浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「公共選択論」というお伽話

神野直彦『財政学』(5)

今回は、第5章 現代財政学の諸潮流 である。

本章で私が興味を持ったのは、「マーシャルの公共財」と、「財政における政治(財政の決定過程)」である。

公共選択論は、官僚・利益集団・政治家を批判すること(民間部門の利益を貪る巨大な政府)で、大衆の受けを狙った「お伽話」であるようだ。

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新古典派総合の財政学

  • マスグレイブ(1910-2007)は、フィスカル・ポリシーの財政学を新古典派総合の立場から体系化した。財政の機能は、①資源配分機能(経済的資源を民間部門と公共部門に配分する機能)、②所得再分配機能、③経済安定化機能の三つに分類される。
  • マスグレイブは、新経済学派(市場経済と財政の二元的組織論)の財政学を継承している。財政の根拠を「市場の失敗」に求め、市場経済が私的欲求を、財政が社会的欲求を充足すると考えている。

公共財の二つの理論

  • マーシャル*1の公共財…公共財とは私的に所有されていない財である。「所有権」にもとづく区分である。
  • 公共経済学の公共財…公共財は非排除性(対価を支払わなくても、消費から排除されることはない)や非競合性あるいは等量消費(誰かが消費しても、他の人の消費が減少するということはない)という性格を備えた財である。
  • 公共経済学の理論が説明する公共財の特色は、私的所有権が設定されていないことによって生じている現象に過ぎない。街路灯には私的所有権が設定されていないから、消費を排除しない非排除性が生じるに過ぎない。

 公共財の理論の展開

  • 公共財の理論では、財政支出を公共財として把握する。財政支出を「財」として把握すると、租税を「価格」と位置づけることができる。そうなると、市場と同様に「財」と「価格」が交換される仕組みとして、財政の決定過程を分析できることになる。
  • 租税を公共サービスの価格と理解して、財政の決定過程である政治過程を疑似市場として分析しようとする試みは、スウェーデン学派によって展開されていた。…公共財の需要と供給は、私的財と相違して、あくまでも「集合的」需要と「集合的」供給なのである。社会全体の集合的需要と集合的供給とを調整するためには、投票過程という政治プロセスが不可避となる。
  • 政治は統治のために、「正義」を必要条件とする。そのため公共財の理論も、社会的正義という価値基準、つまり租税で言えば、公正な課税と言う問題を取り上げざるをえなくなる。政治の問題を取り上げるようになると、マスグレイブも「ハイデルベルグの遺産」、つまりウェ―バーの伝統に戻り、社会学的視座を重視せざるをえなくなり、…財政社会学へと関心を向けていく。
  • ブキャナンに代表される公共選択学派は、むしろ「政府の失敗」を強調する。公共選択学派はスウェーデン学派ほどには、財政の決定過程と市場そのものとの相違を認識せずに、公共財をあたかも私的財であるかのように扱ってしまう。

財政社会学ルネサンス

  • ネオ・マルクス主義の財政社会学に対して、マスグレイブは、財政の決定過程のアリーナ[競技場]では、階級闘争だけが決定要因になっているわけではないと反論する。多元的な利益を反映する利益集団が政治的過程で影響力を行使している、と。ネオ・マルクス主義者の想定する階級的利害に支配される国家という理論は現実的妥当性に乏しく、「財政的利益集団」に焦点を絞った多元主義的財政社会学が必要である。
  • 1980年代まで先進諸国で安定的に定着してきた財政制度が世界同時的に破綻し、財政制度が世界的に大転換を遂げる時代を迎えた。こうした財政制度の大転換に直面して、「政治」という経済外的要因を無視し、公共財の理論を中心としてきたメイン・ストリームの財政学は行き詰る。
  • 公共選択論は、財政破綻の責任が予算最大化を目指す官僚、既得権益を守ろうとする強欲な利益集団、投票の獲得に飢えた政治家にあると主張する。このような<民間部門の利益を貪る巨大な政府>というリヴァイアサン[怪物]を実現させたことが、財政破綻の原因だという叫びは、とても「リヴァイアサン」とは言い難い「小さな政府」に過ぎないアメリカや日本で、皮肉にも拍手を浴びる。しかし、そうしたお伽話は、「リヴァイアサン」と呼ぶにふさわしい「大きな政府」であるヨーロッパでは、決して受け入れられない、空しい叫びでしかなかったのである。
  • 財政社会学ルネサンスは、このように既存のメイン・ストリームの財政学が、財政制度の大転換を解明できず立ちすくんでしまっていることへの批判として展開していく。財政社会学の胎動は、方法論的にも暗中模索の手探り状態であるために、さまざまな学派に分かれ、それらが競って花を開かせている。

