浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

フェミニズムと多文化主義 問われる自由主義的な法秩序構成

平野・亀本・服部『法哲学』(54) 

第6章 法哲学の現代的課題 第2節 同一性と差異 である。

人は、同じ人間であっても、性別、民族、人種、国籍、宗教、思想信条、年齢、健康、障害、能力、職業、趣味などの差異がある。そこには、同じ「人間」であることにおいて、共通の取り扱いをすべき事柄と、差異に応じた取り扱いをすべき事柄がある。言い換えれば、差異に関わらず同じ取り扱いをすべき事柄と、差異に応じて異なる取り扱いをすべき事柄がある。従って、①差異に関わらず同じ取り扱いをすべきなのに、異なる取り扱いをしている。②差異に応じて異なる取り扱いをすべきなのに、異なる取り扱いをしていない。この場合には、これは不適切な処置と言わなければならない。平野(本節担当)は、これを「同一性と差異」の問題として検討している。

 

問われる自由主義的な法秩序構成

差異に関わる法的権利要求には様々なものがあり、それらが提起している問題の様相もそれぞれに異なっていて必ずしも同じとは言えない。しかし、基本的な議論の構図においては似通っているところがある。問われているのは、自由主義的な法秩序構成のあり方である。ここでは、フェミニズム及び多文化主義の議論をとりあげ、それらが示すリベラルな法秩序の問題点を明らかにしておきたい。…女性の問題と民族的少数者の問題は、強者-弱者あるいは多数者-少数者という政治的支配の構造に対応して生じており、女性の問題が前者の、民族的少数者の問題が後者の明白な例になっている。つまり、強者ないし多数者の利害を意識的ないい無意識的に反映していると考えられる法制度の設立・運用によって、実際上、女性ないし民族的少数者の平等権が侵害され、自由であるべき幸福追求への権利が奪われたり、きわめて制限される結果となっているということである。

昨今の様々な報道を見ていると、女性差別や少数者の権利剥奪/制限が連綿と続いていると感じさせられる。何故なのか。これは「自由主義的な法秩序」がおかしいからではないのか。現状の法制度は、「強者ないし多数者の利害を意識的ないい無意識的に反映している」のであり、従い、「女性ないし民族的少数者の平等権が侵害され、自由であるべき幸福追求への権利が奪われたり、きわめて制限される結果となっている」のであろう。(もちろん、女性ないし民族的少数者の問題だけではないのだが、「一定の範型性」を示すものとしてとりあげられている)。

個人の尊重と個人的自由の平等な保障を基本原理とする自由主義的な法秩序においても、個人としての「人」から女性は排除され、また「国民」からは民族的少数者が排除されてきたという歴史的経過がある。法制度がいかに公正かつ中立的に設立されていても、その運用の実際においては、女性に関して、また民族的少数者に関して、不公正で偏りのある結果を生じさせていると批判されるのである。

自由主義的な法制度は、個人的自由を平等に保障する公正かつ中立的な制度である>と言われるとき、これは素晴らしい制度であると聞こえるかもしれない。「自由」「平等」「公正」「中立」などという言葉に惑わされてはいけない。実際の、歴史の現実はどうであったか。そして今現在どうであるのか。ある事柄に関し、女性は排除/差別され、民族的少数者は差別/排除されてきた(されている)のではないか。もしそうなら、自由主義的な法制度そのものの見直しが迫られていると言えよう。

更に、より重要であるのは、自由主義的な法秩序構成のあり方そのものが、女性や民族的少数者を社会の中で劣位におくことを助長していると言われる点である。批判の対象は、自由主義的法秩序の3つの要素、即ち、個人的自由の平等な保障、公/私の領域区分、中立性原理である。

自由主義的な法秩序では、個人としての自由を平等に保障するため、原則として、公領域と私領域とに分けて公権力の法的規制の対象を主として公領域に限定し、市場や私的生活など私領域の自由を広範に認めている。また、公領域での権力の行使に関わる法的規制の枠組みについても、個々人の自由な幸福追求を可能にするため、特定の価値観に依存することなく中立的で公正なものであることがめざされているのである。こうした自由主義的法秩序のどこに問題があるのか。

