浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

エッケ・ホモ(この人を見よ)

神野直彦『財政学』(3)

今回は、第2章 財政と三つのサブシステム の続きである。三つのサブシステムとは、社会システム、政治システム、経済システムである。神野はシステム*1という言葉を多用しているが、これは理解を曖昧にするもののように思えるので、ここではこれを限定的な意味で理解しよう。

神野は、社会システムを「人間の情緒的紐帯に基く共同体的人間関係」、政治システムを「強制力に基く支配・被支配関係」の意味で使っている。経済システムについては、明確な説明はないが、「自然に働きかけて人間に有用な財・サービスを生産・分配するという経済行為」に関するシステムらしい。

神野は、歴史認識として、「自然に働きかけ、人間に有用な財・サービスを生産・分配する経済行為」が、君主や領主の指令に従って実行されることになった、としている。そして、君主や領主という支配者は、大部分の社会的余剰を手中に収める。

 

市場社会の成立

社会的余剰は、支配者の偉大な権力を賛美する後世に残るようなピラミッドや万里の長城などの巨大なモニュメントの建設や、支配者の贅沢三昧な生活に費消されてしまい、広範な社会の構成員の欲望を満たすことができず、その構成員は低水準な生活が強いられてきたのである。

こういう文章を読むと、思わず現代の状況の記述かと思ってしまう(もちろん程度の差はあるが)。

こうした限界を打破するために、市場社会が成立する。…社会システムの共同体的慣習と政治システムの指令に基いて実施されていた、自然に働きかけて人間に有用な財・サービスを生産・分配するという経済行為が、政治システム[強制力に基く支配・被支配関係]や社会システム[人間の情緒的紐帯に基く共同体的人間関係]から分離して実施されるようになる。

「こうした限界を打破する」とはどういう意味か。支配者と被支配者(構成員)との間の不平等・格差の状況を打破するという意味か。

近世になると大航海時代の幕開きにより、港湾都市では交易によって富を蓄積する者が現れ始めた。また絶対主義の時代には、中央集権化により特に首都が経済的な中心となり、ここにも富を蓄積するものが現れ始めた。近世における「重商政策」は彼らの成長を積極的に後押しした。彼らが市民革命前夜における「ブルジョワジー」である。当時の権力主体であった貴族階級、聖職者と都市の労働者、民衆、農民との間に位置付けられる、都市の裕福な商人を指してブルジョワジーというようになった。ブルジョワジーの中には巨万の富を蓄え、貴族に仲間入りするものや貴族に準ずる待遇を受けるものも現れ、新たな支配階級を形成しつつあった。ここでブルジョワジーと呼ばれた人々は、市民革命の主体となり、それまでの貴族や聖職者が主体であった体制を革命によって転覆させた。そのため市民革命をさして「ブルジョワ革命」とも言う。この場合の「市民」とは「ブルジョワジー」のことで現在の「市民」という概念とは異なっている。(Wikipediaブルジョワジー

だとすれば、「都市の裕福な商人」が、当時の権力主体であった「貴族階級や聖職者」から権力奪取したということであって、支配者と構成員(被支配者)の格差を是正する(限界を打破する)ために、市場社会が成立したとは思われない。「都市の裕福な商人」が封建領主の支配から脱し、独自の力を得てきたというべきではないか。「こうした限界を打破するために、市場社会が成立する」という表現では、「市場社会」が礼賛されているように感じられる。

 

市場社会を観察すると、人間の作った生産物だけを取引するのではなく、土地に代表される自然や、人間の活動そのものである労働をも、市場で取引している。…市場社会とは生産物市場ばかりでなく、土地、労働という本源的生産要素に、資本を加えた生産要素の生み出す要素サービスを取引する要素市場の存在する社会をいう。要素市場が成立するには、神が人間に等しく与えたもうた自然や、人間の活動そのものである労働という本源的生産要素に、私的所有権が設定されなければならない。それは政治システムが領有していた領地や領民が解放されて、土地や労働力が私有財産となることを意味する。例えば、農奴という身分からの解放が実施されなければ、労働を販売して、賃金という貨幣報酬を獲得することができず、無償労働を継続せざるを得ない。つまり、市場社会が成立するためには、被支配者が支配者になるという政治システムの民主化を前提にして、被支配者が生産要素に私的所有権を設定することが認められなければならないのである。

