浮動点から世界を見つめる (旧:気の向くままに)

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

「合理的無知」は克服可能であろうか?

香取照幸『教養としての社会保障』(2)

今回は、第1章 系譜、理念、制度の体系(ギルドの互助制度を手本としたビスマルク)の続きである。 

4.社会保障の理解の難しさ

社会保障は、医療や介護、保育といった産業を動かしている。そこには大きな雇用があり、医療や介護に関わる様々な産業分野(医薬品や医療機器、介護機器、ヘルスケア・健康産業等々)もある。

社会保障を少し動かすだけで、経済や雇用に少なからぬ影響が及ぶ。しかも社会保障の受益者は日本中にいるので、その影響は日本の津々浦々に及ぶ。つまり地域経済にも影響する。

制度がちょっと変わるだけで、人々の生活に与える影響は計り知れない。

社会保障は、国の財政や経済システム、政治システムと密接不可分なものである。

社会保障全般を正しく理解するには、社会保障そのものだけではなく、経済システムや政治、社会全体についての一定の理解が必須である。

社会保障」が経済や雇用に及ぼす影響の最大のものは、医療業界(病院等の医療機関、医薬品業界、医療機器業界)に対するものだろう*1。業界の利害が絡む話ともなれば、報道には現れてはこない政治的影響力の行使の話にもつながってくる。

大きな政治判断を伴う制度の設計変更や給付内容の改定を実行する場合、それに携わる政治家や役人には、その制度変更が合理的か、妥当なものか、という判断だけではなく、経済に与える影響や地域に与える影響、そして制度変更によって影響を受ける人はどんな人たちで、その人たちの合意を取り付けるにはどうしたら良いか、制度を動かしたときにどのくらいお金がかかって、そのお金はおのように調達すると一番公正で社会に負荷がかからないかなど、実に様々なことを考えなければならず、それをこなしていけるだけの背景知識・能力が要求される。

もちろん、これは社会保障に限った話ではなく、「制度の変更」を考える場合、様々な事柄を考慮する必要がある。影響が及ぶ範囲・程度、そして「コスト」はやはり重要な要素である。

社会保障全般を理解するには、まずマクロ経済に精通していなければならず、同時に人々の生活の部分、つまりミクロが分かっていなければならず、更には政治を理解し、地域政策、地域経済が分かって、家族政策にも見識を持ち、更には国民のメンタリティみたいなものも理解できないといけない。

国民の多くは、例えば年金の受給額や保険料、介護サービスの内容、保育所に入れるかなど、自身の生活に直接関係のあることには強い関心があっても、社会保障全般となるとほぼ関心がないという現実がある。

自身の生活に直接関係のあることであれば、ネット等で調べればわかる。情報化時代の恩恵であることは間違いない。しかし、「社会保障全般」については、ネット情報でお手軽に理解できるようなものではない。だから、最初から関心がないというよりは、理解するのが難しいので、関心が無くなるということであろう。

一人ひとりの市民にとっては、私の、家族の日々の生活の一つひとつの場面に関わっているものが社会保障である。100人いれば100通りの社会保障の姿がある。

医療、介護、年金、子育て、障害者福祉、どれをとっても、制度の対象になる人はみな違う。…一人ひとりの市民が実際に関わる制度は場面ごとにすべて違っている。自分が関わる制度はそれぞれみな別なわけだから、社会保障の中でも自分と関係のない部分のことには関心がない。他のところはどうでもいい、となってしまいがちである。

例えば、年金をめぐる高齢者と現役世代の利益相反関係?。子育て支援の問題*2

 

f:id:shoyo3:20190523183310j:plain

教育分野への投資が重要なのは異論はないが、「無償化」より待機児童問題の解消を早くしてほしいと言う切実な声も。(写真:PIXTA

https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/248790/113000119/

 

制度を設計している側は、全体の様々なことを見渡して、社会的なコストはなるべく小さくし、サービスはなるべく充実させるという、相反することの最適解を求めて懸命に考えるわけだが、実際にサービスを受けている側からすると、そんなのはどうでもいい。「私をどうしてくれるの」という世界になる。制度の全体像=マクロの風景と、市民一人ひとりにとってのミクロの風景が、もの凄く乖離している。

