浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

ラブドールは、「人間」である。

山口裕之『ひとは生命をどのように理解してきたか』(10)

第1章 生命科学の急発展と「遺伝子」概念の揺らぎ の第4節は、ヒトゲノム・プロジェクト後10年のまとめであるが、これは省略して、最後の部分のみを引用しておく。

こうした生物学の爆発的な進展と新たな生命観の胎動という時代にあって、「生命とは何か」ということを改めて考え直したいというのが本書の目的である。科学的方法で生命を理解することはどこまで可能かという根本的な問題意識を念頭において考察を進めたい。生命の理解とは、我々が「自己」と「他者」をどう理解するか、どう理解すべきかということとも関わる哲学的な問題であり、「すべきか」を考えるという点で、「倫理的な問題」であるとも言える。最近は、生命に関わる倫理を扱う学問として「生命倫理学」が日本でも普及してきたが、他者理解の問題は、「自己決定権」というアメリカ的な価値観に回収されてしまいがちな昨今の生命倫理学よりもずっと根本的な「倫理」に触れる問題であると思う。

 

今回より、第2章 生物学の成立構造 に入る。本書はここから面白くなる(予感がしている)。第1節は、「物質と生命」という区分 である。

「昔は生物には通常の物質とは異なる特殊な生命原理が働いているなどと誤って考えられていたが、科学研究の結果そうした見方が払拭され、現在のように、物理と化学の言葉だけで生命について説明できるようになった」というのが、通俗的な生物学のストーリーとしてよく語られる。

「生物には通常の物質とは異なる特殊な生命原理が働いている」というのは生気論であるが、何の検討もなく、生気論を捨て去って良いものではない。生物学とは、物理学プラス化学のことだろうか。生命現象を物理・化学用語で説明することが生物学なのだろうか。

物理学は様々な科学の基礎であり、すべての自然現象は結局のところ物理学的な法則によって説明し尽される、あるいは説明し尽されるべきだという「物理学還元主義」(物理学帝国主義)の考えは根強い。

物理学還元主義者が他の学問を認めるのは、

本来は物理学的な法則から説明できるはずなのだが、それら巨視的なレベルの現象について物理学の第一原理から演繹するのは計算量の都合で事実上不可能なので、便宜的なものとして有用なのだ。

というものであろう。

この章では、生物学という学問分野を成立させている理論的(ないし理念的)前提や、その歴史的背景について考えていく。この章の標題の「成立構造」とは、そうした前提や歴史的背景のことを意味している。

私は「学問」という言い方があまり好きではない。大学における学者と学生をイメージしてしまう。学生は卒業してしまえば、学問とは関係なくなる。学問とは学者の専売特許である(というイメージ)。従い、ここでは「知の体系」と言い換えて理解したい。こう言い換えれば、「知の体系の前提や歴史的背景」(成立構造)にも興味を持てる。

学問分野の違いとは、世界に対する理解枠組みの違い、もう少し一般的な言い方をすれば、世界に対する関心の持ち方の違いである。同じものを観察したとしても、関心の持ちようによって、そこから読み取られることは様々であり得る。

そう、「世界に対する関心」なのである。ちょっと余談だが、受験生は、知識の詰め込みに忙しくて、「世界に対する関心」があるとは思えない。知識の詰め込みから解放されて、ただ(肩書を得るために)単位取得できればよいとばかりに遊び惚けている学生に「世界に対する関心」があるとは思えない。ど素人がこんなことを言うのはおこがましいのだが、大学院生や学者は専門分野を究めることに忙しく、他分野に目が向かない(つまりは、井蛙・夏虫・曲士)。我田引水に物事を解釈する。「(井の外の)世界に対する関心」があるとは思えない(言うまでもなく例外はある)。

山口は、リンゴの例をあげて、生物学者と物理学者とでは、同じリンゴを見ても、そこから同じことを読み取りはしないだろうと言っている。私なら、リンゴを見たらクオリアとか価格付けの話にもっていきそうである。リンゴ農家や料理研究家や詩人や画家はまた別の見方をするだろう。

科学の分野ごとの理解枠組みはそれぞれに、眼前の対象において取り上げるべき事柄と無視すべき些事とを区別する。生物学者の関心事は、生物の身体の様々な仕組みや働きなどである。物理学者の関心事はすべてのものの運動なので、地球であれリンゴであれ人間であれ、すべてのものについて、運動に関わる要素(質量や位置や相対速度など)だけが取り上げられる。物理学の法則がおよそすべてのものに当てはまるように思えるのは、およそすべてのものは運動という観点から捉えることができるからである

最後のアンダーラインを引いた部分、これが我田引水である。「科学」に限る必要はない。農家や料理研究家や詩人とて同じである。対象に関わる人にとっての「理解枠組み」がある。

