕二は書いている。(2018/10/19、28歳テイラー・スウィフトの「民主党支持」発言が全米を揺るがす!

テイラーは、洋楽ではレディー・ガガと並んで音楽配信とともにCDの売れるアーティストとして注目されている。しかも、米国の経済誌「フォーブス」が選んだ「世界で最も影響力があるセレブ100人」のランキングにはエンターテインメント界からビヨンセと並んで選出されている。そういった彼女の人気に目をつけたのだろう、トランプ大統領は「大のファン」だと公言していた。しかし、それは彼女が「カントリー歌手」だったからだろう。トランプ流の白人へのアピールだったに過ぎない。

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Taylor Swift - Speak Now Tour Hots Sydney, Australia 2012. (wikipedia)

 

「みんな、自分の州の候補者について学んで、自分の価値観といちばん近いのは誰なのかに基づいて投票してください。多くの人にとって、すべての問題について100%意見が一致する候補者や党はないでしょう。けれど、いずれにしても投票はしなくてはいけません。この2年の間で18歳以上になった賢くて、思慮深くて冷静な人たちは投票で考えを表明する権利があるのです。まず有権者として登録をしてください」(テイラー)

彼女のインスタグラムのフォロワー数は1億1000万人以上と言われているが、彼女の訴えに共鳴したのか、投稿から24時間以内に全米で7万人近くもの有権者登録があったという。これには、さすがのトランプ大統領も慌てたのか「テイラーの音楽は好きだけど、今は(その気持ちが)25%減ったね」とコメント。彼女のファンを刺激しないように心掛けたのだろうか、やや意味不明なコメントをした。

 テイラーはどういう思想信条の持ち主なのか。

「これまで、私はこの国の人たちすべてが持っている人権のために戦ってくれる候補に投票してきました。これからもそうするつもりです。私はLGBTQ*2の権利のための戦いを信じています。性的指向ジェンダーで人を差別することはどのような形でも間違っていると思います。肌の色に基づく制度的な差別が、この国にまだありますが、それは恐ろしく病的で、広く蔓延していると思います。肌の色やジェンダー、どんな人を愛するかに関係なく、すべてのアメリカ人の尊厳のために戦ってくれない人に投票することはできません」

テイラーはフェミニストで、上院選挙に立候補している女性を支持しているのか。

テネシー州から上院選挙に立候補しているのは、マーシャ・ブラックバーンという女性です。私はこれまでも、これからも、できるだけ女性に投票しようとしてきましたが、マーシャ・ブラックバーンは支持できません彼女が議会でこれまでどのような政策に票を投じてきたのかを知り、驚き、怖くなりました。彼女は、男女の同一賃金にも反対しました。女性をDVやストーキング、デートレイプから守るための女性に対する暴力防止法(VAWA)の改正にも反対しました。彼女はゲイのカップルへのサービスを提供するのを拒否する権利が企業側にあると信じています。またゲイのカップルには、結婚する権利がないと考えています。このような考え方は、私のテネシー州的な価値観とは違います」

テイラーのファンであることと、政治家の選択は別物ではあるはずだが、「トランプ政権を揺るがしかねない」影響力を持っているというのも事実であろう。このような政治的発言をなしうるというのは興味深いことである。

ところで、綾瀬はるか」や「石原さとみ」のような人気女優が、選挙前に、「私は立憲民主党を支持します。安倍がこれまで進めてきた政策を知り、驚き、怖くなりました。」などと発言する状況を想定しうるだろうか。

*1:「負荷なき自己」については、「無知のヴェール 負荷なき自我」でふれています。

*2:LGBTQ性的少数者を表す言葉。レズビアン(女性の同性愛)、ゲイ(同性愛)、バイセクシュアル(両性愛)、トランスジェンダー性同一性障害)、クエスチョニング(自己のジェンダーや性同一性、性的指向を探している状態の人)