平野(本節担当)は、自由主義的法秩序には3つの要素があるとして、①個人的自由の平等な保障、②公/私の領域区分、③中立性原理をあげている。これは覚えておきたい。①は、「自由」の保障であり、「平等」の保障ではない。自由の保障の結果、不平等が拡大したとしても、それは問題とならない。②の公領域と私領域の区分は流動的である。かつての郵便局。いまは水道局の民営化。③の中立性は建前だけのものではないかとのチェックが必要である。

 

法と女性

性別によって不利に扱われない女性の権利については、国内的にも国際的にも、制度的に平等な権利が保障されるようになっている。しかし、フェミニズムの主張によれば、歴史的に家父長制の下で醸成された社会通念としての「女性らしさ」により、女性は、その身体、社会関係及び政治参加の面で、実際上男性とは異なる取り扱いを受けてきている。女性の身体は、売春、ポルノなど市場における取引の対象として商品化され、社会関係においては、雇用面、家族関係など、男性が優位する社会構造の中で、男性の働きを支える補助的ないし従属的な位置づけしか与えられていない。生殖や出産に必ずしも女性の意思が尊重されず、職場でセクハラが生じたり、家庭でのDV(domestic violence)が問題となるのはそのためである。政治参加という点においても、同様にして、制度的には男性と同等の権利が与えられているが、例えば女性は政治に向いていないという観念があり、政治的決定権を有する代議員の数にも顕著なアンバランスがみられるなど、政治に対する女性の積極的な関与は遅れているのが実情である。

近年マスコミを賑わせているセクハラだが、「セクハラ」で検索したら約2300万件、「sexual harassment」で検索したら約1億2800万件のヒットがあった(google)。ここで実例をあげるまでもないだろう。雇用面での男女差別については後でふれよう。

これを自由主義的法秩序の基本原理との関係でいえば、実態が男性の優位に傾いている社会においては、抽象化された個人としての自由・平等の保障は、女性にとって十分とは言えないということになる。法制度の枠組みが中立的であれば、男性中心の運用が行われやすく、公/私の領域区分により広範な自由が基本的に保障される私の領域においては、家庭にせよ、会社にせよ、自由な取引が行われる市場にせよ、女性は決して男性と同等な扱いを受けているとはいえない。

男女差別を、「自由主義的法秩序の基本原理」との関係で考えることが重要である。実態として、女性が不利に扱われているとしたら、それは「自由主義的法秩序の基本原理」のどこに問題があるのか。「男女雇用機会均等法」に問題はないのか。

 

ロマンティックなフェミニズム

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法の役割

では、法制度においてどのような対応がなされなければならないか。様々な主張があるが、主要には次の3つが特徴的である。

第1は、平等化を促進するためにも、やはり女性を男性と同様、あくまでも個人として尊重するという考え方。女性であるからという理由で特別な保護を与えるのは同じ理由で不利に扱うのと同程度に平等化の妨げになるとされる。従って、長期的な視野に立って女性の自立を促し、男女がまさに対等な立場で社会形成に参加ができるようにするためには、性別による差別だけでなく、女性に対する雇用面や税制面での保護政策についても見直す必要があるとする。個人的権利としての女性の自己決定権及び自律を重視する考え方である。

 男性女性関係なく「対等」に扱うというのは、男性女性の「差異」を無視した暴論である。労働基準法の女性保護規定を参照すれば、このような主張はありえないと理解できるだろう。

第2に、女性の選択の自由と、主に保護の必要性を強調する立場がある。男女の区別なく、いずれも個人として尊重するという考え方は社会の実態に即しておらず、個人としての自律を基本とする自由主義的な法制度がかえって男性の優位と女性の劣位を維持する方向で機能していることが理解されていないとされる。女性には、身体的な特徴や出産など、男性にはない自然的差異がある。それによって、強姦、猥褻、売春、セクハラに対する保護や、妊産期への特別配慮ばかりでなく、例えば専業主婦であることを選択した女性に対しては、税制面や離婚において特別の考慮が払われてしかるべきであると主張する。また妊娠中絶についても、中絶を女性の選択権として構成すれば、それに対して胎児権、父親権など対抗する権利が主張され、適切な問題解決とならない。個人的選択の問題としてではなく社会責任論にまで視野を広げた考慮が必要であるとされる。

