浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

あなたは「生活困窮者」になるかもしれない。「私たち」は、あなたを助けないであろう。

阿部彩『弱者の居場所がない社会-貧困・格差と社会的包摂』(8) 

今回は、第5章 包摂政策を考える 第2節 これまでの社会保障を考える の続きである。

後半の「新しい潮流」「問題の所在」の項における阿部の主張は特筆に値すると思われるが、今回の記事のメーンは、「生活保護」と「扶養調査」、それに伴うスティグマ(貧困の烙印)の話である。

f:id:shoyo3:20190223201224j:plain

http://www.jp.undp.org/content/tokyo/ja/home/sustainable-development-goals/goal-1-no-poverty.html

 

公的扶助

公的扶助とはどういうものか。

健康で文化的な最低限度の生活を維持しえない生活困窮者に対して,国家がその責任において行う扶助制度。その財源はもっぱら税金その他国および地方公共団体の一般収入によってまかなわれ,受給権者に拠出義務はない。ただ法定の最低生活水準に達していないことが給付の要件とされているため,それを確かめるために資産調査 (ミーンズ・テスト) が行われる。日本の公的扶助に関する立法としては生活保護法があげられる。(ブリタニカ国際大百科事典)

阿部は次のように説明している。

公的扶助制度は、生活保護制度や児童扶養手当など、所得制限を伴っており、税負担で給付がなされる制度のことである。…恒常的な生活保障という観点からは、現行の生活保護制度や児童扶養手当などには、給付期間の制限がなされておらず、その点では、恒常的な給付が可能である。また、生活保護制度には、「足りない部分」を補填するという機能がある。収入や年金などの所得がありながらも、最低生活費に満たないという世帯に対しては、最低生活費とその世帯の所得を比べてその不足分が給付される。医療や介護、教育などの特定のニーズがある世帯については、その必要額を給付する、という設計になっている。即ち、労働市場の周縁部に位置し、低賃金で働く貧困層の人々に対して、生活が崩壊しないように所得を補填することが可能なようになっている。 

 ここでは公的扶助とは「生活保護」のことであると考えておく。児童扶養手当などが公的扶助にあたるか否かは「社会保障」をテーマにとりあげるときに議論することにしよう。

生活保護の財源は、なぜ「保険料」ではなく「税金」なのか? この問いをよく考えてみる必要がある*1。前回の記事(2019/01/20 リスクの偏在と社会保障)で、社会保険とは、「皆がお金を出し合って、誰かがリスクに遭遇したときにカバーする」のが保険の理念であると言った。誰もが同じようにリスクに晒される可能性がある、というのが前提である*2。しかし税金はそうではない。社会の存続のために必要な財・サービスを賄うためのものである。社会の存続とは、社会(コミュニティ)の構成メンバーが他者を排除することなく、共により良く生きていこうとすることである(社会のため、国家のためではない)。保護を必要とする子どもや身体の不自由な老人等々を見捨てることなく、共に生きていこうとするものである。「健康で文化的な最低限度の生活を維持しえない生活困窮者」も同様である。彼らを見捨て、自殺に追い込むような社会(コミュニティ)はあってはならない、というのが生活保護の理念である。親が育児放棄をして、子どもに衣食住を与えないのが非難されるのと同様、私たち(社会)が生活困窮者を見捨て、衣食住を与えないことは非難されるはずだ。東日本大震災に伴う復興特別税に誰も反対しないのと同様、生活困窮者に対する扶助のための税に誰も反対しないというのがまともな社会である。税金は、自分が遭遇するかもしれないリスクに備えるために拠出する保険料とは意味合いが全く異なるのである。

 

しかしながら実際に生活保護を受給するためには、たくさんの受給要件をクリアしなければならず、現役世代の年齢であれば、「働くことが不可能である」ということを証明できなければそれをクリアすることはできない。そのため実質的に生活保護の受給者のほとんどは、「働けない」世帯となっており、制度の生活補填という機能はほとんど使われていない