新財政社会学の三つの潮流

  • ネオ・ウェーバー的財政社会学は、ネオ・ウェーバー的歴史社会学の立場から、マルクス主義多元主義を批判する。マルクス主義階級闘争の結果として、また多元主義は多元的利害の均衡の結果として、政府の政策が決定されると理解するのに対し、ネオ・ウェーバー的財政社会学は、政府の自律性を重視する。国家の絶対的自律性(スコチポル)、埋め込まれた自律性(ホブソン)の提唱。
  • 歴史的財政社会学も、「社会学習アプローチ」にもとづき、マルクス主義多元主義を批判する。第2次大戦という社会的危機のもとにおける税制、ニューディール政策社会学習(ブラウンリー)。
  • 制度論的財政社会学は、財政における「政治」つまり財政の決定過程に注目する。合理的選択論と歴史的制度論という二つのアプローチがある。①合理的選択論は、個人が自己利益最大化を目指して合理的に選択行動をするという経済人(ホモ・エコノミカス)仮説にもとづいて、財政の決定過程を分析する。財政における「政治」は、権力者による「略奪的支配」であった(レヴィ)。②歴史的制度論は、政治的決定過程の構造としての政治的「制度」も、利益集団、政治家、官僚などという政治的アクターの改革選好に影響を与えると考える(スタインモ)。

財政学再生の課題

  • 新古典派の財政学から公共経済学が派生し、財政の決定過程に着目した公共選択理論が抬頭してきたのも、財政危機の深刻化に規定されている。しかし、財政学を経済学の中に幽閉しようとする試みは、財政危機の深刻化に直面してますます分散化し、弱体化している
  • 財政は経済現象と非経済現象との結節点に位置している。非経済現象の重要性を認識して復活しつつある財政社会学も、転換期の財政現象を解明する方途を模索している段階にとどまっている。というのも、財政現象の非経済的要因を重視するあまり、財政学を社会学的アプローチに解消してしまう傾向があるからである。
  • 財政現象とは、経済現象と非経済現象とが綱引きを演じるアリーナ[競技場]であり、財政学は経済現象と非経済現象との相互関係を対象としている。つまり、財政学は財政現象を経済学、政治学社会学という社会科学の個別領域からアプローチするのではなく、境界領域の<総合社会科学>として固有の学問領域を形成しなければならない。

*1:

Cool Head,but Warm Heart.(アルフレッド・マーシャル

経済学者ケインズの師であるマーシャルは、ロンドンの貧民街にケンブリッジの学生たちを連れて行き、こう言った。「経済学を学ぶには、理論的に物事を解明する冷静な頭脳を必要とする一方、階級社会の底辺に位置する人々の生活を何とかしたいという温かい心が必要だ」。学問を究めるにしても、仕事を極めるにしても、冷静な頭脳は欠かせない。しかしそれ以上に必要なものが、人間性である。特に人々を牽引するような立場の人間には、より一層の常識、正義感、道徳、そして暖かい心が備わっていなければならない。(http://www.3egroup.jp/article/13233346.html