浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

障害の社会モデル 評価と承認

阿部彩『弱者の居場所がない社会-貧困・格差と社会的包摂』(9) 

阿部は、次のように述べていた。

この考え[貧困は自己責任であるという発想]には、彼らの生活困難はそもそも彼らが社会に貢献できるような労働市場における条件整備が出来ていないからであり、「改善」すべきなのは労働市場であり、社会であるという発想が欠けている。この発想の転換の参考となるのが、「障害学」における「障害の社会モデル」である。

ここで、障害の社会モデルが簡潔に説明されるが、簡潔すぎてよくわからない。そこで以下の解説を参照しよう。

 

障害の個人モデルと社会モデル

個人モデル」とは、障害者が困難に直面するのは「その人に障害があるから」であり、克服するのはその人(と家族)の責任だとする考え方である。それに対して「社会モデル」は、「社会こそが『障害(障壁)』をつくっており、それを取り除くのは社会の責務だ」と主張する。

人間社会には身体や脳機能に損傷をもつ多様な人々がいるにもかかわらず、社会は少数者の存在やニーズを無視して成立している。学校や職場、街のつくり、慣習や制度、文化、情報など、どれをとっても健常者を基準にしたものであり、そうした社会のあり方こそが障害者に不利を強いている――と考えるのが「社会モデル」である。「障害があるから不便(差別される)」なのではなく、「障害とともに生きることを拒否する社会であるから不便」なのだ、と発想の転換を促すのである。(「個人モデル」と「社会モデル」、http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/1418/00071393/2-1_7-8.pdf

「障害者」をどのように定義するかは問題だが、ここでは単純に「身体や脳機能に損傷をもつ者」としておこう。身体・精神障害者の生活困難を個人に帰するのが個人モデルであり、社会に帰するのが社会モデルである。私たちの社会は、身体・精神障害者と共に生きることを拒否している、つまり私たちは身体・精神障害者を差別(隔離、排除)している。

個人モデルは別名「医学モデル」といい、治療やリハビリによる身体機能向上を問題解決の柱と考え、障害者は何をおいてもそれに専念すべきとされる。(同上)

なぜ「医学モデル」と呼ばれるのか。それは、身体・精神障害者の生活困難への対策を医療(治療やリハビリ)とするからである。

社会モデルは「人権モデル」と言いかえられるほど、人権と親和性が高い概念である*1駅の改良にせよ、教育や就労をめぐる闘いにせよ、個人の努力や周囲の支援に頼るのではなく、社会の側の責任として解決すべきだと運動は主張してきたし、その認識を社会一般に広めようともしてきた。(同上)

身体・精神障害者が「人権」や「社会の責任」を声高に主張するのではない。「私たちは、学校や職場、街のつくり、慣習や制度、文化、情報などで、身体・精神障害者を差別・排除せず、共に生きるべきである」と主張するのである。

バリアフリー」や「ノーマライゼーション」は、社会モデルと重なる部分を持つが、そうでない部分もある。これらの概念は、現行社会の構成原理そのものを問うよりは、部分的改良で対処することを可とするものであるし、何より、社会モデルのように社会の全体像を捉えようとするものではないのだ。(同上)

ノーマライゼーション(normalization、正常化)とは、「高齢者や障害者などを施設に隔離せず、健常者と一緒に助け合いながら暮らしていくのが正常な社会のあり方であるとする考え方」(デジタル大辞泉)である。

部分的改良がダメと言うわけではない。「なぜ、身体・精神障害者が生まれるのか?」を、より深く(ラディカルに)考えようというのである。

本書のテーマは、「貧困・格差と社会的包摂」なので、「障害学」の詳細について論ずることはない。

「障害の医学モデル」から「障害の社会モデル」への発想転換と、「貧困」から「社会的排除」への発想転換は似ているところがあるのである。それは、すべての解決を障害者や貧困者の「改善」に求めないという点にある。

なぜ「貧困」なのか? それは自己責任なのか? 勉強しなかったから? 頭が悪いから? 性格が悪いから? 金儲け主義者になりたくないから?

