浮動点から世界を見つめる (旧:気の向くままに)

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

処分/決定してよい・よくないの境界はどこにあるのか?

立岩真也『私的所有論』(20)

今回は、第4章 他者 第2節 境界 である。本節に入る前に、このブログでは省略した第1章(私的所有という主題)の一部を見ておこう。

自己決定と私的所有

近代的な意味での所有権は、単に所持する権利ではなく処分権であるから、その限りで、「所有」と、あることをどのように扱うかという「決定」とは同じものである。だから「所有権」と「決定権」とは同じである。そして、自己決定とは自己が決定することであり、私的所有とは私が所有することである。だから、この限りでは、自己決定(権)と私的所有(権)とは同じである。両者が一緒に論じられたことはあまりないが、論じられなければならないと思う。

所有権が処分権を意味する限りにおいて、「私的所有」と「自己決定」とは同じと考えてよいだろう*1

私は何を所有しているのか、即ち何に対して決定権があるのか。…何が「自分のもの」なのか。誰かが決定し、その各々は「自己」であるとして、ではその自己は何を決定するのか。私は、何を決定=所有するのかこの何かが決まっていなければ、「自己決定」とただ言っても何のことか、意味を持たない。…「自分のことは自分で決める」と言うが、その「自分のこと」とは何か。その範囲が問題なのであり、そしてなぜその範囲が自己の決定のもとに置かれるべきなのかが問題なのである。

私は何を決定できるのか、私は何を処分できるのか、こういったことをまともに考えもせず「自己決定」とか「自己責任」とかの言葉を振り回している人がいる。

 

<所有=処分に対する抵抗>

自己決定が認められていないもの(抵抗のあるもの)がある。例えば、臓器の売買は実際に行われているが、それが認められるべきだとする人は少ない。また代理出産の契約について、それを良しとする人がいる一方で、そうは思わない人たちもいる。市場の優位が語られるこの社会にあっても、実は、私的所有の原理によっては正当化されない事態がいくらでもある。

私的所有の原理(≒自分のものは自由に処分できる)によっては正当化されない原理がある。私の身体は私のものである。だから自殺はOK。私の子供は私のものである。だから子殺しはOK。奴隷は私のものである。だから殺そうが何をしようがOK。ところであなたは奴隷である。なぜなら私がそう決めたからである。…

もし、身体が自身のものであるなら、処分、譲渡も許容されることになる。合意がある以上問題はないというのが「自由主義」の主張である。…[しかし、身体が自身のものであっても]今まで障害を持つ人、病を得た人は、施設の中で、医療・理療の現場で、職員、専門家、等々によって自分たちの生き方を決められてきた。つまり自己決定を剥奪されてきた。

障害者や病人は自分の身体に対する決定権を持たない。何故か。

他方、自己決定と言って全てを済ませられない、肯定しきれないという感覚も確かにある。例えば、死に対する自己決定として主張される「安楽死」「尊厳死」に対して早くから疑念を発してきたのも障害を持つ人たちだった。ここには矛盾があるように見える。

自己決定(自由)を認めるなら、安楽死尊厳死は、当然に認められる。でもそれには反対するという。何故か。

 

<自己決定の外側、そして線引き問題>

自己決定の外側にどう対応するか、決定の不在をどう考えたらよいかという問いがある。例えば、生まれてくる人、生まれたばかりの人、頭がうまい具合に働かない人、働かなくなった人…。

「自己決定の外側」というと難しく聞こえるが、「自分で決定できない人がいる」、「自己決定できないことがある」という意味に理解しておこう。

決定という言葉を、「十分な」制御能力、知的能力といったごく狭い意味に解してきたことが問題なのかもしれない。だがなお、自己決定を見出せない場合は残る。決定能力を持たない存在のことを問題にする限りでは、それは例外的な少数者のことでしかないとも言われるかもしれない。だが第一に、今生きている誰もが少なくとも一時期、小さかった時、「決定主体」などではなかったのだから、実際には少しも少数者のことではない。自己決定が社会全体を覆いつくすことができないのは明白なことである。

第二に、それなりにいろいろと決定できる私たちであっても、私たちの前にあることは、決定できるようなことばかりだろうか。さらに、私のまわりにある事々、私のもとにある事々は、決定した方がよいようなことであるのか。

 何を決定するのか。どの範囲まで決定できるのか。決定のために要求される能力とは?