市場社会では、土地や天然資源や労働も取引される。これが取引されるためには、私的所有権が設定されなければならないという。果たしてそうだろうか? 本当に「自分のもの」でなければ、取引できないのか。

土地」を考えてみよう。誰のものでもない土地、例えば、国が管理する公園や道路や河川は公共用財産だが、個人は利用できないのか。そんなことはない。有料の場合もあるが、料金を支払えば利用できる。私的所有権が設定されなくても、取引が可能である。(「国家」の所有権が問題となるが、ここでの問題ではない)

労働」はどうだろうか。労働に私的所有権を設定するとはどういう意味だろうか。人は自分の労働(働き)に「私的所有権」を設定しているのだろうか。そんな登記簿は見たことがない。労働に関しては、労働の対価(金銭報酬に限らない)がどのように算定されるべきかが問題であって、私的所有権は関係ないだろう。

「自然に働きかけ、人間に有用な財・サービスを生産・分配する経済行為」が、封建領主の「強制力に基く支配・被支配関係」から脱して、「市場社会」が成立したというのであれば理解できるが、「私的所有権」の設定が条件になるとは考えられない。

 

市場の分離による余剰の拡大

財・サービスの生産と分配は、強制力に基く指令や情緒的紐帯に基く共同体的慣習によらずに、市場における等価交換に基いて実施される[ようになった]。しかし、経済システムが分離する市場社会になると、社会的余剰は支配のためのモニュメントや支配者の贅沢に費消されてしまわずに、さらに余剰を生むために使用される。つまり余剰が余剰を生む資本として存在することになり、余剰は飛躍的に拡大していくことになる。

社会的余剰が何を意味するのか説明なしに、余剰が飛躍的に拡大していくと言われても、何のことかわからない。

 

システム統合の必要性

市場社会では財・サービスの生産と分配は、市場によって決定される。つまり購買力に応じて財・サービスが分配され、かつ購買力は要素市場で決定される賃金によって規定されるため、市場によって分配される財・サービスは必ずしも人間の生活を保障するわけではない。

公務員の給料はいかにして決まるのか。民間給与を参考にしているとはいえ、これが労働市場で決定されるとはいえない。最低生活水準以下の賃金の公務員は聞いたことがない。(公務員の話は、議論の趣旨と関係ないかもしれないが)

このことは、生後間もない幼児は、賃金を取得することができないため、市場を通じては財・サービスが分配されず、自力では生存することが許されないことを想起すれば、容易に理解できるはずである。つまり、市場関係ではニーズを充足することができないのである。

言うまでもなく、賃金は労働の対価である。

そのため市場社会でも、人間の生活は、情緒的紐帯に基く共同体的人間関係、つまり社会システムで営まれざるを得ない。家族のような社会システムにおいて、ニーズに応じて財・サービスが無償で分配され、人間の生存が保障される。

これは「あたりまえ」のように思うかもしれないが、かならずしもそうとは言い切れないようだ。労働不能者(乳幼児、失業者、心身障害者、病気療養者、要介護者)は、「家族のような社会システム」において、生存が保障されねばならない。「保障される」のではなく、「保障されねばならない」。また「家族のような社会システム」であって、「家族(&親類縁者)」において「保障されねばならない」のではない。

経済システムが、人間の生活に必要な財・サービスを分配することができなければ、人間としての生存が不可能になる。人間としての生活が保障されないとすれば、社会に亀裂が生じ社会統合は不可能となる。生産要素を私的に所有する市場社会では、土地や資本という生産要素を所有しない者は、労働によって生活の糧を得るしかない。土地や資本という財産もなく、必要な購買力を得るための労働の機会すらないとすれば、人々は土地や資本の私的所有を認めることに合意しなくなる。そうなると、トータル・システムとしての市場社会が破綻してしまうことになる

「資本」は難しい概念だが、ここでは単純に「財・サービスを生産するための原材料、設備」と考えておこう。

「土地や資本という財産もなく、必要な購買力を得るための労働の機会すらないとすれば、人々は土地や資本の私的所有を認めることに合意しなくなる」というのは理解できない。財産のない労働不能者(乳幼児、失業者、心身障害者、病気療養者、要介護者)は、土地や資本の「私的所有」を問題にしているとは思えないのだが…。こういう理由で「トータル・システムとしての市場社会が破綻してしまう」というのは考え難い。

 