貧困は、個人の問題ではなく、社会の問題である。社会の問題とは、「私たち」の問題である。私たちの問題とは、私たちは、貧困の原因をどう考え、どう対処すべきなのか、ということである。個人の責任として済ますわけにはいかない。…なぜ?を繰り返すこと。おそらく様々な提言がなされているだろう。それらを批判的に検討すること。

 

評価と承認

阿部は、本章(包摂政策を考える)の最初に、「ホームレスのかっちゃん」(人間関係に不器用だったが、やさしいところもあった。路上の仲間は、彼の行動がいくら失礼でも、協調的でなくても、彼を彼のまま、受け入れていた)の話をしている。

かっちゃんは、労働市場においては自活できるだけの「評価」を得られなかったが故に、路上生活をしていた。でも、彼は腕のいい大工であったし、持ち前の器用さと力の強さがあった。なぜ、彼は彼のまま社会に貢献することができないのであろう。いや、彼が例え「労働者」として何の価値もなかったとしても、なぜ彼は彼のままであってはいけないのだろう。なぜ、職業訓練をして、お行儀のよい社会人にならなくてはならないのであろう。 

 ここに述べられている問いにどう答えるか。これはなかなか難しい問いであると思う。

この議論は、第3章の社会的排除/包摂の議論の中で、繰り返し述べた「承認」の議論である。かっちゃんが、かっちゃんのままで社会に認められること、即ち、かっちゃんを承認する社会とはどのような社会なのか、ということである。

ホームレスの仲間は、かっちゃんを受け入れていたが、ではホームレスではない私たちは、かっちゃんを承認できるだろうか。承認という言葉に語弊があるとすれば、ホームレスではない私たちは、かっちゃんを受け入れることができるだろうか。おそらく難しいと感じるだろう。なぜか。

 

格差社会」の結果として、その[活動/労働の]「評価」が社会的地位に直結し、その差が非常に大きく、それがために人間関係が劣化するほどである場合、「評価」をそれほどポジティブに考えるわけにはいかないのではないだろうか。さらに、評価される土台として、公平な競争という前提が存在しないのであったら、どうであろう。

活動/労働の「評価」が何のために行われるか。いかなる基準で行われるか。基準に照らして、適正に評価されたとしても、基準が問題となる。例えば、成果主義の評価。なお、阿部は「公平な競争」というが、「競争」それ自体が、問題含みの概念である。いずれとりあげよう。 

野宿仲間による清掃活動は評価を伴わない「承認」であった。公園では、誰も人を「評価」しない。そこにいること、同じ公園で寝ていること。それだけが「仲間の条件」だったのである。…そこには、その場と活動を共有しているという連帯感があり、それぞれがごみ袋何杯分集めたかなど「評価」しようとは誰もしない。活動の後には、皆でおにぎりを分かち合い、「きれいになったね」と言葉を交わし、そして、それぞれの寝床に帰っていく。彼らが無償であるのに清掃活動に集まるのは、この「承認」を得るためだけであったのである。

「承認」とは、「お互いに認め合う」ということである。「その場と活動を共有しているという連帯感」である。大学の部活動の一環としての合宿*2がこのイメージに近いだろうか。

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https://www.jacobs-university.de/study/summer-camps

 

現代社会では、このようなコミュニティは、おそらく存続しえないだろう。しかし、そのように「存続しえない」と言い切ってしまえば、先に進めない。何故、存続しえないと考えるのか?

「承認」といい、「その場と活動を共有しているという連帯感」といい、実に抽象的である。私たちのさまざまな活動/労働が、「他者の承認」(他者が存在していることを認めること)や「連帯感」(他者とともに存在しているという感覚)と、どう関わっているのか? 

*1:1993 年に国連総会で採択された「障害者の機会均等に関する基準規則」では既に社会モデルが採用されている。。当事者運動の過程で血肉化された社会モデルの考え方は、個々の障害者が直面する問題を、徹底して社会の文脈で捉える思想であり、運動における武器でもあった。

*2:体育会系の「~強化合宿」などではない。