浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

私が制御しないもの、「自然」があることにおいて、私たちは生を享受している?

立岩真也『私的所有論』(17)

今回は、第4章 他者 第1節 他者という存在 第4項 「自然」である。

操作しない」という主張は、操作することに対する恐れ、畏れのようなものとして表出されることもある。これまで幾度もそうであったように、短期的・部分的な予測によって動きがちな人間は、結局選択を間違える。人は自己にとって本当に良いことを時に判断することができない。ならば、そこには手を触れるべきではないと言う。

いきなり<「操作しない」という主張>と言われても、一体何を話しているんだということになるが、その前に次の歌を聴いてみて下さい。 


松田聖子 抱いて・・・ Live At The Budokan 1988

 

歌詞(作詞:松本隆)の一部:

何度も別れを 心に決めても あなたの顔を見るたび How can I stop loving you … Hold me あなたに 秘密にしてたニュースがある Hold me 私の奥に 芽生えた命を 祝って 抱いて 抱いていて …

ここで止めておけば良いのだが、つい野暮ったくリアルを考えてしまう。産んだ方がいいのか、堕ろしたほうがいいのか。産むと決めても、出生前診断で異常が見つかったらどうするか。中絶とは「殺人」(胎児の生命を奪うこと)ではないのか。そのような「自然」に反することは許されるのか。胎児の生命を「操作」してよいのか。あるいは、自己の身体の一部として、自己所有物として、操作、制御、処分することは自由なのか。

「遺伝子」についてはどうか。遺伝子「操作」は、認められることなのだろうか。遺伝子組替生物(作物)はどうか。このような反自然的行為は許されるのか。

 

「操作」と制御可能性または予測可能性

その立場[操作しないという立場]は、(どの程度)制御可能か制御可能でないか、そして予測可能か可能でないかという事実に関わって成立する。もし、何らかの手立てを使って、予測可能になり制御可能になるなら、問題はなくなる。もちろんこれは楽観的な見方であり、予測不可能性を考えに入れる方がより賢明なのかもしれない。しかしやはりそれでも、不可能性を考えた上で対処せよということなのだから、これは事実としての人間の能力の問題である。ゆえにこれは、じっさいにどこまで可能かどうかという問題はあるにせよ、原理的には、もっと人間が賢くなればよいということである。そして、自然を巡る多くの問題が、生存、快適な生存を巡る問題であることは明らかである、だが、それは重要ではあるが、「自然」を擁護する時の基本的な論点では、少なくとも唯一の論点ではない。 

 遺伝子等の操作が、どういう結果をもたらすかの因果関係が明確になっていれば、基本的には、遺伝子等の操作が許容されるものとなるだろう。明確さのレベルとその評価は、合意が難しいかもしれないが…。

「自然」を巡る多くの問題が、生存、快適な生存を巡る問題であるならば、原理的な困難があるようには思われない。

 

自然信仰

「操作しない」という立場は、「自然」を守るというものである。しかし、「自然」は守るべきものなのか。遺伝子操作や臓器移植や中絶は、反自然的行為なのか。

第一に、そもそも私たちが自然の法則に違反することは不可能である。どんなことをしても、少なくとも私たちは力学の法則には従っている。すべてが法則の内部で行われている。そして、人間が他の種に優越する制御能力を獲得したこともまた自然史の一部であり、自然を制御し支配することもまた自然の一部である。

素粒子にまで遡れば、人間のいかなる行為であっても、自然の法則に従っているだろう。いやもっと正確に言えば、「自然法則」というよりは、単に「自然現象」であるというべきか。「法則に従っている」というのは人間の一つの「解釈」に過ぎないと思われる。こういう言い方をするから、「神が自然法則を創った」などという神話になるのだろう。…「そもそも私たちが自然の法則に違反することは不可能である」という主張は、人間のある行動を議論しようとしている時に、「宇宙の本質」についての議論を始めるようなものである。 

第二に、自然がしかじかであることから、私たちがこうでなくてはならないということを言えない。実際にはその類の議論が横行している。…自らの主張の根拠、主張の補強として、自然に依拠している、自然を持ち出しているのであり、ただ単に「自然(科学)」信仰のもとにあるというだけである。

事実(……である)から、当為(……すべきである)を導くことはできない*1記述文(「XはYである」という形式の文)から規範文(「XはYすべきである」という形式の文)を導くことはできない*2。引用文で、「自然を持ち出す」とは、事実を述べているにすぎないから、「~すべきである」というのは、信仰なのである。