これは制度設計者であった香取の実感であろう。優秀な官僚は、全体の様々なことを見渡して制度を設計する。政治家(=国民の代表?)の意向をどう考えるか。学識経験者(専門家?)の意見をどれだけ尊重するか。自分の考えをどれだけ織り込むか。

 

5.合理的無知と公教育の欠陥

一般の市民にとって、社会や政治、経済の世界で起こっている事象には、それなりに関心を持たれても、その理解には一定の限界がある。

政治や経済の専門家でもない普通の市民=一般大衆である私たちには、わざわざ時間を使って頭を使って政治や経済の難しい話を勉強しても、選挙で行使できるのは一票で、結局は中身よりも知名度の高い候補が当選してしまう。これでは、大事な私の時間を政治や経済の勉強に使う意味がない、自分の趣味や家族のことに時間を使う方が合理的と考えて、あえて、つまり「合理的な選択」として小難しい政治や経済の話には関心を払わない、無知のままでいる、という選択をする。これが「合理的無知」と言われるものである。

ほとんど誰もが、仕事で必要とされるのでない限り、「政治、経済、社会」の難しい話を勉強するよりは、自分の趣味や家族のことに時間を使うだろう。それが「合理的」なのである。合理的無知であるほうが、「幸福」なのである。「利己主義者」だと非難されようが、「ルール」を守って行動している限りは、非難される筋合いはない。「政治、経済、社会」に限らず、「科学技術」的なことでも同様である。スマホのハードやソフトがどのように作られているのかなど、苦労して勉強する必要はない。それは専門家に任せておけば良いことで、私はスマホが「使えれば」それで良い。

誰にでも、やらなきゃならないこと、考えなきゃならないことは他にたくさんあって毎日忙しい

人間の思考能力やそのキャパシティはそれほど大きくないから、自分にとってさほど重要でないことについては、合理的な選択として無知であることを選択するという傾向がある

実際、社会保障でも、制度なんか理解していなくたって別に困らない。…とにかく、子どもができたら保育所に入れるような仕組みにしてくれていれば、それでいい。

私たち(社会で働いている人)は、本当に忙しい。時間がない。(報われることもない)専門外のことを勉強する時間などない。したがって、「井蛙、夏虫、曲士」であることが、合理的な選択であり、「幸福」なのである。専門家が非専門家に「勉強せよ」というのは、「不幸」のすすめである。「合理的な無知」であれば、時間を有効活用でき、「幸福」をもたらす。

合理的無知ということがある限り、社会保障のようにミクロとマクロに大きな乖離のある制度は、そもそも理解を求めること自体にかなり無理がある、という宿命を背負わされている。

人々=一般大衆は政治や経済、それ以外でも何らか専門知識を必要とする事柄について、自分で考えること、判断することを事実上放棄している。そうすると、全体を見る、ということのないまま、他のみんながそう言っている(らしい)ことを短絡的にそのまま鵜呑みにするようになる。

専門知識を必要とする事柄については、無知が合理的であるが故に、制度全般を理解しようということにならない。深刻な顔つきで、不平・不満を言う人間にはなりたくない。自分の専門外の事柄はルール/現状/専門家の言を受け入れておけば良い。自分が関係してくる事柄については、「政府・官僚が悪い」と「不平不満」をぶつけておけば良い。

何が正しいかではなく、みんながどう思っているか。もっと言えば、自分たちがどう思いたいと思っているか、で物事を判断する。

「世論形成において、客観的真実よりも、感情や個人的信条への訴えかけの方が影響力を持つような状況」を、post truth という。

本当のことよりも自分がそう信じたいと思っていることの方を大事にする。世の中の空気が判断を支配する。社会不安と合理的無知が支配するようになると、空気を察知したアジテーターが「悪いのはこいつだ」とか「こんなのやめちまえ」と火をつければ、燎原の火のように人々は一気に雪崩を打ってそちらの方向になびいていく。

post truthという言葉は覚えておきたい。(以下の引用は、トランプ氏は「底なしピノキオ」 政治家のウソを考える より)

