浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

私の臓器や性は、根本的なもので、譲渡してはならないものなのか?

立岩真也『私的所有論』(13)

今回は、第3章 批判はどこまで行けているか 第3節 交換と贈与について である。

贈与と売買の差異および共通性

臓器の売買を認めている国は無い。代理母契約についても大勢としては認められていない。

では、善意の提供は認められるのか。

更に、善意による提供であっても否定あるいは疑問視する考え方がある。

とすれば、贈与と売却の差異について、そして共通性について考えてみても良い。ここから、譲渡することに対する抵抗がどこに起因するのかを見ることができるだろう。

臓器・性の譲渡(売買、贈与)を念頭に置く。

(1) 譲渡されるものは、主体[譲渡する者]によって制御される客体である限り、主体から分離されたものである。また両者には、制御するもの>制御されるもの、目的>手段という関係が現れることになる。後者は前者に対して第二義的なものとなる。となると、私たちはこれを問題にしているのかもしれない。商品化に対する批判として、自己、自己の身体を「モノ化」している、他者によってモノとして扱われるという言い方がある。だが、身体も物体であるには違いない。ここでモノとして扱うとは、提供する側にとって、自分の身体を手段として扱うということ、例えば性をお金のための手段として扱うことを言っている。これが批判されている

私たちは、自分の臓器や性を制御できる。手段として扱うことができる。言い換えれば「モノ化」できる。ここでの批判は、お金のために、臓器や性を売ってはならないという批判である。

(2) 譲渡、特に交換において、譲渡するものと譲渡されるものとの比較可能性が起こることが問題になる。

譲渡のうち交換は、お金と引き換えにするものと、他の価値あるモノとの引き換えにするものがあり、前者を売買、後者を交換と呼ぶ場合があるが、ここでの交換は両方を含む。

第一に、交換に際して私たちは自身が譲渡するものと自身が得るものを比較して、後者の価値が前者を上回る場合に交換を行う。例えば私が性を売りお金を得たとすれば、前者より後者(によって得られるだろうもの)をより重要なものだと考えたということである。私たちは、例えば性の商品化を問題にする時にその購入者において貨幣と性とが等値されているといったことを言うことがある。これは必ずしも正確ではない。自身の欲望においては、常に受け取るものの価値が、与えるものの価値を上回るのである。

これは、主観的価値(受け取るものの価値)>市場価値(貨幣等で与えるものの価値)なので売買が成立するということをいっているのであろう。

第二に、ここで起こっている事態は(当事者を離れて見れば)「等価」と表現されることにもなる。とりわけ貨幣は何にでも変換できることによって、商品の全ては同じ平面に並んでしまい、そして数量化され、相対的な位置を与えられる。直接に交換されるものとだけでなく、例えば一つの臓器あるいは一年間の代理母としての「労働」は一年分の生活費に等しいという具合に等置される。

ここで「等価」の意味を詮索しだすと話がややこしくなるので、ここは「価値」の話をする場ではなく、贈与と交換(=売買)に限定した話としておこう。

以上から、贈与は許容されるが交換は認められにくいことがあることが説明される。同時に、贈与であればよしとされるとは限らず、贈与にも抵抗があることが説明される。

① 贈与にあっては、贈与すること自体とその結果得られるものとが分離されにくい。贈与自体が目的とされるのなら、それは許容されることにもなる。しかし同時に、譲渡者において、その提供は手段であり得る。例えば感謝を得るための手段である場合がある。そして贈与を受ける側にとっても、贈与は事実上交換と同じ機制をとる場合がある。「感謝」が真に「自発的」なものであるのかどうか、これは外からは検証されえない。

② 贈与にあっても与えるものと与えられるものとの間の比較が行われているとは言える。しかし、彼が得たのは満足である。それを更に交換することは出来ない。従って、右のような意味での比較は行われていないということになる。しかし、例えば、臓器を譲渡する代わりに感謝・名声を得ようとするのであれば、その者は感謝・名声を臓器の提供より高く評価したということである。また、性を譲渡する代わりに感謝を得たのだとすれば、その者は感謝を性より高く評価したということである。ここに評価があり、比較が行われている。そして、両者は等価とされる。確かに貨幣を介した交換のような全般的な比較の世界には入っていかないにしても、程度の差があるというに過ぎないとも言える。

このように、手段とされてならない、比較の対象となってならないという条件に厳格であろうとすれば、贈与そのものもまた否定されることになる。つまりは、比較の対象になってはならない不可侵のものがあるということ、手段[目的?]に対する手段でないものの優位。いったんこれで説明は終わるかに思える。だがそうはならない。

臓器・性の譲渡が「お金目当て」でなければ(贈与であれば)良いのではないか、という意見に対して、贈与であっても売買と同様に対価(感謝・名声)を得るための手段たり得る、という意見が提出される。そして「手段とされてはならない」という考えが示される。しかし、臓器・性の譲渡が、なぜ手段とされてはならないのか?