どのような存在を奪ってはならないか、侵襲してはならないか、どこまでを尊重されるべき範囲とするのか、その範囲、境界の問題。すべてを認めましょうと言うなら、それはその全てのものを無差別に扱うべきであることを示すことになるのではないか。このことを考えずに、所有・能力の問題を、私たちが生きている現実の生の中の問題として考えることもまたできない。

 何を処分してはならないのか。処分して良いものと、処分してはならないものの境界はどこにあるのか。「自由」の名のもとに、すべての物事に対する処分を認めるのか。

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http://mylifeinstep.com/drawing-lines-in-the-sand/

 

ここから、第4章 他者 第2節 境界 をみていく。

境界という問題

生きとし生けるものは等しく尊重されるべきであるといった主張がなされ、非所有の思想が語られるとしても、それをまじめに字義通りに受け取れば、それ自体では何かを決することができない。何をしてはならず何をしてよいのか、境界線を引くことができないのである。 

 処分しない・所有しない・生きとし生けるものは等しく尊重する、ということであれば、決定しないということである。何を決定するのかの境界線の問題は生じない。

立岩は、第1章の自己決定をめぐる問いは、①自己決定であればそれは全て許容されるのか、②自己決定能力を持っていることを成員の要件にしてよいのか、であったと述べている。

ここでの問題は、上のような疑問から発した私たちの考察が辿り着いたものが、当の「自己決定」をきれいさっぱり洗い流してしまっているのではないかということである。それで構わないという立場もあるかもしれない。だが私はそのようには思わない。これも最初に述べたように、本書の問いは、自己決定を認めながら、それを全ては許容できないという矛盾から発していたのである。

「自己決定」を洗い流すとはどういう意味か。所有しない・自己決定しない、と言う意味か。

 

境界線は引かれる

本章[第1節]で述べたのは、

α:世界を制御の対象とすることに対する抵抗感

だと言っても良い。だが、それは私たちの生の全域を覆えない不可能なことのように思われる。社会の全域がそのような関係によって覆われることがありうるのか。あるべきなのか。言ったことと矛盾するようだが、そうではないと、αを言うその同じ者が言う。領有しない、制御しない、そんなことはありえない。私たちは人が自分の思う通りに動いて欲しいと思う。それは必要不可欠な、少なくとも好都合なことだ。だから、こうした観念のもとにだけ私たちがいるなどと到底言えない。

 「私が制御するもの」(自己所有)を尊重する(価値を置く)。対するに「私が制御しないもの」(他者、自然、世界)を尊重する(享受する)。前節では、私が制御しないもの(他者)に対する話しがあった。私たちは、他者、自然、世界を尊重する。私たちは、他者、自然、世界を享受する。他者、自然、世界は、私が制御できない・制御しない・制御するべきでない存在として在る。他者、自然、世界を制御の対象とすることに対する抵抗感がある。

β:私は自らを自分の目的の実現のための手段として使う。また他者をそのようにして利用することもある。

このこと、人が自身の目的の実現のために人と関係しあうこと、手段的に関係しあうこと、そしてそのような場として構成される場の存在を否定できないと考える。例えば、大学では、学生は自分にとって必要な知識なり技術などを習得したいのであって、そのために不要な教師は必要ではないことを認めてしまう。

「他者を自分の目的の実現のための手段として使う」というと、反倫理的な・不埒な行いのように聞こえるが、学生が「学ぶ」例のみでなく、例えばレストランで食事をするというような日常的な行為であっても、「他者を自分の目的の実現のための手段として使う」と言えないことはない。違和感を覚えるのは、この表現が適切ではないからであろう。

αとβの両者は明らかに矛盾するように見える。しかしそうではないと思う。私たちは、確かに両方を区別しており、使い分けているのだと思う。そしてそれは否定されるべきでことではないと考える。

まず、βの領域を認めることは不可欠である。世界にある行為、行為によって生産される財の全てが他者によって奪われてならないものであるなら、交換も分配も行われることがない。 

実際問題として、他者、自然、世界をまったく制御の対象としないということはない。私たちが生きていくためには、何らかのかたちで、他者、自然、世界を制御しなければならない。

そこで、(α)制御しない、他者を尊重すると、(β)制御する、他者を利用する、の両立を考えなければならない。

そこで、何をその者のもとに残し、何を移動させることができるのかという問いが現れる。その基準は何なのか。そして、それは誰が決めるのか。

何を制御してもよく、何を制御してはならないのか。どのようなものであれば移動してもよいのか。その基準は何なのか。これが問題である。

*1:所有権…私は、所有権と処分権を同一視すべきではなく、所有権は「利用権(使用権)」と「処分権(譲渡権)」を含むものであり、両者は分割できるものと考える。近年ソフトウェアを中心としてサブスクリプション契約が増加しているが(office365はサブスクリプション契約である)、これは物品や土地等にも応用可能である。もちろん土地賃貸借契約等は昔からあるが、土地の処分権(譲渡権)を認めず、「公有」にして利用権のみ認めるという方式を考えてもよいだろう。なお、これは「国有化」を主張するものではない。