生活保護受給世帯は、どれ位いるのだろうか? 厚労省データ*3によれば、被保護実人員:210万人(総人口の1.7%)、被保護世帯数:164万世帯である。210万人とは、実に驚くべき数字である。長野県の人口に相当する。世帯類型別に見ると、高齢者世帯(65歳以上)が88万世帯(54%)、母子世帯が9万世帯(5%)、障害者・傷病者世帯が41万世帯(25%)、その他の世帯が25万世帯*4(15%)となっている。高齢者世帯のうち、単身世帯が81万世帯である。ここから容易に想像できるように、受給者のほとんどは、「働けない」世帯である。これは何を意味するか。阿部は「制度の生活補填という機能はほとんど使われていない」と言っているが、これは少し考えてみる必要がある。

生活保護は、「健康で文化的な最低限度の生活を維持しえない生活困窮者」に対して行う扶助である。「働けない人」に対する扶助ではない。働ける人の中にも、生活困窮者はいる。しかし、働けない人で生活困窮者に対する扶助にはなっている。従って、阿部の言い方はオーバーで、「制度の生活補填という機能は使われているが十分ではない」というべきではないかと思われる。

厚労省の統計を見たが、「健康で文化的な最低限度の生活を維持しえない生活困窮者」がどれ位いるのかの統計がない。推計値もない。これでどうして「国家がその責任において扶助を行う」ことができるのだろうか。

憲法第25条:すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

ここで憲法論議をするつもりはないが、「健康で文化的な最低限度の生活を維持しえない生活困窮者」がどれ位いるのかを把握しようともしないのは国(行政)の不作為(怠慢)ではなかろうか。

捕捉率」という言葉がある。「所得が生活保護支給基準以下となっている人のうち、実際に生活保護制度を利用している人の割合のこと」をいう(Wikipedia)。「利用率」といったほうが分かりやすい。

厚生労働省の国民基礎調査を用いた推計*5では、2007年の時点で世帯所得が生活保護基準に満たない世帯は597万世帯(全世帯の12.4%)であるのに対し、実際に生活保護を受けている世帯は108万世帯(全世帯の2.2%)である。(Wikipedia

かなり以前の推計であり、現在はどうなっているのか分からない。「健康で文化的な最低限度の生活を維持しえない生活困窮者」がどれくらいいるのか、知らなくてよいのだろうか。

なお、「不正受給」はよく話題になるが、

日本の生活保護の不正受給率は0.5%以下であり、世界最低水準である。2005年の生活保護予算1兆9230億円に対し、不正受給は71億9000万円であった。(Wikipedia

これもデータは古いが、現在もあまり変わらないのではなかろうか。言うまでもなく「不正受給」は認められるものではないが、ことさらに不正受給バッシングを行う人は「罪を憎んで人を憎まず」のことわざの意味を理解していない(しようとしない)のであろう。

孔子:古之聴訟者、悪其意、不悪其人。罪を犯すには何かしらの理由、原因があったはずで、そちらに目を向けるべきである。罪そのもの、もしくは罪人に対してのみとらわれてはいけない。

このことわざの本来の意味合いは「司法官として裁く側」の心構えを表しているものであって、被害を受けた側が加害者に対して「人を憎まず」と言っているのではないのです。(https://hobbytimes.jp/article/20171001b.html

私は、さまざまな犯罪ニュースに接して、バッシングと取締り・刑罰強化の議論のみに終始し、「理由、原因」を深く追求して対策を講じようとしない姿勢こそが問題であると考えている。

 

生活保護制度は、限りなく「働けない人々」に対する残余的な制度となっているのである。このような生活保護制度の運用は、生活保護を受けることに対しての、非常に高い心理的ハードルを課し、また余儀なく生活保護を受けることになった人々を社会的排除に追い込むことになる生活保護の受給者となると、労働市場からは脱落し、友人や家族などとの社会関係も希薄となる傾向がある。…貧困対策のために打ち出された公的扶助が、社会的排除を生みだしている、という哀しい実態があるのである。 

 生活保護は、①無差別平等の原則(生活保護法第2条)、②補足性の原則(第4条)、③申請保護の原則(第7条)*6、④世帯単位の原則(第10条)に則って適用される。(Wikipedia)このうち、補足性の原則とは、