リー・マッキンタイア(ボストン大学リサーチフェロー、哲学)は、次のように言っている。

真実よりもイデオロギーや政治信条が重視されることを「ポスト・トゥルースポスト真実)」といいます。

先ほどの定義と同じである。post truthとは、「一般大衆は、客観的真実よりも、イデオロギーや政治信条を重視する」という意味であると理解しておこう。

トランプ大統領は、誤りを指摘されても、訂正も取り消しもせず繰り返します。これは意図的なウソです。

なぜウソが容認されるのでしょうか。「敵が話す真実」より「味方のウソ」を好む人は一定の比率でいます。明らかなウソでも、ほぼ3人に1人は周りに同調して判断します。その時に重視される基準は「真実かどうか」ではなく、アイデンティティーだったり、自分の家族や気にかけている人と別々でいたくないという感情だったりします誰しも帰属する集団から離れるのを恐れるからです。

なぜ客観的真実を重視しないのか。それは、アイデンティティ(自己同一性、ころころと考えを変えたくない)や、社会集団への帰属意識(仲間はずれにされたくない、小さなことで争いたくない)という基準を重視するということである。しかも、「客観的真実」なるものは、明確であるとは限らない。誰の目にも明らかな「客観的真実」なるものは存在せず、「色眼鏡の真実」のみが存在すると言えるのではないか。したがって、post truthが、何か悪いものであるとか、誤っているとは言い切れない。

日本で公文書の改ざんが大騒ぎになったそうですが、米国でも環境保護局が気候変動に関する文章を書き換えるという問題が起きました。政府が勝手に事実を変えてしまうというのはスキャンダルです。いったいだれがそれを止められるでしょうか。「真実をコントロールすること」は独裁へのステップだと私は思います。

どうすれば「ポスト真実」に対抗できるのでしょうか。

大切なのはウソの言説を放置せず、向き合うことです。彼らがどこで情報を得て、なぜ信じているのか尋ねて下さい。厳しい対話から逃げてはなりません。ウソを信じる相手を「ばかげている」と決めつけてもいけません「事実」を示しても人はなかなか変わりませんが、人間的な絆を結べば変わりうるのです

post truthの教訓は、「真実かどうか」の議論(議論しなければ、真実かどうかは分からない)をする以前に、「人間的な絆」を結ぶことが大切だ、ということだろう。では、いかにして「人間的な絆」を結ぶことができるのか? その具体的な方策なしに、「人間的な絆」を唱えても、空念仏に終わるだろう。

f:id:shoyo3:20190525131743j:plain

http://bildungblog.blogspot.com/2018/12/beyond-land-of-four-pinocchios-there.html

 

グレン・ケスラー(ワシントン・ポスト紙のファクトチェック責任者)は、次のように言っている。

トランプ大統領は、事実と異なる発信の数、内容の異質さで例をみない政治家です。就任から2年間で発した虚偽の回数は、8158。2年目は1年目の3倍の頻度でした。

代表的なパターンが自らの業績の美化で、「米経済は史上、最も好調だ」が典型です。次が政敵攻撃。「民主党は犯罪の政党だ」などです。三つ目のパターンが「事実の捏造」。例えば「USスチール社は新たに6プラントを立ち上げた」といった主張です。全く根も葉もありません。

トランプ氏の場合、最も特徴的なのが同じ虚偽発言を延々と繰り返すことです。私たちは、ファクトチェックの結果を数字で格付けし、その数のピノキオ*3のマークを記事に添えています。事実のつまみ食いが1ピノキオで、重大な誇張や事実の欠落は2ピノキオ、重大な事実誤認は3ピノキオ、大うそは4ピノキオ、という基準です。

ただ、トランプ氏のために昨年12月に新しい基準を設けました。20回以上繰り返した虚偽を「ボトムレス(底なし)ピノキオ」と認定します。「米史上最大の減税を成し遂げた」など16の「底なしピノキオ」が与えられています。

