浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

良識ある人間は、「他者性の破壊を抑制しようとする感覚」を持ち合わせているだろう。

立岩真也『私的所有論』(14)

今回は、第4章 他者 第1節 他者という存在 第1項 制御しないという思想 である。

先に見た私的所有を正当化しようとする言説は、あるものがある人が作り出し制御するものであることによって、そのものがその人のものであると言おうとする。しかし、例えば身体は、その者によって作られるものではなく、制御されつくせるものでもない。そして実はそのようなものこそが、その者から移動させることに最も抵抗のあるものなのである。だから私の答えは単純なものである。自己による制御から出発する発想を裏返し、逆に考えたらどうだろうか。

「制御」という観点。身体⇒臓器は制御できるものなのか。

私が制御できないもの、精確には私が制御しないものを、「他者」と言うとしよう。その他者は私との違いによって規定される存在ではない。それはただ私ではないもの、私が制御しないものとして在る。私たちはこのような意味での他者性を奪ってはならないと考えているのではないか。

他者は、私が制御しないものとして在る。というか「私ではないもの」としてある。

自己が制御しないことに積極的な価値を認める、あるいは私たちの価値によって測ることをしないことに積極的な価値を認める、そのような部分が私たちにあると思う。自己は結局のところ自己の中でしか生きていけない。…他者を「他者」として存在させる。自己によって制御不可能であるゆえに、私たちは世界、他者を享受するのではないか。また制御可能であるとしても、制御しないことにおいて、他者は享受される存在として存在するのではないか。私に制御できないから他者であるのではない。制御できてもなお制御しないものとしての他者がある。世界が私によって完全に制御可能である時、私は私を世界全体へ延長させていったのであり、世界は私と等しくなる。…可能的には全ての者が自分の生のためにある存在である。観念の中で作為された行為としての意味だけが維持され、私の欲望が直接に実現されていくこの過程に、他者、他者による否定の契機が弱くなる。このような私としての世界を私たちは好ましいものと思わないということではないか。

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http://sarcasmlol.com/2017/05/09/smartest-rules-communicate-toxic-people/3/

 

他者を、世界を制御しようという欲望に取り憑かれた「私としての世界」(ジコチュウ)を、好ましいものと思わない。他者は、私が制御しないものとして在る。というか「私ではないもの」としてある。

そこでは[私としての世界では]、私は私にしか会わない。だからその世界は退屈な世界である。私の価値や欲望はその時々には切実なものであっても、それなりのものでしかない。そういうものによって世界が充満しているのだったら、うんざりしてしまう。私ではない存在、私が制御しないものがあることにおいて、私たちは生を享受しているのだと思う。

確かに「私としての世界」*1には、うんざりしてしまう。しかし、「私ではない存在、私が制御しないものがある」ということ。

確かに欲望は欲望としてその存在を認めながら、どこかにそれを途絶させる地点を置くこと、そのような選択をすることもできるのだと思う。私によって私の周囲が満たされることはたいしたことではない。私(たち)のものなど何ほどのものか、というだけでなく、私(たち)が規定しない部分に存在するものがあるということが、私たちが生を享受することの、少なくとも一部をなしているのではないか。これらが自己決定や制御についての疑念の核心にあると私は考える。

私たちが生を享受するということは、世界を制御することではない。私(たち)が規定しない部分に何かが在る。

だから、私の選択と私の価値を信用しない感覚は確かにあるのと思う。私がやったことが私を指し示し、私の価値を表示するという、全てが自らに還ってくるように作られているこの社会の仕掛けを信用しない感覚がある。

「私がやったことが私を指し示し、私の価値を表示する」というのは、ジコチュウの世界であり、「私(たち)が規定しない部分に存在するものがある」ということを了解していない。

その人が「在る」ことを受け取る。私ではない者としてその人が在るということ自体が、苦痛であるとともに、苦痛をもたらしながら、快楽なのである。確かなのは、他者を意のままにすることを欲望しながらも、他者性の破壊を抑制しようとする感覚があることである。この欲望を消すことは無理だと思いながら、しかし抑制しようとする時、ここに述べた感覚があり価値がある。

他者を、世界を制御しようという欲望は、「他者性の破壊」をもたらす可能性があることに無自覚であってはならない。良識ある人間は、「他者性の破壊を抑制しようとする感覚」を持ち合わせているだろう

*1:他者を、世界を制御しようという欲望に取り憑かれた「私としての世界」というとき、拝金主義者・守銭奴の世界が思い浮かぶ。世界長者番付にのることを夢見たり、誇りとするような人々の住む世界である。また、有名になりたい、歴史に名を残したいと考える人々の住む世界である。自己愛な人たちが住む世界であり、自己愛性パーソナリティ障害が疑われる。(自画自賛や自己陶酔、自分に都合の良い思い込み、独りよがり、人の感情を理解しない、他人へのけちくさいライバル視、いじましい支配欲、相手の欠点や弱点を見つけ出すことへの執念、論点のずれた自己正当化、他者を蔑視。…http://news.kodansha.co.jp/20170912_b01 参照)