生活保護は、資産(預貯金・生命保険・不動産等)、能力(稼働能力等)や、他の法律による援助や扶助などその他あらゆるものを生活に活用してもなお、最低生活の維持が不可能なものに対して適用される。…民法に定められた扶養義務者の扶養及びその他の扶養は、生活保護に優先して実施される[第4条第2項]。(Wikipedia)

資産調査(ミーンズテスト)において、資産や能力についてはある程度理解できるものの、「扶養調査」については、大いに疑問である。この第4条第2項は、国が生活扶助をする前に、扶養義務者が金銭的援助をしなければならないとも読める。では「民法に定められた扶養義務者」とは誰か。

民法752条夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない。

民法877条直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養をする義務がある。(2) 家庭裁判所は、特別の事情があるときは、前項に規定する場合のほか、三親等内の親族間においても扶養の義務を負わせることができる。(3)  前項の規定による審判があった後事情に変更を生じたときは、家庭裁判所は、その審判を取り消すことができる。

 3親等内の親族とは、「おじ・おば、甥・姪」である。(なお、いとこは4親等)

民法上の扶養義務が一般的にあるのは「夫婦、直系血族、兄弟姉妹」の範囲です。このうち直系血族というのは、親、子、祖父母、孫といった縦の関係です。それ以外の3親等内の親族が扶養義務を負うのは、特別な事情があって家庭裁判所が審判で定めた場合だけなので、例外的なケースです。

夫婦、直系血族、兄弟姉妹の扶養義務は、「生活保持義務」と「生活扶助義務」に分けて考えるのが民法学の通説(一般的な考え方)です。…「生活保持義務」は、夫婦間と、未成熟の子に対する親からの扶養が対象です。自分と同程度の水準の生活をできるようにする義務があるとされています。これは内容的に「強い義務」だと言えます。ただし、自分の健康で文化的な最低限度の生活に必要な費用(生活保護基準額)を削ってまで援助する必要はないという解釈が一般的です。「生活扶助義務」のほうは、成熟した子と親の関係、祖父母や孫との関係、そして兄弟姉妹の関係が対象です。自分が健康で文化的な最低限度の生活水準を超えて、しかも社会的地位にふさわしい生活を維持したうえで、なお経済的余力があるときに、援助する義務があるとされています。簡単に言うと、余裕があったら援助するべきという「弱い義務」です。

(原昌平*7貧困と生活保護(14) 扶養義務ってどういうもの? 生活保護との関係は?

三親等内の親族間の扶養義務は特殊な場合であって、通常は「夫婦、直系血族、兄弟姉妹」の扶養義務を考えておけばよい。なおかつ、その扶養義務というのは、余裕があったら援助するといった弱い義務である(もちろん積極的に援助することを妨げるものではない)。経済的余力がない場合にまで、援助の義務があるというのは言い過ぎである。なお、この民法の規定は、「まともな公的扶助制度のなかった明治時代に作られた民法から引き継がれてきたもの」であるという。現代において「夫婦、直系血族、兄弟姉妹」のコミュニティがどういうものであるか。成人して別世帯になって(一つの財布ではない)、同居していない状況において、ただ「夫婦、直系血族、兄弟姉妹」であるから、扶養義務があるといってよいのか。

先ほど見た通り、生活保護法第4条第2項は、「民法に定められた扶養義務者の扶養及びその他の扶養は、生活保護優先して実施される」と規定している。この優先という用語が紛らわしい。原は、次のように述べている。

優先」とは、実際にあるならば、そちらを先に使うという意味であって、保護の「要件」とは違います。したがって、生活に困っている人の身内に経済力のある扶養義務者がいても、実際に援助を受けていないとき、援助の確実な約束と準備がないとき、援助の金額が保護基準額に足りないときは、保護を受けることができます。実はかつて、扶養の請求が生活保護の要件であるかのような解釈を旧厚生省が示し、それに沿った運用が行われていたのですが、2008年度から2009年度にかけての実施要領の改正で、要件ではなく「優先」であることが明確にされました。扶養は自分の努力だけで得られるものではないので、活用すべき「あらゆるもの」には含まれないというのが厚労省の現在の見解です。生活に困って福祉事務所に来た人に対して、窓口担当者が「生活保護より先に身内に援助を頼んで」などと言って申請させずに追い返すケースがしばしばありましたが、扶養の位置づけを取り違えているという面でも、申請権の侵害という面でも、間違っています。(原昌平)

