浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

社会の仕組みが、人々をより孤立へ、排除へ、貧困へ、追い込んでいるのではないだろうか?

阿部彩『弱者の居場所がない社会-貧困・格差と社会的包摂』(4)

今回は、第4章 本当はこわい格差の話 第1節 排除と格差、第2節 格差と人間関係 をとりあげる。

社会的排除とは、社会の中で「居場所」がなく、「役割」がなく、他者との「つながり」がない状況であった。(2018/10/10 私の居場所がない 社会的排除と包摂 参照)

貧困は依然として大きな問題ではあるが、「排除→貧困」の流れに焦点を合わせるのではなく、「社会的排除」そのものを問題にしたい。(ここでは「貧困は自己責任である」という主張に関する議論はしない)

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https://www.e-aidem.com/clp/part/sirason/entry/2018/07/27/161149

 

社会的排除

社会的排除は、誰か、または何かが、誰かに対して行う行為である。排除される側と排除する側があるのである。…社会的排除は、問題が社会の側にあると理解する概念である。社会のどのような仕組みが、孤立した人を生みだしたのか、制度やコミュニティがどのようにして個人を排除しているのか社会的排除に対する第一の政策は、「排除しないようにすること」なのである。

社会的排除の実態」を事実として承認するかどうか。事実として承認するならば*1、いま赤字にした問いが、極めて重要な問いとなる。(水増し問題で明らかなように)障害者は雇用され難いし、景気が悪くなれば、真っ先に非正規は排除される(「雇止め」と呼び、合法である)。

例えば、なぜ単身世帯であることが、社会的孤立につながるのか。なぜ同居の家族以外の社会サポートが築きにくいのか。それは、社会の側から、手を差し伸べることをしていないからではないか。その人が、人とつながり合うことを躊躇してしまうような要因を、社会の側が作っていないか。社会の仕組みが、人々をより孤立へ、排除へ、貧困へ、追い込んでいるのではないだろうか。意図せずとも、社会の仕組みや制度が、人を排除に仕向けているのではないか。社会的排除の概念は、社会のありようを疑問視しているのである。これは、大きな発想の転換である。

今どきは、30代で独身は珍しくないが、四十路(40歳を四十路と呼ぶ)を過ぎると、「世間」からは奇異の目で見られることが多い。確固としたアイデンティティを持ち、バリバリと仕事をしていれば何も言われないだろうが、そうでなければ何ほどかの欠陥を持つとみなされがちであり、排除予備軍となる。家族の支えがあれば救われるが、さもなければ……。「社会の仕組みや制度」がおかしい、つまり「人を排除に仕向けている」のではないか、と問うこと。

(リチャード・ウィルキンソン*2は)、「格差」が大きい社会に住むことは、誰にとっても悪影響を及ぼしていると論じている。彼は、「格差」が大きいことが、「格差」の底辺の人すなわち貧困や社会的排除の状態にある人々が多いことを意味するから問題であると言っているのではない。「格差」が大きいということ、そのこと自体が、社会にとって望ましくないという指摘をしているのである。

どういうことか。

格差が大きい国や地域に住むと、格差の下方に転落することによる心理的打撃が大きく、格差の上の方に存在する人々は自分の社会的地位を守ろうと躍起になり、格差の下の方に存在する人は強い劣等感や自己肯定感の低下を感じることになる。人々は攻撃的になり、信頼感が損われ、差別が助長され、コミュニティや社会のつながりは弱くなる。強いストレスにさらされ続けた人々は、その結果として健康を害したり、死亡率さえも高くなったりする。これらの影響は、社会の底辺の人々のみならず、社会のどの階層の人々にも及ぶ。…疫学、社会政策学、経済学、社会学、福祉学など、さまざまな分野の研究者によって、ウィルキンソンのこの主張を裏付ける研究が続々と蓄積されつつある。

ここで言うところの「格差」は、「組織における指揮命令上の地位の差」を考えるとわかりやすいだろう*3個人事業主(自営業者)については多種多様であり、「格差」を述べることは簡単ではない。しかし、「格差」が存在することは容易に想像されよう。

ウィルキンソンは、「貧困」があるから、即ち社会の底辺の人々、排除されつつあるような人々がいるから、社会の上層部の人間までも害を被る、と言っているわけではない。ウィルキンソンが問題としているのは、「格差」の存在なのである。人々を「上」や「下」の段階にランク付けするシステムの仕組みを問題としているのである。

「ランク付けするシステム」そのものを問題視すること。そこに目を向けないということは、差別や排除がどのように生じてくるのかを理解しようとしないで、「差別や排除はいけないから、やめましょうね」と(建前だけで)言っているに過ぎないと言われても仕方ないだろう。そこに目を向けるなら、社会組織における効率的な業務遂行と職階(地位の差、指揮命令)が密接に結びついており、差別や排除とも受け取られる行動がとられることが理解される。とりわけ、組織の維持存続がかかっているとき、グレイなことでも指示されれば実行する。

 

自転車反応

ウィルキンソンの分析によると、格差の大きい社会ほど、自分より社会的地位の低い(と考えられている)人々を差別する傾向が強いと言う。彼は、この傾向を説明するのに、20世紀にナチスホロコーストを引き起こした社会的心理を分析するのに用いられた「自転車反応」という言葉を援用している。

階層性の強い権威主義的社会では、人は上位の者に対しては(まるで自転車競技の選手のように上半身を前に傾けて)頭を低く下げ、一方、(下半身はペダルを漕ぐように)下位の者を足蹴にするからである。(『格差社会の衝撃』)

