浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

財政とは何か? 量入制出の原則 量出制入の原則 大英博物館

神野直彦『財政学』(1)

今回は、第1編 財政学のパースペクティブ  第1章 財政学への旅立ち である。

神野は述べている。

学問の世界を旅する者は、謙虚に先達の知恵に学ばなければならない。先達の知恵に学ぶことは、人間の能力の可能性を信じることでもある。だからこそ、自分も自分の能力を信じ、未知に挑戦することができる。ところが、先達の知恵に学ぼうとしない者は、先達の知恵を盗みながら、自己の知恵であるかのごとくに思い吹聴する。先達の能力を信じない者は、人間の能力を信じない者であり、自己独自の知恵も創りえない者である。(p.8)

「学問の世界を旅する者は」と限定しているが、もっと広く、「なにごとかを為さんとする者は」あるいは「よりよく生きようとする者は」としてもよいだろう。

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二元的経済組織論(公共経済としての財政)

財政は市場経済と対比され、「公共経済」あるいは「国家経済」としても理解されてきた。…[これは]国民経済を財政と市場経済から構成されるものとして見る経済組織の二元論に立つことになる。つまり、財政を市場経済との対比において規定しようとする二元的経済組織論が展開される。こうした二元的経済組織論の立場から、市場経済との対比において、財政の特質が次のように整理されてきたのである。

第1に、市場経済では「量入制出の原則」(入るを量って出ずるを制するの原則)が支配しているのに対し、財政では「量出制入の原則」(出ずるを量って入るを制するの原則)に基いて運営されるということである。市場経済では、企業であれば企業の売上、家計であれば賃金収入、というように、収入がまず決まり、その収入に基いて支出を決める。というのも、企業の売上は生産物市場、賃金収入は労働市場というように、市場が収入を決めてしまうからである。そのため市場経済は、「量入制出の原則」で運営されている。ところが財政では、収入が市場によって決められるわけではない。財政は市場メカニズムによってではなく、政治過程で決定されるからである。そのため必要な支出を決めてから、それを賄う収入を決めることになる、政治過程で収入を決めるには、必要な支出が決まらない限り、収入の決めようがないからである。従って、財政は「量出制入の原則」で運営されることになる。

市場経済:量入制出(入るを量って出ずるを制する)、財政:量出制入(出ずるを量って入るを制する)と把握するみかたは、俗耳に入り易い。この見方をとったとしても、「現実の財政運営には、量入制出の側面がある」という批判は可能である。例:少子高齢化社会で、年金収入が減少しているので、年金給付は抑制せざるを得ない。

第2に、市場経済では個別報償性原理が支配するのに、財政では一般報償性原理が妥当するということである。個別報償性原理とは、財・サービスが供給されると、それに対して貨幣による反対給付が、必ず個別的に対応することをいう。これに対して一般報償性原理とは、財・サービスの供給に対して、個別的に代償を支払わず、一般的に租税として反対給付を負担することをいう。それは財政では、財・サービスが市場を通して販売されないということを意味している。

「報償」という言葉が適切とは思えないが、それはさておき、財・サービスの供給とその反対給付が、個別的に対応しているか、一般的に(全体的に)対応しているかの違いは、認識しておくべきだろう。私はこれを「報償」という言葉を使わずに、「1対1対応しているか否か」の違いとして理解しておくことにしよう。

第3に、市場経済有形財を生産するのに対し、財政は無形財を生産すると指摘されてきた。しかも、財政の生産する財には、分割できないという非分割性があると伝統的に考えられてきたのである。

これは疑問だが、ふれないでおく。

 

財政を「公共経済」という新たな概念で捉える「公共経済学」こそ、新たな政府の経済を研究する学問だと喧伝されている。こうした公共経済学の立場からすると、財政の存在理由は、市場で供給不可能な財である公共財(public goods)が存在するという「市場の失敗」に求められる

財が市場で供給可能な民間財(private goods)であるためには、対価を支払わない者は消費から排除されるという排除性と、新たに財の消費が加わると、その分だけ消費からの利益が減少してしまうという競合性とが要求される。逆に市場で供給不可能な公共財とは、対価を支払わない者でも、消費から排除されない非排除性と、新たに消費が加わっても、財の消費からの利益が減少しないという非競合性を備えた財であると説明されている。

「新たに財の消費が加わると、その分だけ消費からの利益が減少してしまう」(競合性)がどういう意味であるかは、次の説明を読めば理解できよう。

防衛、警察、消防などという公共サービスは、確かに対価を支払わなくとも消費が出来るし、新たに消費者が加わっても消費からの利益が減少するわけではない。このように公共サービスは 非排除性非競合性を備えているがゆえに、公共財であり、市場では供給できない。

このような排除性と競合性の視点から公共サービスを把握することは、それなりに有用であろう。しかし、「排除できないから」、「競合性を備えていないから」、市場で供給できないので、仕方なく、公共財として供給する、というニュアンスを含んでいるなら、これはやはり要検討事項だろう。例えば、傭兵、警備保障、消防設備サービス、老人ホーム等々の市場化の流れをどう考えるか。

 

神野は続けてこう言っている。

そうした説明を、公共経済学は、したり顔で自己のオリジナリティであるかのごとくに展開している。しかし、先達の知恵に学ぶことを疎かにしてはならない。先達に学べば、非排除性も非競合性も、あるいは公共サービスを公共財と捉える考え方も、公共経済学のオリジナリティではないことがわかる。非競合性とはカッセルの言う非分割性に対応し、非排除性とは受動的消費に対応する。つまり、財政を「公共経済」と位置付ける「公共経済学」も、伝統的な財政学が拠って立つ二元的経済組織論の延長線上にある二番煎じの議論なのである

私は、「公共経済学」の主張がどういうものか知らないので、何とも言えないのであるが、神野の言うように、「伝統的な財政学が拠って立つ二元的経済組織論の延長線上にある二番煎じの議論」ならば、魅力あるものとはいえない。二元的経済組織論そのものが問題視されねばならない。

 

Coffee break

16世紀から17世紀のドイツでは、フィナンツ(Finanz)は詐欺や悪だくみなどを、フィナンツァー(Finanzer)は詐欺師を意味し、悪いイメージの言葉だった。例えば宗教改革者ルターは、「法王はその政治を買収するや、秘密の欺計と、あらゆるFinanzenと、悪行やその他の陰謀をもってするのだ」と、法王を攻撃していたのである。

神野は「財政」という言葉の起源を論じているのだが、ルターの言葉が興味深い。昨今の財務官僚や厚生労働官僚の言動を見ていると、フィナンツァーかもしれないと思う。

 

Coffee break

ドイツの生んだ偉大な文学者ゲーテが、「公園の思想」を唱えたことを宇沢弘文東京大学名誉教授が指摘している。ゲーテは封建領主や貴族が独占していた美しい庭園を、すべての社会の構成員に解放しようと、「公園の思想」を主張したのである。…博物館も美術館も、すべての社会の構成員に学術や芸術を開放するために設置されている。それだからこそ、民営化に熱心だと言われるイギリスでさえも、大英博物館はいまだに無料で入場でき、民営化は言うに及ばず、独立行政法人化もすることは決してない。しかし、日本は愚かにもまず真っ先に、博物館の独立行政法人化に踏み切ったのである。

 

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The Great Court of the British Museum (Andrew Dunn, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%8B%B1%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8#/media/File:British_Museum_Great_Court_roof.jpg