この「優先」と「要件」の違いを頭に入れて、2013年の生活保護法の改正内容をみてみよう。詳細検討はいずれということにして、紹介記事を引用しよう。

2013年に生活保護法の改正(63年ぶりの改正)が行われ、「不正受給対策」などと同じく「扶養義務の強化」も大きな改正点となりました。法改正された内容を要約すると、

  • 「扶養義務者」に対して申請があったことを、厚生労働省令で定める事情がない限りは、福祉事務所が通知しなければならない。※厚生労働省令で定める事情とはDVや虐待など
  • 福祉事務所は「扶養義務者」に対して資産や収入の状況について報告を求めることができる。
  • 福祉事務所は「扶養義務者」の資産・収入等について官公署に資料の提供や報告を求めることができる。
  • 福祉事務所は、現在だけでなく過去(当時)の被保護者およびその「扶養義務者」の保護期間中の資産・収入等について、官公署に資料の提供や報告を求めることができる。
  • 官公署は上記の求めがあれば速やかに資料等の提供をおこなう。

(大西連、生活保護の「扶養義務の強化」は「貧困の連鎖」を生む

これを読むと、民法の扶養義務を盾にして、かなり強力なプレッシャーを「扶養義務者」に与えることができるようになっていると感じる。建前としては「優先」であるが、実際には「要件」に近い運用が可能なようにしていると思われる(「通知しただけ」、「報告を求めただけ」、「強制はしていない」)。「指導」と「暴力」、「検討指示」と「命令」のようなものである。

原は述べている。

親族による扶養の追求が生活保護の「要件」になったり、それに近い運用が行われたりしたら、どうなるでしょうか。経済力を持つ親族がいるだけで保護を受けられない、あるいは親族から援助を得るために最大限の努力をしないと保護を受けられない、さらには、扶養義務を負う者が生活保護にかかる費用の一部を福祉事務所から強制的に徴収されるといったやり方です。(原昌平、貧困と生活保護(15) 扶養義務の強化は、悲劇をもたらす

こういうやり方の問題点は、

  • 家族・親族であっても実情はさまざまで、そもそも人間関係が良好とは限らない。
  • それほど裕福でない場合、良かった人間関係も悪化する。
  • これまで、福祉事務所によっては、画一的に広い範囲の親族へ照会文書を送って「この人が生活保護を申請しているのですが、あなたは援助できませんか?」と問い合わせることがありました。何十年も音信不通の親族へ照会したケースもありました。そうすると申請した人は、自分の恥をさらすことになる、あるいは相手に負担をかけるのではないか、と気がかりですよね。それがいやで、生活に困窮していても生活保護の申請をあきらめる人が、現在でも少なくないのです。…さらに扶養義務が強化されていくと、保護の必要な状態にある人が、保護を申請しない、保護を受けられないという事態が大幅に増えかねません
  • 貧困に周囲が巻き込まれる。…誰かが貧困状態に陥ると、周りの親族も巻き込まれてお金を取り上げられる、場合によっては、そちらも貧困に陥るのです。貧困の渦巻きのようなものです。そうなると、生活保護を受ける人は親族たちから白い目で見られ、やっかい者扱いされるでしょう。
  • 子どもや障害者の自立を妨げる。…就職して独立し、多少の収入を得るようになっても、生活保護を受けている親やきょうだい[兄弟姉妹]への援助を義務づけられるとしたら、資格の取得、通信教育、読書など、自分を高めるのに使えるお金が減ります。結婚資金もためにくいでしょう。そうすると、貧困家庭に育った子どもは、自分を犠牲にして親きょうだいをいつまでも養い続けろということになります。まさに「貧困の世代間連鎖」をもたらし、格差の固定化を招くのです。(原昌平)