 

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https://www.washingtoncitypaper.com/columns/straight-dope/article/13044921/what-would-happen-in-a-brain-transplant-personalities-bodies-and

 

本源性の破壊?

人間の様々な属性・行為の中には、以上の条件を強く重んじるべきものがあるらしい。私たちは、手段とされてはならないもの、制御されてはならないもの、他と比較されてはならないものを有しているようなのだ。…では、制御されてはならないもの、他と比較されてはならないものは何か。そして何故か。

自己の意志、自己の決定は、様々な行為、社会の存立の基点だから、これをそこに発する必要等と等価とされてはならない。決定が、制御され比較され譲渡されるものの側にあってはならないと主張がなされているのだと考えることもできる。私が基点・起点である以上、基点・起点でなければならない以上、それが因果関係の結果として存在するものであってはならない、根本的なものには手を触れてはならないという論理である。例えば、知的能力から発する製品を売却するのは構わないが、知的能力自体を譲渡することは許容されない(脳移植の禁止)。

根本的なもの(=「私」という主体)には手を触れてはならない、という主張は、分かったようでよく分からない。「私の臓器や性」は、根本的なもの(=「私」という主体)なのか。「脳」は、根本的なもの(=「私」という主体)なのか。*1

しかし、このような考え方をとれば、どこかに意志という最終的な審級が残されていればよいのだから、その審級によって選択・決定されることについては問題なしとされることになる。とすれば、第一に、先に見た目的と手段の関係は決定の内部に包摂され、制御すること、譲渡することには問題が無いことになる。それは、自身の人格の変容をも許容するかもしれない。自身を決定的に変容させるような行為にしても、ある時点での人格を基点とすれば、その自己が決定したことなのだから認められてよいというのだ。

「審級」という言葉は難しい。ここでは(裁判制度を想定して)審判のレベル=判決を下す者のレベルと考えておこう。「最終的な審級」とは、最高裁であり、「意志」は最高裁の判決と同様である。だから「意志」が、「制御して良い。譲渡して良い、」と言えば、制御すること、譲渡することには問題が無いことになる。ここでは、先ほどの「根本的なもの=私」が、「意志」に置き換えられている。「自己決定」と言っても良いだろう、

第二に、比較についても、その背後に決定する主体が控えている限りで――その主体自体は比較されてはならないとしても――、許容される。

臓器・性の譲渡が、私という主体の「意志」によるものであれば、お金や感謝・名声と比較してはならない、ということにはならない。

実際、生殖技術を利用して得られるものは、当事者にとって十分に大切なものである。だからそれを、そのために(体外受精のように)大きな代償を払ってなお、得ようとするのである。私的所有の論理にあっては、制御される側にあってならないもの、比較され交換されるべきでないものは「私」だけなのであり、唯一、比較されないものであり制御されないものである主体を置いてしまえば、それ以下、それによって比較され、制御されることについては問題はなくなってしまう。目的と手段とを対置させて考えていっても同じである。「手段化」しないという言い方があった。しかし目的-手段という連鎖はどこにでもある。これ自体を否定することは出来ないだろう。ある者が、他の者の意志に反して、その者を手段として使うことは認められないかもしれない。しかし、ある目的をその主体自身が有しているのなら、やはりそこにも問題はないことになる。

以上の議論を聞いて、説得力があると感じたのではなかろうか。しかし…

つまり、第2章第2節にみた論理を持ってくると話は振り出しに戻ってしまう。以上の検討は、譲渡に対する抵抗が第2章で見た私的所有の原理からは導けないものであること、両者が互いに相容れない部分を持っていることを示す。私が生産するもの、制御するものが私のものであるという主張においては、「私が」の「私」が不可侵のものであって、その私が制御する対象はすべて私の決定に服することになる。

第2章第2節にみた論理とは、「私が生産するもの・制御するものは、私のものである」という論理=私的所有の原理であると要約して良いだろう。この私的所有の原理によれば、譲渡(売買、贈与)して良いという結論が導かれる。

だがここで問題になっているものは皆、こうした考え方の中には収まりにくいものではないだろうか。とすると、むしろ、利用され譲渡されるものは私であってはならない(=人格の不可侵)ということではなく、私が利用する、私が譲渡するということ自体が問題になっている。このように考えられないだろうか。

立岩は、問題は「私が利用する、私が譲渡するということ自体」であると言う。これはどういう意味だろうか。

*1:頭部移植手術…脊髄性筋萎縮症(車椅子生活を余儀なくされている)の患者の頭部(脳)を、脳死した患者に移植する手術は、医療技術的に問題なければ、倫理的に認められるか。(Wikipedia、「頭部移植」参照)