浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「私が制御しないもの」(他者、自然、世界)を尊重する(享受する)

立岩真也『私的所有論』(19)

ここまで立岩が本節(第4章 他者 第1節 他者という存在)で述べてきたことを振り返っておこう

  • 私が制御できないもの、私が制御しないものを、「他者」と言う。
  • 他者は、ただ私ではないもの、私が制御しないものとして在る。
  • 自己によって制御不可能であるゆえに、私たちは世界、他者を享受する。
  • 制御可能であるとしても、制御しないことにおいて、他者は享受される存在として存在する。
  • 私ではない存在がある、私が制御しないものがある、私が規定しない部分に存在するものがあることにおいて、私たちは生を享受している
  • 他者を意のままにすることを欲望しながらも、他者性の破壊を抑制しようとする感覚がある。
  • 他者(たち)によって私が作られているから、私は他者を尊重する。
  • 他者の存在は、私が私として在ることができることの条件となっている。
  • 他者との一体感、自然との一体感は、私に他者が近づいてくることではない。
  • 私の身体は感受されるものである。私の身体は私があることと切り離しがたくある。
  • 他者にとってもまた私自身にとっても他者であるような私の身体がある。
  • 操作しないという立場は、制御可能性、予測可能性の事実に関わって成立する。
  • 自然を制御すべきではないという感覚がある。
  • 自己によって制御不可能であるがゆえに、私たちは世界、他者を享受する。
  • 私に現れるものとしての世界が、制御できるものでなく、制御されるべきものでない世界として現れる。

 

今回は、第5項 「他者という存在」である。

こうして辿り着いたのは、自らに発するものが自らのものであるという論理、論理というより価値観、の単純な裏返しではないにしても、それと全く別の感覚・価値である。

「別の感覚・価値」というのは、「他者」のことである。私が制御できない、制御しない、制御するべきでない「自然」「世界」を含めて考えてよいかもしれない。

私はそれを私たちが有する価値の事実として提示したいだけだ。私たちがそれを好むということ、それ以上の理由をつけようとは思わない。この価値も、すべての価値が結局のところそうであるように、それ以上根拠を遡ることができない。しかし、その点では、私が私の作ったものを所有するという観念も同格である。そして後でも幾度か見るように、これが作為を抑制する倫理・感覚としてあることは、この倫理・感覚が作為を指示する感覚を凌駕しうることを示している。

私たちは、他者、自然、世界を尊重する。私たちは、他者、自然、世界を享受する。これは一つの価値観である。

立岩は「私が私の作ったものを所有するという観念も同格である」と言っているが、果してどうか。価値観に優劣はつけられないかもしれないが、「私が私の作ったものを所有するという観念」が価値観であるか否かは、議論のあるところだろう。

 

<四季の移ろい>

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http://washi.livedoor.biz/archives/65841679.html

 

とすれば、第一の原理として「<他者>が在ることの受容」を立ててよいのだと考える。これは、作為・制御→取得という考え方(2章2節)と全く別の、逆の考え方である。所有に関わる近代社会の基本的な図式が裏返されている。いかにも怪しげなものに思われる。しかし、論理を辿っていけば、このようにしか考えることができない。このような感覚は、私たちの社会にあっては一般的に言語化されてはいないから、議論は、しばしばこれを通り越し、例えば〇〇は不平等を惹起してしまうといった理由付けの方に流れていく(3章)。しかし、不平等それ自体が最初の問題ではないことは既に述べた。それらの主張を検討する中で以上のような回答が与えられたのである。

「他者」が在ることについては、上述の通りである。しかし、これが「所有」の話とどう関連するのか? 立岩の話は、所有→制御→制御しないもの→他者という流れであったように思う。それにしては論点がずれているようにもみえる。でもこれは、立岩が、自己の身体(臓器)に焦点を合わせて、制御/所有を考えているからかもしれない。

それにしてもこれは、どう考えても、随分怪しげな話である。以上は、私が制御するものこそが私のもの(他者によって奪われてはならぬもの)だという観念と全く正反対のことである。

「私が制御するもの」(自己所有)を尊重する(価値を置く)。対するに「私が制御しないもの」(他者、自然、世界)を尊重する(享受する)。

そして、私たちが選択者であることは確かなことである。私たちは日々選択しながら生きている。領有しない、制御しない、そんなことはありえないことだ。例えば、私たちは子をしつけ、教育する。これは必要不可欠なこと、少なくとも好都合なことだ。私たちは人が自分の思う通りに動いてほしいと思う。また私たちは行為の規則を決める。これを受け入れないことは、何でも決めてくれる神様のいない私たちの時代にあって不可能だ。それ以前に、このようなあり方は、生物の一切の「自然」から離れているように思われる。だって、あらゆる生物は、自分で獲得したものを自分で食べるではないか。自分で食べるために獲得するではないか。

