浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「野蛮な社会」と「すべての人が暮らしやすい社会」

阿部彩『弱者の居場所がない社会-貧困・格差と社会的包摂』(10) 

今回は、第5章 包摂政策を考える 第3節 社会のユニバーサル・デザイン化 の続き である。

ベーシック・インカム

ベーシック・インカムとは、基本的な生活を保障する一律の給付を、すべての人に無条件で行い、人々は収入の一定割合をその財源として拠出するという斬新的な[斬新な?]制度設計で、ヨーロッパを中心に関心を集めているアイデアである。ベーシック・インカムには、就労していることや、救済に値するものであるなどの価値判断を伴わない給付の条件は、その社会に生きているという、それだけである。おにぎりだけでは人は生きていけないが、これをより生活を保障するレベルの給付とするのが、ベーシック・インカムの基本的な考えである。

ここでは、赤字にした部分、「給付の条件は、その社会に生きているという、それだけである」に注目しておきたい。私たちが、この社会で共に生きていこうとするなら、「基本的な生活の保障」は当然のことのように思える。このことに合意が得られるなら、その実効性を確保するための政策手段、制度設計がいかなるものであるべきかの議論がなされる。…ベーシック・インカムとは、一つのアイデアだろう。別途考えてみたいテーマである。

 

ユニバーサル・デザインの社会

ユニバーサルなデザインは、ベーシック・インカム的な現金給付の制度に限られるものではない。むしろ、ユニバーサルな視点が必要なのは、医療サービスや福祉サービスなどの公的サービスであろう。これらの制度は、そもそも制度的には「誰もがアクセスできる」ことが意図されている。しかしながら、意図せざる制度の落とし穴や障壁は、社会に多く存在する。

阿部は、ユニバーサル・デザインの社会を「障害のある人も無い人も暮らしやすいようにデザインされている社会」と言う意味で使っている(本章冒頭、p.162)。ただし、

ここで言う「障害」は、従来の「障害」の狭い概念ではない。人づきあいが下手だとか、手がかかる子どもがいるとか、介護が必要な家族がいるとか、「100%企業戦士」になるにはちょっとツライ…というようなさまざまな事情のことを言っている。このような「事情」は多かれ少なかれ、すべての人が抱えているものであり、それを無視して、皆に企業戦士となることを求めることは、結局、すべての人にとって暮らしにくい社会を作ってしまうことである。そして、「すべての人が暮らしやすい」というユニバーサル・デザインこそ、社会的包摂政策の中核を占めるものである。

「障害のある人も無い人も」というのは、「すべての人が」という意味である。狭義の心身障害者だけを対象にするものではない。このように範囲を広げては焦点ボケするという批判もありえようが、「特別扱い」せず、いろいろなケースを想定するという態度が重要であると思う。

中谷は、次のように述べている。

障害のある人の便利さ使いやすさという視点ではなく、障害の有無にかかわらず、すべての人にとって使いやすいようにはじめから意図してつくられた製品・情報・環境のデザインのこと。共用品・共用サービスと訳されたり、「UD」と略す表記もある。「福祉用具」のように対象者を特定化する視点はハンディキャップによって使用するものが違う、選択肢が限られるといった状況を生みノーマライゼーションを阻む要因ともなる。米国ノースカロライナ州立大学の「センター・フォー・ユニバーサル・デザイン」所長ロン・メイスが提唱し、ユニバーサル・デザインの原則として、「誰でも公平に利用できる」「使用において自由度が高い」「使用方法が簡単にわかる」「必要な情報がすぐに理解できる」「ミスや危険につながらないようなデザイン」「無理のない姿勢で少ない力で楽に使用できる」「使いやすい大きさ」の7つを挙げている。(中谷茂一 聖学院大学助教授/2008年、知恵蔵)

「デザイン」を「製品・情報・環境」だけでなく、「制度」にまで拡大して考えれば(制度設計)、

すべての制度やプログラムにおいて、本当にすべての人にアクセスが保障されているか、今一度点検する必要があろう。

 

すべての人に優しい制度

現代社会においては、多くの人が労働市場における就労を活動の中心としていることを考えると、労働市場におけるユニバーサル・デザインが達成されない限り、社会のユニバーサル・デザイン化はあり得ないだろう。即ち、どのような人であっても、「居場所」「役割」「承認」の形態としての「就労」の選択肢が提示されなければならない。そして、その労働は、「生きがい」を感じる尊厳のあるものでなければならない。

労働市場におけるユニバーサル・デザイン」とは、「居場所」「役割」「承認」が確保されている場を設計することである。さまざまな「事情」を抱えた人のすべてが働きやすい場をつくること。私たちは、本当はそれを望んでいるのではないか。

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http://wattsnext.com.au/workplace-bullying-dont-silent-witness/

 

ユニバーサル・デザインな働き方は夢か?