 

「私」ではない存在

「操作しない」という立場(手を触れようとは思わないこと)について、立岩は次のように述べている。

こうしたことと関係なく、私が手を触れようとは思わないことがある。人間はとかく選択を誤る(と言うからにはどこかに正しいことがある)という理由によってではなく、制御すべきではないという感覚があると思う。即ち、決定する側にあるもの、私たちの有する価値がどれほどのものか、とりあえずこういう価値観で生きてはいるが、つきつめてみればそれは何程のものでもないはずだという感覚である。このことは他者に対して、自己の制御の及ぶ範囲を限定するということ、他者に対して自らの価値の適用を断念するということである。これを単に無知、あるいは新しいものが出現することに対する保守的な観念によると考えることはできないと思う。単に長期的・総合的な予測が出来ないなどと言うのでない、もっと基本的な人間の価値に対する懐疑、ある種の悲観があり、また私の範囲にないものがあることに対する希望、あるいはそれらが実際にあるという感覚がある。 

これはなかなか難しい。ここで、立岩が、「他者」について次のように述べていたことを想い起そう。(第1項「制御しないという思想」)

  • 私が制御できないもの、精確には私が制御しないものを、「他者」と言う。
  • 他者は、私ではないもの、私が制御しないものとして在る。
  • 制御可能であるとしても、制御しないことにおいて、他者は享受される存在として存在する。
  • 私ではない存在、私が制御しないものがあることにおいて、私たちは生を享受している。 

この「他者」を「人間」に限らず、「制御しないもの」と捉えよう。「私ではない存在、私が制御しないものがあることにおいて、私たちは生を享受している」。「私が制御しないものが在ること」、「私を経由しないで、私ではないものが在ること」、それによって「私たちは生を享受している」。…立岩の言葉をなぞっているに過ぎないが、よく考えたいところである。まず、「私」の存在しない世界を想像する。そこに「私」が出現する。「私」が世界とのよき関係性を構築できれば、「私は生を享受している」。それは「私の範囲にないものがあることに対する希望」である。

 

世界(他者)を享受する

つまり、制御し支配したいと思い、実際そのために行動する私たちは、他方でそのような世界は良い世界かと問われる時に、どこかで、そうではないだろうと考えていると思う。私たちの欲望はどこかで否定される。他者との関係の中で、自己による他者の領有という観念が抵抗に会い、挫折する。私たちの欲望は欲望として残りながら。しかし、その挫折を私たちは失敗とだけ受け取るのではない。むしろ自己によって制御不可能であるゆえに、私たちは世界、他者を享受するのだと思う。思う、と述べた。だが、それはそのようにしか考えることができないということでもある。

他者/自然を制御し支配したいという欲望、他者/自然と協調したいという欲望、私たちはこの2つの欲望を持っていると思う。前者が強調されがちだが、それは一面的な見方ではないか。「他者/自然と協調したいという欲望」をもっと強調すべきではないか。だとすれば、「自己によって制御不可能であるゆえに、私たちは世界、他者を享受する」というようにしか考えられないと言うのは違うのではないか。

 

言うまでもないことを確認しよう。以上は、人間中心主義的な感覚、倫理と言えるなら倫理、である。世界は私に現れた世界であり、私に現れた世界でしかなく、その世界を私たちは以上のように受け取るのである。だがこれ以外に世界の受け取りようはない。だから、このことが何か「人間中心的」であるがゆえに、自然を擁護する思想として不純であり、不徹底だと批判することは不可能であり、無意味である。私に現れるものとしての世界が、私ではない世界として、私にとって制御できるものでなく、制御されるべきものでない世界として現れるのである

「私に現れるものとしての世界が、私ではない世界として、私にとって制御できるものでなく、制御されるべきものでない世界として現れるのである」というのは、その通りだと思う。

世界は、人間がいなくても存在する。生命に限定しても、人間がいなくても存在する。世界は私中心に動いているとしても、私が存在しなくなれば、世界が存在しなくなるなどとは言えない。…だがこんな議論をして何になるのだろうか。「世界」の意味を限定して使わないといけない。でなければ、「制御」といっても何を制御するのか分からない。例えば「遺伝子操作」の是非について議論するというように、問題を限定する必要がある。自然法則があって、人間はその自然法則に従わなければならない、というような安易な抽象論では説得力がない。