このような「自転車反応」が蔓延する社会において、社会的排除の傾向が強まることは容易に想像がつく。一部の人を排除に追い込みながら、その他の人々が円満に仲良く暮らすというような社会は考えにくい。…ホームレス対策として設置されたベンチは、結局のところ、誰もが安心して楽に休めるベンチではなくなってしまった。一部の人が排除される社会は、すべての人が生きにくい社会なのである。

自転車反応という比喩はわかりやすいが、自転車競技の選手にとっては気分が良くないだろう。ここでは、ストレートに、「上にへつらい、下に威張り散らす」態度と言っておこう。それは階層性の強い、指揮命令系統が強固な組織に典型的であろう。上にへつらわないと(異を唱えると、従わないと)、役割と承認から排除される。その代償として、下に威張り散らす行為が惹き起こされる。しかし、本当に強い組織は異論を許容・奨励する。現実にはこの中間の組織が大部分だと思うが、だとすると、ルールとして何が必要なのかは、もう少し詳細な検討が必要だろう(たぶん、誰かが検討済みだろうが…)。

 

格差と人間関係

第2節は「格差と人間関係」であるが、以下、箇条書きにする。

  • 格差の大きい社会では、人は他者を信頼しない。
  • 人が人を信頼しない社会では、暴力が蔓延する。殺人率と所得格差には相関がある。
  • 攻撃性と所得格差の相関関係は、子どものデータ(喧嘩、いじめ)でも確認できる。
  • 格差の大きい社会ほど、女性の地位が低く、社会進出が遅い。
  • 格差の大きい社会ほど、人種や宗教などといったグループ間の対立が激しい。
  • 人々は自分の下に誰がいるのかということを常に意識し、それを確かめることによって優越感を高めようとする。
  • 格差は、社会の中で亀裂を作り、上下関係を強いる。
  • 「自転車反応」は、階層を形成するチンパンジーなどの霊長類に見られる行動である。
  • 人間は、格差社会に放り込まれると、チンパンジーと同じ反応をしてしまうのであろうか。
  • 子ども(中高生)によるホームレス襲撃事件が後を絶たない。このような事件がダブルに痛ましいのは、被害にあったホームレスの人たちはもちろんのこと、犯罪を犯してしまった少年たちも同様に、格差社会の被害者だからである。
  • 物心つくころから競争社会に放り込まれた子どもたちが、自分より「下位」と感じるホームレスを襲撃するのである。「あいつらは、虫けらだ」「世の中の掃除だ」という彼らの言葉は、そのまま、社会が無意識に投げつけてきたメッセージなのである。
  • 人間は自分と似た社会的地位にある人と交流し、仲間意識を持ち、自分から離れた社会的地位にある人とは関係を持つことが少ないということである。関係を持つことが少ないと、人は信頼することができない。格差が大きい社会においては、自分と離れた地位にある人々が増えるため、すべての人にとって信頼できる人が少なくなるわけである。
  • 格差と人間関係の劣化を結ぶもう一つのリンクが自尊心である。格差が大きい地域や国においては、社会的地位が低い者は自尊心を保つことが難しい。自尊心を傷つけられたことに対する反応として、暴力に走ってしまうこともある。
  • 暴力行為の大半は、恥をかき、面子を失い、自尊心を傷つけられたことに対する反応である。
  • 格差が大きい社会においては、「地位争いが激化し、地位の重要性が高まる」。その結果として、人々が自尊心を失うリスクが高くなってしまう。

阿部は本節の最後に、「格差が人間を攻撃的にし、人間関係を悪化させ、暴力や差別を生むという指摘は、ある種の希望を私の中に芽生えさせた。なぜなら、格差は人間社会の産物であり、克服可能なものであるからである。実際に、多くの国が、市場における格差や貧困の大半を削減させることに成功している。やる気になれば、格差は削減させることができる。そう、やる気にさえなれば。」と述べているが、私はこのように楽観的になれない。

本書の発行は2011年12月である。約7年前である。阿部は今でもこのような楽観的な見通しを持っているだろうか。私は、これは一国で克服できるような課題ではなく、グローバルに取り組まなければならない課題であると考えている。もちろん希望はあるが(だからこのブログを書いている)、同時に人類が核兵器あるいは生物兵器で絶滅する可能性も大きいと感じている。

*1:社会的排除の実態を丁寧に把握しておくべきだろうが、それは別途とする。ここでは、組織の中で働く人々の格差/排除(とりわけ非正規雇用)を想定しておく。

*2:リチャード・ウィルキンソン(1943-)…イギリスの経済学者、公衆衛生学者。『格差社会の衝撃――不健康な格差社会を健康にする法』(2005)、『平等社会――経済成長に代わる、次の目標』(2009)

*3:参考に「職階制」の説明を見ておこう。「職階制とは、官公庁や大企業などの近代的組織において,多量かつ多種多様な職務を内容の複雑性,困難性,責任性などに応じていくつかの集団に分類整理し,科学的人事管理を目指す制度。この制度の根幹をなす職務の分類は,職務の客観的内容によって行われ,まず「職種」に,次に「職群」に類別し,さらにそれを等級に区分して「職級」がつくられる。こうして給与や任用の公平,責任の明確さが期待されることとなる。アメリカで一般的な制度であるが,日本の場合は前近代的な身分制的序列感覚と結びつけて考えられるため,実際には賃金格差が持込まれたり,身分的な差別が設けられることとなり,身分的序列と同義に使用されることが多い。国家公務員の…」(ブリタニカ国際大百科事典)