以上を否定しない。だから、こうした感覚のもとにだけ私たちがいるなどと到底言えない。

 ここで「感覚」とは、「私が制御しないもの」(他者、自然、世界)を尊重する(享受する)という感覚であろう。

だが、このような感覚があると述べるのは、そんなに突拍子もないことだろうか。私は、私たちの生の全てがこのような感覚によって覆われていると言っているのではない。しかし、制御し領有し使用することをそのまま受け入れず、それを制約する、あるいはそれに抵抗するものがあるなら、それは、詰めてしまえばこういうものだと、他ではあり得ないと言っているのである。そして、これを、「文化」の差異や独自性にも還元する必要もないと思う。

ここで論じられているのは、「文化」の差異や独自性とは関係のない普遍的な話のように思える。

私たちは、私による世界の制御不可能性の上で、何かをしたりしなかったりするのであり、そこでどれほどか私の意のままに私と私の周囲とがなることから確かに快楽を得ているのではあるが、その不可能性がすべて可能になったときには、私たちにとっての快楽もまた終わるのではないかと言っているのである。制御しようとする、制御しつくそうとする欲望をそれ自体として否定しようというのではない。しかし、ある者にとって制御しないことからくる快楽が否応なく否定されるなら、とりわけ、もう一つの快楽、例えばただ生きてあること(これもまたその者に与えられてあるものだ)と引き換えに否定されるなら、少なくともそれは悲惨なことだと言いたいのだ。

例えば、自然の草花を愛でる。四季の変化を楽しむ。生物の多様性を享受する。…これらは、「制御しないことからくる快楽」かもしれない。

これがかなり基本的な感覚、倫理であるのは確かだと思う。上述のような感覚、価値観をもってこないと、私たちが行っている基本的なよい/わるいについての判断を導くことが論理的にできない。その者が制御するものがその者に所有されるものだという観念によっては、例えばその者のもとにある生命や身体が奪われてならないことを言えず、この「不可侵」を擁護しようとすれば、ここに述べたような言い方しか見当たらないのである。

「所有」の観念ではなく、「制御しないことからくる快楽」を持ってきたとしても、生命や身体の「不可侵」を擁護する根拠となるか否かは疑問である。「個人」の観点からだけでなく、「社会」の観点からも考えなければならないだろう。

生命などという大層なものについてだけではない。思想・信条を取り下げさせられることや、制服を着ないことや、髭を生やすことを諦めさせられることを認めないこともまた同じである。それらを奪おうとしないのは、髭を生やすことが何か素晴らしいことだから、その人の何かもっともな理由によって選択されたことだからではなく、その人の何かに役に立つというのではないその人の生の様式が許容されるべきだと私たちが考えているからではないか。

私たちは、無条件に「その人の生の様式が許容されるべきだ」とは考えていないだろう。その「条件」こそが議論されるべきであって、「その人の生の様式が許容されるべきだ」という価値観を問答無用に主張してよいとは思われない。

そのような価値を私たちは持っており、多分失うことはないと思う。人は、操作しない部分を残しておこうとするだろう。それは、人間に対する操作が進展していく間にも、あるいはその後にも残るだろう。それは全く素朴な理由からで、他者があることは快楽だと考えるからである。快楽を、しかもひとまずは苦痛であるかもしれない快楽を持ち出すのは、真面目な問題を論じる時に良からぬことだと思う人がいるかもしれない。しかしそれ以外のどのような言い方があるだろうか。単純な快楽をそれ以外のそれ以上のものに持ち上げる必要があるだろうか

一般的には(抽象的には)、「他者があることの快楽」を認められよう。しかし、上でちょっとふれたように、それで具体的な問題(社会問題)が解決するとは思われない。

他者を在らせることは義務だと言いたいとき、快であることから義務は生じないと指摘されればその通りかもしれない。だが、まず世界を意のままにすることから来る快があり、それを禁圧し抑制するものとしての掟があるのだという、よく持ち出される図式にそのまま乗ることはないと思う。確かに、ここで述べてきた感覚は抑止するものとして働くことがある。しかしこのことは、抑止するものそれ自体もまた快であることを否定するものではない。 

 「他者を在らせることは義務だ」と言うのは、「哲学者」くらいだろう。

その起源は問わない。問う必要がないと思う。何かしらもっともな起源があるのかもしれないし、ないのかもしれない。何にしてもわけ[理由]というものがあるのだとすれば、たぶんあるのだろう。しかし、それが見つかったところでそれはそれだけのことである。むしろ、私たちが直接に知らないどこかに-例えば、脳の中に等々-「根拠」を見出し、それによって何かが分かった気になったり、それが何らかの方向を指し示すものであると考えることの方がおかしいのではないか。

これは何を言っているのか分からない。