ミッシング・リンクとしての財政

「財政は、三つのサブシステムの境界線上にあって、それらを結びつける隠れた媒介環であり、市場社会を統合するミッシング・リンク」であるなどという大袈裟な話は間引いて、重要な点をピックアップしよう。

  • 経済システムは、市場的人間関係に基づき、「営利」つまり「金儲けをしてよい」領域であり、競争原理で営まれる。
  • 政治システムと社会システムは、「非営利」つまり「金儲けをしてはいけない」領域であり、協力原理で営まれる。

「民営化」は、「公共部門が持っている非効率性を競争原理によって是正する」狙いがあると言われる。しかし、「公共事業」とすべき(しておくべき)事業は民営化してはならないのである。最近は、「水道事業」の民営化が話題になっている。民営化の議論は、本書でも後で出てくるだろう。ここでは詳細にふれない。

 

経済システム(市場取引)を機能させるための公共サービスには大きく分けて2つあるという。

  1. 土地、労働、資本という生産要素に私的所有権を設定し、それを保護すること。
  2. 経済システムが円滑に機能するための「高次生産要素」としての交通手段、産業経済・研究、統計・情報などを整備すること。

土地の私的所有権はわかるが、労働に私的所有権を設定するとはどういう意味かわからない(働くか否かは自由だという意味か)。資本は多義的で何とも言えない。

ここに挙げられている「高次生産要素」の例は、「公共事業」として整備すべきインフラということだろうか。

 

社会システム(人間の情緒的紐帯に基く共同体的人間関係)を機能させる公共サービスがある。

社会システムを機能させる公共サービスは、家族間あるいはコミュニティ間の対立や抗争を調停する。

継続的な人間的接触のない共同体間では、対立や抗争が生じる。そうした対立や抗争は、暴力を背景に政治システムが調停しなければならない。

家族間あるいはコミュニティ間の対立や抗争については、あまり聞いたことがないが、何が想定されているのだろうか。コミュニティ間の対立・抗争とは、国家間の対立・抗争の意味だろうか。暴力とは軍事力のことか。世界政府が存在しない現状で、政治システムが何を調停できるというのだろうか。ここはそんなことを言っているのではなく、国内の小さなコミュニティ間の対立・抗争のこと言っているのだろうか。法の制定と運用の話ならば、「財政」はどのように関わってくるのか。

市場社会では生産要素に私的所有権を認めるため、家族間やコミュニティ間で、生産要素の私的所有をめぐる対立や抗争が生じる。

土地をめぐる対立・抗争については、確かにそうかもしれないが、他の生産要素についてはわからない。

 

経済システム(市場取引)が、社会システム(共同体的人間関係)で営まれる人間の生活に必要な、財・サービスを分配できなければ、こうした対立と抗争は激化する。そのため政治システムは財政というチャネルを通して、…生活保障をする公共サービスの提供も必要となる。

「生活保障」なる公共サービスが十分に提供されているのか。仮に「生活保障」の理念に同意できるとして、「財政」は機能しているのか。これは「財政赤字」をどう考えるかという問題でもある。

 

以上、やや批判的にみてきた部分もあるが、神野の「人間性回復の経済学」という基本スタンスについては、そうあるべきだと考えている。

 

エッケ・ホモ(この人を見よ)*2

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http://katycom.info/museum/%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%B1%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%A2%E3%80%80%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E3%81%AE%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%83%8F%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%82%88/

*1:システム(system)は、相互に影響を及ぼしあう要素から構成される、まとまりや仕組みの全体。一般性の高い概念であるため、文脈に応じて系、体系、制度、方式、機構、組織といった多種の言葉に該当する。(Wikipedia)

*2:「エッケ・ホモ 現代の人間像を見よ」展は終了している。第1章「日常の悲惨」、第2章「肉体のリアル」、第3章は「不在の肖像」。…国家・経済・環境・情報などさまざまな分野でグローバル化が進む中、一個人においてはアイデンティティ(≒自分らしさ)の再構築が必要とされ始めている。なぜなら、古いパラダイムや社会でしか通用しないアイデンティティでは(古い既成概念や価値観、あるいは組織や企業、環境などに自分を預けたままでは)、21世紀を生きることが難しくなってきているからである。(黒木杏紀、http://www.kansaiartbeat.com/kablog/entries.ja/2016/02/nmao_eccehomo.html