第1の意味で保護が必要であるからといって、すての場面において女性が保護されるべきとはならない。「自由主義的な法制度がかえって男性の優位と女性の劣位を維持する方向で機能している」かどうかは、具体的な法制度について検討しなければ何とも言えない。専業主婦云々の話は、女性差別の話とは関係ない。

第3に、今日のフェミニズムの主張の中ではこの立場が最も強い影響力を持っているのであるが、法それ自体に、男性基準が採用されていたり、男性による女性に対する偏った見方が表れているが故に、そうした偏見や差別を是正していくため、法制度の見直しや新たな規制が不可欠であるとする。

「法それ自体に、男性基準が採用されている」というのは、その通りのような気がするが、具体的にいかなる規定あるいは運用においてそうであるのかを指摘しなければ、単なる思い込み/決めつけである。平野は、例をあげているが、よくわからない(説得的であるとは思えない)。

 

民族的少数者の権利

単一国民国家の中で民族的少数者がおかれている状況も、基本的には強者である男性に対する女性の場合とあまり異ならない。文化多元論者によれば、国民国家形成の途上において、多数者は、国家的統合を確保するため、一定の「国民」概念に基いて、政治、行政、教育、医療、その他、社会生活の様々な部面において標準的な文化形式の統一的使用を実施した。それによって、そうした多数者の文化及びそれに伴う価値観を共有しない少数者は、標準を強制されたと同じことになったのである。とりわけ、世界のあちこちで問題になっている先住民の場合には、どこにおいても同じように、父祖伝来の土地を征服者によって奪われ、支配の周縁部へと排除されるとともに、同化政策によって多数者の用いる言語その他の文化が強要される結果となった。

「多数者の文化及びそれに伴う価値観」とは具体的に何なのかよくわからないが、諸制度の基礎にある価値観と理解しておこう。(端的に言えば、「自由」を至上のものとする価値観となろうか)。まずは、この価値観を共有できない者(少数者)が存在することを認めなければならない。多数者は、そのような少数者にどう対処すべきか。少数者は、そのような多数者にどう対処すべきか。多数決では解決できない。ではどうすれば良いのか。

民族的少数者の問題の場合に特徴的であるのは、言語に見られるような基本的な文化標準の選択に関して国家が中立的であることは不可能であるということである。政治にせよ文化にせよ教育にせよ、何らかの意思疎通媒体として特定の言語を標準語として採用すれば、それ以外の言語を使用する民族集団にとって、それは共同生活と共同文化の重要な基礎を喪失することに等しくなる。また、自由主義的な法制度の下においては、女性の場合と同様に、私の領域での制限ない自由な競争活動が民族集団の固有性を弱めていく。……

世界の言語別使用人口のランキング*1のトップ5は、第1位:中国語13億7,000万人、第2位:英語5億3,000万人、第3位:ヒンディー語4億2,000万人、第4位:スペイン語4億2,000万人、第5位:アラビア語2億3,000万人である(日本語は、第9位で1億2,700万人)。言語使用の多数派は、「中国語」であり、他を引き離している。頭数で言えば、中国が世界標準語の第1候補になる。英語使用者は少数派である*2

エスペラント語*3を世界標準語にするというアイデアは興味深い。これは既存の特定の言語ではないので、多数派・少数派の問題を生じない。実現可能性が無いなどと一笑に付す前に、グローバル・コミュニティの構想において、公用語として検討されるべきである。

 