すべての人には、程度の違いはあるものの、「事情」「生きにくさ」「ハンディキャップ」「インペアメント[機能障害]」がある。私はそれらを「障害」とさせない社会を、「ユニバーサル・デザインの社会」と呼びたい。それは、すべての人を無条件で「承認」することであり、「包摂」することである。

私は、あえて「ユニバーサル・デザインの社会」などと呼ぶ必要はないと思う。すべての人には、程度の違いはあるものの、「事情」「生きにくさ」などがあり、それらに特定のラベルを貼って排除するのではなく、ともに生きられるよう、きめ細かい配慮(制度設計)が必要である、と強調しておけば良いのではないかと思う。

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http://www.iamwire.com/author/jaimit-doshi

 

まとめ

阿部は、第6章のはじめに、ここまでの「まとめ」をしている。

  • ただ最低限の生活水準を保障するというだけではなく、すべての人が自分の存在価値を発揮でき、承認され、つながり合うためには、貧困に対する政策に社会的包摂という視点がなければいけない。
  • 変わりゆくグローバル社会の中では、従来の社会保険制度や公的扶助制度、就労支援が、人々の最低生活を保障することも、社会的包摂を約束することもできない
  • なぜなら、(1)現在の社会保険制度は、すべての人がまっとうな職業に就いていたり、または、家族のセーフティネットにより守られていることを前提としており、(2)公的扶助制度は、最低生活は保障するものの、扶助を受けることが排除につながる要素を持っており、そして、(3)就労支援は、人々を労働市場に戻すことだけを目的としており、戻された労働市場での社会的包摂は問題視していないからである。
  • これらの制度は、限られた「よい仕事」への競争を激化し、誰もが企業戦士のように振る舞わなければならない強迫観念を植え付け、その競争からふるい落とされる人々を、非正規労働など社会の周縁に追い込んでいく。これが社会的排除である。そして格差社会は、社会的排除を助長さる大きな要因となる
  • 社会的排除に抗うためには、誰もが尊重され、包摂されるユニバーサル・デザイン型の社会が必要である。誰もが自分の存在価値を発揮できるような働き方ができ、誰もが人から必要とされ、誰もが包摂される社会。それは理想論かもしれない。だが、誰もが生きにくさを感じるようになった現在、そのような包摂の視点が、これからの日本を考えるときに不可欠なのではないだろうか。

「諦念」ではなく、「理想」を共有できるか? *1 「理想」を実現する手立てを構想しうるか?

 

かっちゃんの死

阿部は、第4節ユニバーサル・デザインな働き方は夢か?で、次のように述べている。

彼[ホームレスのかっちゃん*2]が、彼にできるやり方で働き、それに対する「見返りのある」報酬を得、さらにそれに加えて、適宜の所得補填によって基本的な生活水準を保つことができれば、どんなに良かったであろう。そして、パーソナル・サポートのようなきめ細かい支援によって人間関係を築くことができれば、彼が彼らしさを失うことのない就労と承認が可能であったかもしれない。…繰り返すが、))一番しんどい人に焦点を合わせた社会は、すべての人にとって暮らしやすいのである。残念ながら、現代日本の社会の中で、かっちゃんが「承認」された場は路上だけであった。彼を包摂したのは路上のコミュニティだけであった。私が彼と出会って3年ほどしたころ、寝ていた段ボール小屋に火をつけられて、泥酔していたかっちゃんは眠ったまま焼死した。焦げた地面のあとには、仲間がいつまでも野の花を供えていた

今回で、『弱者の居場所がない社会-貧困・格差と社会的包摂』の読書ノートを終わる。

*1:「金と権力」を第一優先の価値と考える野蛮な社会では、私たちは、このような「理想」を共有することは不可能であると思われる。

*2:障害の社会モデル 評価と承認 参照。