日本の報道機関も、政治家や官僚に、ピノキオマーク(その日本版、天狗?)を付けたら面白いかもしれない。

ある日、大工のチリエージャ親方は、意志を持って話をする丸太を見つける。そして、そこにジェッペット(ゼペット)じいさんが現れ、丸太を木の人形にし、ピノッキオと名付ける。ところが、このピノッキオは勉強と努力が嫌いで、すぐに美味しい話に騙される。たとえば、話をするコオロギなどの忠告にも耳を貸さず、人形芝居の親方に焼かれそうになったり、狐と猫にそそのかされて、殺されそうになったりする。終盤に巨大なサメに飲み込まれるが、マグロに助けてもらう。真面目に勉強し働くようになったピノッキオは、最後に夢に現れた妖精によって人間になる。(Wikipedia) 

f:id:shoyo3:20190525132032j:plain

https://www.sankei.com/photo/daily/news/170324/dly1703240023-n1.html

 

香取は、「教育が果たすべき役割」について述べている。

日本の公教育では、社会保障について、それがなぜ社会にとって必要欠くべからざるものであるのか、きちんと教えていない。もっと言えば、社会保障が拠って立っているこの国の社会の仕組みや価値観、理念、哲学といったものをきちんと教えていないので、社会保障を理解するための共通の認識があまり形成されていない、ということがある。

社会保障は、その国の社会の有り様によって制度の作り方が違ってくる。アメリカのような自己責任の社会では、医療保険も年金保険も基本はみんな民間で、市場取引で行われている。一方、日本やヨーロッパのような福祉国家と言われる国では、憲法生存権社会権基本的人権として規定され、その権利を保障するために政府が大きな役割を果たしている。

つまり、その国をつくっている根本の価値観や理念、哲学が分からなければ、社会保障の制度だけ教えても、その意味するところ、本質は理解できない。残念ながら日本の教育はそこのところをきちんと教えていないように思う。

社会保障先進国の北欧を見ると、社会科の教育のやり方が決定的に違う。スウェーデンがあれほどの強固な社会保障制度を作れたのはなぜか。なぜ国民は高い税負担に耐えているのか。どのように合意が得られているのか。多くの日本人は、医療や年金が手厚く保障されているからだと理解しているが、それだけではない。

スウェーデンのみならず、北欧国家はいずれも一般に思われているほど「優しい」社会ではない企業競争も厳しいし、効率性重視の非常にドライな社会である。…「高福祉」は北欧諸国の一面に過ぎない。

「社会の仕組みや価値観、理念、哲学」は、「道徳教育」に関連する。その内容については、様々な議論があるようだが、ここでは取り上げない。本書で、後で詳しく取り上げられるかどうか。

スウェーデンの学校では、社会保障が社会にとって必要不可欠である理由を、社会の成り立ちに遡って教えているという。

人は一人では生きていけない、人は誰でも「何者か」でありたい、意味のある人でありたい、社会というのはあなた自身のものでもあり、あなた自身のことであるということを教えています。

法律と権利、あなたと他者、あなたと家族、コミュニティと人々の役割、教育、子ども、結婚、離婚、障害者、老人など、身近なところから順々に社会の様々な姿を教えた後に、つまり、社会の全容を理解した上で、政治の仕組み、そして最後に社会保障について学ぶシステムになっています。それが、社会保障の重要性についての国民の合意形成の下地になっています

日本には残念ながらこういうしっかりした体系性のある教育がない。それがないから、社会保障についての国民理解も非常にふわふわしたもので、関心も希薄です。

私たちは、どれほど社会保障の重要性について理解しているだろう。社会保障を「損得計算」だけで考え、「合理的無知」を決め込んでいるのではなかろうか。もしそうならば、それは「公教育の欠陥」を意味しよう。その際、「特定の価値観の押し付け」になるのかどうかが議論の対象になる。

*1:具体的な数字は後で見ることになるが、例えば、医療・福祉関連の就業者数はおよそ200万人である。

*2:2016年、「保育園落ちた日本死ね」ブログ(https://anond.hatelabo.jp/20160215171759)が、大きな話題になったが、いまはどうなっているのだろうか。ここで、この問題をとりあげるつもりはないが、上野 泰也(みずほ証券チーフMエコノミスト)の「幼児教育・保育無償化」の落とし穴 という記事は参考になる。

*3:嘘をつくと鼻が伸びる。