異なる文化の共生

民族的少数者の権利主張は、従って次の3種のものに関わっている。即ち、共同体の「身体」ともいうべき古来共有の、祭礼の場、集会の場そして共同生活の営みの中心であった土地、社会関係において自らのアイデンティティを確立する基盤となるべき固有の文化(その重要な部分は言語である)、そして政治の面における自治権あるいは全体社会の政治に民族集団の利害を反映させるための特別議席の獲得である。

ここでは、民族的少数者の権利主張が大別して3つあるとしているようだ。①一定の土地の確保:生活基盤の確保、②言語の保護:他民族の言語(例えば、英語や中国語)の使用を強制されない。③特別議席:自らの意見を主張する場の確保。

そうした権利要求に対して多数者が支配する国家がどの程度応えることができるかは、国家の認識と民族的少数者が置かれている状況による。しかし、基本的にどのような方向でそうした権利要求を実現していくべきであるのか、即ち多文化共生の枠組みとしてはどのような形の秩序が適切であるのかは、女性の問題の場合と同様、理論的な考え方にかなりの相違が見られる。

問われているのは、「多文化共生の枠組み」である。少数者(異質の他者)を排除しないで、いかにして共に生きていくか。

ここでも、3つを区別することがすることができるであろう。民族集団の固有性はその文化にあり、また文化的アイデンティティの継承と発展には言語が枢要であるので、言語への権利を例に整理しておきたい

第1に、国家に共通の公用語としては多数者の標準言語を用いること。多数者の言語は一種の意思疎通の道具ないし手段として機能化され、私の領域において、多数者の言語、少数者の言語を含む多様な言語活動が自由に行われることが推奨される。従って、固有の言語に対する少数者の権利については、信教の自由の場合と同様、国法上は自由権として保障され、国家は可能な限り中立的な立場をとる。

 先に見たように、グローバル・コミュニティ(国連を想像しても良い)においては、多数者の言語は中国語であるので、この主張は「中国語」を公用語とし、他の言語はローカルな使用を「自由権」として認めるということになろう。

第2に、言語使用に関わる国家の中立性が不可能であるので、民族的少数者の言語権を保障するために、公用語の枠を広げ、多数者の言語と共に少数者の言語も公の場で使用できるようにする。つまり、公の領域においては、少数者が自らの言語で意思疎通を図れるように、翻訳や通訳などにより少数者の言語の保護・促進を図るのである。

世界にどれくらいの言語があるのだろうか。世界の言語の百科事典ともいえるEthnologueによると、現在、世界には6900ぐらいの言語があるそうだ(http://www.eiken.or.jp/eiken-junior/enjoy/welcome/detail01/detail_01.html)。これらをすべて公用語とするのは果たしてどうだろうか。翻訳の問題が表面化しよう。

第3に、公用語に関しては第1の立場と同じであるが、少数者の言語への権利を認め、自由な活動によって「自然に」その実質が奪われていくことのないように、公私の領域にわたって、国家が厚い公的な保護・介入を行う。例えば、公的な教育課程に少数者の言語に関わるコースをおいたり、あるいは放送など私の領域における言語活動にも助成をしたりするのである。

6900あまりの言語に対して、その保護のために、教育コースを設けたり、助成をするというのは、それほど重要なことだろうか。「言語への権利」が何を意味するのか、問い直さなければならない。

これら3つの考え方は、要するに、完全な同一性(同化政策)と完全な差異(分離独立)の間で考えられうるバリエーションであり、それぞれ、公の同一性論、公の二元論、公私の差異論と捉えることができるであろう。

グローバル・コミュニティにおいては、新しい言語による公用語、ローカルな既存言語による文化(それが公的な保護に値するかは個別に検討を要する)というのが、現時点での私のイメージである。

 

同一性と差異

以上のように、差異に基く権利の主張をどのように法秩序の中に位置づけるかは、決して容易なことではない。差異を考慮し、女性として、あるいは民族的少数者として、一定の権利を認め、法制度の下で他と異なる特別の扱いをするにあたっては、次のような困難があることも指摘されうるであろう。

