浮動点から世界を見つめる (旧:気の向くままに)

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

人間中心主義

立岩真也『私的所有論』(18)

今回は、第4章 他者 の注6*1「人間中心主義」である。

人間中心主義Aは、生存のための資源という視点から自然に対する。「道具主義的人間中心主義」と呼んでもよい。だから自然を改変する。しかし、生存のために自然を(一定のレベルに)保存することも必要だということにもなる。この意味で「人間中心主義」的な自然保護、環境保護がありうるし、実際ある。

石油、石炭、天然ガスなどのエネルギー資源や鉄、銅、アルミニュームなどの金属資源、水や森林、さまざまな資源がある。また食用とされる動植物や水産資源も無数にある。資源保護や環境保護が叫ばれる。何のためか? 人間の生活(生存)に有用なためである。「道具主義的人間中心主義」と言うと、このような自然の利用・改変が何か悪いことのようなニュアンスがあるが、私たちの生活(生存)が成り立っている基礎に、このような「自然」があることを忘れてはならない。(そのことがまた、資源争奪のような社会問題を惹き起こす)

これに対してここで述べたのは、自然を受け取ることを価値とする人間中心主義Bである。そして私たちは明らかにAとBとを同時に求めている。両者が要求することは対立しうる。どちらを優先させ、どのあたりで調停するか。「なんとかやっていける範囲にとどめる」という位のことは言えたとしても、これで決まりという決定的な解はない。

「自然を受け取ることを価値とする」とは、どういう意味だろうか。「神の創造物たる自然」を改変してはならないという信仰だろうか。そのような信仰を胡散臭いと考える者にとっては、「自然を受け取る」が敷衍されなければ、了解されることはない。…立岩は「私たちは明らかにAとBとを同時に求めている」という。感覚としてはわからないでもないが、それは「人間の自分勝手で、自然を乱開発してはならない」といった程度のものであろう。

人間中心主義に「非・人間中心主義」「脱・人間中心主義」が対置され、自然(界の動物・植物・…)に「内在的価値」「固有の価値」があるといった主張がある。述べたことはこれとどう対立するのか、あるいはしないのか。まず、その自然がなければ、感じたり価値を認めることはありえない。その意味で自然は独立したものとしてあり、自然(を構成する個々のもの)に固有の価値、内在的価値があると言いうる。だが他方、価値を認めている(それに基づいて何かを行うこともある)のは誰かと聞かれれば、私だと言うしかない。その限りでは「人間中心主義」と「固有の価値」の主張は対立せず、今述べた(不可避な、言うまでもない)人間中心主義は残る―人間中心主義Z

自然(界の動物・植物・…)に「内在的価値」「固有の価値」があるという主張はよくわからない。「内在的価値」とか「固有の価値」とは何だろうか。これは「無証明命題」(公理、信仰)ではないか。先ほどの「自然を受け取ることを価値とする」というのは、自然(界の動物・植物・…)に「内在的価値」「固有の価値」があるということと同じだろう。…「内在的価値」「固有の価値」と認識する/感覚するのは「私」であり「人間」であるから、これは「人間中心主義」であるというのは、その通りだと思う。

C「(固有の価値はあるが)人間にとって無価値なあるいは有害な自然」を想定し得るか。想定できるなら、人間中心主義ZのもとにA[道具]とB[固有の価値]とC[無価値]があることになるか。Aに対してCは対置されうる-利用できない、生きていく上で脅威となる自然。ただBの場合には、私(たち)でないものがあること自体に価値が見いだされるのだから、CはBに含まれる(Bの中のCがAと対立する)。

「価値」という言葉が紛らわしい。「私(たち)でないものが存在すること自体に価値がある」というのならば、「私(たち)でないもの」には、人間にとって「有用なもの」と「有用でないもの」があると言っておけばよい。それだけのことではないか。

「自分自身にとっての他者としての自然を、人間は求めているのだ。自然は時にその美しさをもって人間を魅了してくるし、時に猛威をもって襲い掛かってくる。人間の関与とは関わらぬところで現前し、それ自体で活動し、それ自身の本質を持つ、そのようなものとして自然を経験することを人間は欲しているのだ。」(丸山徳次)

「自然」が「道具」ではなく、「花鳥風月」を意味するなら、人間にとって「固有の価値」があると言えるかもしれない。自然が「天災」を意味するなら、そのような自然を経験することを人間は欲してはいないだろう。

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http://www.jamstec.go.jp/shinkai6500/25th/drama/

 

さらに以上にも関連し、自然の価値の重みづけをめぐる議論がある。感覚の存在を根拠とする「感覚主義」、シンガー等の動物の解放論があり、「生命の主体」であるものに権力があるとする立場がある。他方に、有機体、生態系、エコシステム等、全体として見ることが大切だとする主張がある。前者と後者は対立を構成するとされ、前者は後者からその個別主義が批判され、後者は前者から(と限らないが)その「全体主義」が批判される。後者について「有機体」と「共同体」を区別し、「共同体」説は個々の自然物の固有の価値を認めるものだといった主張もある。これらは、何により多くの価値を認めるのか(あるいは価値の序列自体を否定すべきか)という議論であり、言うまでもなく、いずれも人間中心主義Zの中にある。そして、A[道具]の立場から人類の生存のためには生態系全体が大切だといった主張もありうる一方、自らの「近さ」という契機を消し去ることができないならB[固有の価値]の中にも序列は存在しうる-これと同じものではないが、人間により似たものに価値を与えるのもまた「人間中心主義」と呼ぶことができよう。他に現存する人間だけでなく未来の人間のことも考えようという「世代間倫理」の議論がある。

これらの議論は、詳細をみてみないと、何ともコメントしようがない。

自然物の「権利」についてだけ付言しておく。この語にどのような意味を与えるかによる。例えば、権利の主体に選択や応答の能力を求めるなら、自然物の権利という言い方は誤っている。だが、こうした資格を必須としないなら、自然物の権利という発想は特段に奇異ではない。また、それが、私ではない(私が自由にすべきでない)ものがあることを言おうとしているのだとは言える。ただ以上は、権利という語の使用が適切だと主張するものではない。繰り返すが、権利の付与を行うのは私たちであり、このことを曖昧にする効果があるならこの語を用いることは適切ではない

「権利」という言葉は、濫用されているように感じる。どういう意味で使われているのか見究めないと判断を誤る。

*1:立岩は、引用の出典や参考文献を明記しているのだが、ここでは煩わしいので省略した。