福祉事務所が、保護費の支給を減らすことを優先的に考えるようでは、本末転倒である。それでは「福祉抑制事務所」になってしまう。

2018/03/14 貧困とセーフティネット 生活保護とスティグマ でも述べたが、上記のような運用は、「個人に非常な不名誉や屈辱を引き起こすもの」であり、スティグマ-貧困の烙印をおすことである。つまりは、「健康で文化的な最低限度の生活を維持しえない生活困窮者」に、援助の手を差しのべないということを意味する。コミュニティがそれを良しとするなら、それはコミュニティ構成メンバーの人間性が問われているということである。

 

阿部は、社会保障制度の3本の柱は、1.社会保険、2.公的扶助、3就労支援であるとして、続いて就労支援について説明しているが省略する。なお、就労支援のほとんどは職業訓練や職業紹介などである。

 

新しい潮流

近年では、こういった従来の形の社会保障制度の他、貧困や社会的排除をより明示的に意識した新しい潮流が生まれてきているのも確かである*8。…しかしながら、これらの政策が抱える問題の一つは、「出口」としての社会が変わらないところである。いくら就労支援をしても、こまめにサポートしても、得られた就職が非正規で賃金も低く、自己の存在価値が認められたと感じさせるような仕事でなければ、結局のところ、何が改善されるのであろう。「出口」の先が、人々を戦々恐々とさせる格差社会であるなら、その人の真の社会的包摂は可能であろうか。

赤字にして強調したところを、何度でも読み返してみて下さい。貧困や社会的排除の問題の最大の(根本的)原因は、「労働市場」(制度、ルール)にあると考える。その労働市場の解明-問題点に応じた対策なしに、阿部の言う「社会的包摂」はありえないだろう。

 

問題の所在

職業訓練を始めとする人的資本への投資プログラムに貧困の解決を求めることは、結局のところ、貧困が自己責任であるという発想から脱していない。職業訓練による貧困の解決は、ある人の貧困は、これまでのその人の人生の不具合によって、十分な人的資源の投資を行えなかったことによって発生しているという考えに基くものである。これは貧困層の人々は能力が足りないから、勤勉な文化に欠けているから、として貧困の存在を正当化してきたアンダークラス論と大きな違いはない。そして、仮に、その対象者が職業訓練の機会を与えられてもスキル・アップに失敗してしまえば、その人の貧困はいたしかたないものとして捉えられてしまうのである。このような思考の問題点は、「解決」をすべて、貧困者に求めていることである。この考えには、彼らの生活困難はそもそも彼らが社会に貢献できるような労働市場における条件整備が出来ていないからであり、「改善」すべきなのは労働市場であり、社会であるという発想が欠けている。この発想の転換の参考となるのが、「障害学」における「障害社会モデル」である。

自己責任論ではどうしようもない。問題があり改善すべきは、労働市場であり、社会である。アンダークラス論や障害社会モデルは興味深いが、次回以降にしよう。

*1:国民健康保険については、国民健康保険料と言ったり、国民健康保険税と言ったりする。保険税と呼ぶのは、語義矛盾なのか、両義的性格を表した適切なものなのかは、いずれ考えてみよう。

*2:一般に、保険とは「偶然に発生する事故(保険事故)によって生じる財産上の損失に備えて、多数の者が金銭(保険料)を出し合い、その資金によって事故が発生した者に金銭(保険金)を給付するための制度」であり、租税とは「国や地方公共団体(政府等)が、公共財や公共サービスの経費として、法令の定めに基づいて国民や住民に負担を求める金銭」であるとされる。(Wikipedia)

*3:生活保護の被保護者調査(平成30年11月分概数)(H31.2.6 Press Release)。

*4:働ける年齢層だが、平均年齢は50代後半らしい。

*5:生活保護基準未満の低所得世帯数の推計について(H22.4.9、厚労省

*6:理想的には、「申請」ではなく、社会が手を差し伸べるべきものである。保護を必要とする子どもが「申請」しなければ保護しないというのがまともな社会なのだろうか。

*7:原昌平…読売新聞大阪本社編集委員。1996年以降、医療と社会保障を中心に取材。精神保健福祉士社会福祉学修士大阪府立大学大学院客員研究員。

*8:ジョブカフェなどの就労支援機関、生活保護受給者に対する自立支援プログラム、求職者支援制度の恒久制度化、パーソナル・サポート・サービスなどが紹介されている。本書発行(2011年)後の動きはチェックしていない。