まず、女性ないし民族的少数者という属性によって特別の権利を与えることが、属性集団内部での画一化ないし対内的制約につながり、まさに個人としての様々な選択の可能性を閉ざすことにならないかということがある。属性による特別扱いの効果は、法の一般性を前提する限り、同じ属性を有する者すべてに及ぶ。

「特別の権利を与える」(特別扱い)が、いかなる事柄に関して言われているのかが明確ではないので、「属性集団内部での画一化ないし対内的制約につながる」がどういうことなのかよくわからない。「個人としての選択の可能性」についても、いかなる事柄に関しても不変の価値前提とはならないだろう。

また差異に基く権利要求が女性や民族的少数者について認められるならば、他の属性についてはどうかという問題も生じる。個々人が持ちうる属性は様々である。性別と民族だけではなく、性的選好、信教、信条、体力、年齢、地域、職業など、実に多様である。差異に基くアイデンティティの要求を女性と民族的少数者に限定するならば、それについて特別の正当化理由が必要となる。

「女性だから、民族的少数者だから、権利要求を認める」というような粗っぽい議論が、社会的合意を得られるとは考えられない。「差異に基くアイデンティティの要求を女性と民族的少数者に限定する」というのも理解できない。

さらに民族的少数者の権利要求に対する対応の一つとして、さきにふれたように、その固有の言語も多数者の言語と等しく公用語として認めるという選択肢がありうるが、そうした保護策には相当の負担が伴う。公領域における少数者の言語使用を支え得る資源があるかどうか。女性に対する偏見を是正するためにポルノを禁止することについても同様である。表現の自由という一般的な基本権に対し、表現内容による特別な制約を課すことになる。

物事は複雑に関連しあっているので、一面的な判断をすべきでないことは言うまでもないことだろう。

 

中立性の困難

しかしながら他方、リベラル・プロジェクト即ち自由主義的な法秩序構成についても、それが最適の選択肢であるかどうかは必ずしも明白ではない。一定の抽象化された人格概念に基づき、それに関わる規範を、たとえそれが全くの中立的なものでなく、特定の文化的内容を持っているとしても、秩序の基盤として共有することになれば、その上で、選択の自由が多様な幸福追求の可能性を開く。このようなコスモポリタン的な秩序構成は、長期的な視野に立てば、個々人の自律と社会的協働に意味のある公正な枠組みを提供し、望ましいと思われるかもしれない。

これは抽象的すぎる。「一定の抽象化された人格概念に関わる規範」、「選択の自由」、「コスモポリタン的な秩序構成」が何を意味するのか分からないので、何とも言えない。

しかし、フェミニズム多文化主義が指摘しているように、少なくとも、特定の実体的な基準を用いれば、その用いることにおいて、当該基準を共有しない者に大きな負担を強いることになるし、もし実体的な内容の無い形式的で中立的な基準を用いるならば、公権力が介入しないその空隙をまさに支配構造の力関係が埋め、構造的な差別の維持ないし拡大を招くことになりかねないのである。

赤字にしたところをよく考えたい。「公権力が介入しないことが、構造的な差別の維持ないし拡大を招く」場合があるということを、肝に銘じておきたい。

法秩序の構成において、同一性と差異をどのように統合的に位置づけるか。多元的な共生の枠組みであるとしても、それが秩序ある枠組みである限りにおいては、ともに重要な2種の要請である。それをどのように両立させるか。複雑多様化する現代社会における法の役割として、それが問われ続けるといってもよいであろう。

答えが無い問いかもしれない。しかし「完璧なものはありえない」と割り切り、いま出来ることを為し、よりよいものを目指すという姿勢を持ち続けるならば、必ずや未来は開ける。

*1:https://japan.wipgroup.com/01-translation/language-population.html 

*2:ミスユニバース米国代表が、ベトナム代表やカンボジア代表の女性に対し、英語力を笑いものにするような発言の動画をアップし大炎上した(2018/12)。

*3:公平を期すために、現実のどの言語にも属さない世界共通言語が望まれる。エスペラント語に関しては、例えば、http://japana-esperanto-junularo.com/kio-estas-esperanto-1/ 参照。