浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

私がブログを継続している理由 井蛙、夏虫、曲士

先日、久しぶりに、大型書店に出かけた。本のタイトルや中身をパラパラと見るのだが、そこでいつも「私は、井蛙であり、夏虫であり、曲士である」ことを思い知らされる。

私のブログの副題は、「井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず」*1である。

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http://zaojv.com/s4359867.html

 

井蛙(せいあ)には以て海を語るべからざるは、虚(きょ)に拘(かかわ)ればなり。

夏虫(かちゅう)には以て冰(こおり)を語るべからざるは、時に篤(あつ)ければなり。

曲士(きょくし)には以て道を語るべからざるは、教えに束(つか)らるればなり。

なお、「語るべからざる」とは、「語ってはいけない」という意味ではなく、「語ることができない=語っても理解されることがない」という意味である。

井蛙は、自分の属する場所(共同体)に拘る(こだわる)。例えば、「国」(日本という共同体)に拘る。他者の属する場所(共同体)があることに思いを致さない。井蛙之見(せいあのけん)という四字熟語もある。専門家の発する言葉は、井蛙の見の可能性があることに留意しておきたい。

夏虫は、「ただいま」(只今、唯今)のことしか知らない。「歴史」を知らない。刹那(せつな)*2に生きている。夏虫疑氷(かちゅうぎひょう)という四字熟語もある。氷があることが分からず、目先のことに拘泥している。

曲士は、ちょっと難しい。四字熟語は見当たらなかった(類似のものはあるだろうが)。曲士には、道(真理)を説いてもわからない。ここでは「道」に倫理的意味を含め、「真理」は科学的事実に限定して考えよう。曲士には、倫理・道徳や科学的事実*3を教えてもわからない。では、何故わからないのか。それは、ある一つの(特定の)倫理・道徳や科学的事実が、絶対に「正しい」と思いこんでいるからである。その思いが「偏狭な」人間を生みだす。次に、「倫理・道徳や科学的事実」を「誰が」教えるのか、という問題がある、それは学校教育(教師)だけにとどまらない。テレビのニュース編集者やコメンテーター、新聞・雑誌等の執筆者、書物の執筆者(主に学者)、職場の上司・先輩・同僚、政治家、官僚、地域の住民、家族等々である。彼らの教える「倫理・道徳や科学的事実」が、特定の価値観を前提にしていることを忘れてはならない。そして、「教えられていないこと(隠されていること)」があり得ることを認識しておくべきである。メンバーを選定できる第三者委員会や学識経験者の見解にはとりわけ注意が必要である。

 

ある一つの(特定の)倫理・道徳や科学的事実を、自信満々に述べ立てる学者・評論家*4が多い。私は、彼らの足元にも及ばない無知な井蛙・夏虫・曲士なのだが、では彼らの素晴らしい言説でもって、私たちの社会は良くなったのか。私は、全く良くなっていないと感じている。それゆえ、私はブログを継続している。 

*1:「井蛙は以って海を語るべからず、夏虫は以て冰を語るべからず、曲士は以て道を語るべからず」の赤字にした「に」を追加変更した。

*2:刹那とは、インドで用いられた,きわめて短い時間を表す単位。1刹那は現在の単位にすれば 0.013秒ぐらいにあたる。また 1弾指(たんじ),すなわち指をはじき鳴らす間に 65刹那が費やされるともいわれる(ブリタニカ国際大百科事典)。ここでは、「1刹那=1世代=30年ぐらい」の意味で使っている。ジェネレーション・ギャップ。

*3:社会科学を含む。

*4:ここに限定付きで政治家や官僚を含めようかとも思ったが、話が面倒になるので含めないことにする。