物理学において始まった近代諸科学は、現象のカニズム(力学的な仕組み)を明らかにすることを主要な目的としている。現象をメカニズムという観点から理解しようとするなら、物理学的説明が有効性を発揮するのは当然であろう。しかし、そうだとしても、そもそも何が説明されなければならないかということを決めているのが理解枠組みである。リンゴのヘタの細胞死のメカニズムが物理学や化学によって説明できるとしても、そもそもなぜ細胞死について説明しなくてはならないのかということは、物理学や化学からは出てこない。物理や化学の視点からすれば、一連の物理化学的な現象をひとまとめにして「細胞死」という現象を設定するいわれはない。

何が説明されなければならないのか、なぜ細胞死が説明されなければならないのか、言い換えれば「問題意識」である。物理学や化学は、「細胞死」について知りたいという問題意識をたぶん持っていないだろう。

例えば細胞死のメカニズムについて物理化学的に説明できるかもしれないが、最終的には「運動」という観点から捉えきれないようなものを扱う科学(生物学や心理学など)には、どうしても物理学に還元できないような部分が残るであろう(生物学において残るのは「目的」や「意味」の概念であると私は考えている)。

「目的」や「意味」については後で説明があるだろう。興味深い。物理学や化学に、「目的」や「意味」の話は出てこない。

まとめるなら、諸科学の違いとは理解枠組みの違いであって、関心を共有しない科学分野は相互に還元不能な部分が残ってしまうのである。諸科学は、物理学を核とする入れ子関係にあるというわけではない。物理学が他の諸科学の基礎であり、最終的にすべての科学が物理学的な第一原理から演繹的に説明できるというような見方はあまりに短絡的だと言うべきだろう。

関心のありどころが異なっていたとしても、対話が成り立たないわけではない。対話を拒否しない、多様な観点を認めることが肝要だろう。

 

「物質と生命」という区分

科学的探究の出発点は、物や世界についてどのような関心を持つかというところにある。こうした関心は科学の前提であり、科学に先立つものであるがゆえに、それ自身は科学的に検証されるようなものではない。こうした「科学の成立に先立つ理解枠組み」こそが、科学の分野を区別している。

「科学」に限定する必要はない。物事や世界について関心を持つこと、このことが探求(知ること)の出発点である。しかし、「物事や世界について関心を持つこと」なく、ただ流されている人、ゲームに没頭している人(ゲーム依存症*1)を見るにつけ、いったい何がこのような事態をもたらしているのだろうかと思う。

物事や世界について関心を持っていても、「いい男/女と付き合いたい」とか、「金もうけしたい」とか、「有名になりたい」とか、「部課長になりたい」とかと思っている人は多い(ノーハウ本は売れる)。私は、いったい何がこのような事態をもたらしているのだろうかと思う。

物事や世界について関心を持っていても、自分の専門領域外のことには関心を持たない(持てない)人は多い(専門バカ)。私は、いったい何がこのような事態をもたらしているのだろうかと思う。

 

生物と無生物の違いは生物学の前提だと述べた*2が、もちろん生物学者もときに生物を定義しようとする。例えば、「自力で増殖するもの」とか「進化するもの」などのように。こうした定義が必要になるのは、生物なのか無生物なのかがすっきり分からないウィルス*3のような境界的な事例に出くわした時である。境界的な事例において明確な線引きをするために定義は役に立つ。

ウィルスは生物なのか、無生物なのか。ある教師が「ウィルスは生物ではない」と言ったとしよう。それは正しいようだ。それはその教師がハーバード大学卒だからでもなく美人だからでもない。それは、生物とは、「増殖すること」かつ「代謝能力があること」という定義に依拠しているからである。だとすると、A)代謝能力が無ければ、生物とは呼ばない(ことにしよう)、B)ウィルスには代謝能力がない(という事実が確認されている)、C)ゆえに、ウィルスは生物ではない、という論理である。明らかに、ここにはごまかしがある。C)は、「ゆえに、ウィルスは生物とは呼ばない」が正しい。「ウィルスは生物ではない」のではなく、「ウィルスは生物と呼ばないことにしたから、生物ではない」のである。だから、境界事例において、定義は線引きに役立つ。簡単に言えば、「そのように決めたから、そうなんだ」ということである。それが妥当かどうかは別問題である。

ところが、定義による線引きという方法は、一定の限界がある。生物について言うと、何をもって生物の定義とするかという点において、定義する者の無意識的な信念や恣意が入り込みうるからである。…[様々な生物は様々な性質を持っている]そうした様々な性質のうち、どれが定義として採用すべき「本質」なのかは必ずしも明らかではないどの性質が重要なのかは、結局のところ定義する側の関心や理解枠組みによって判断される。そしてこの判断は、純粋に客観的な判断というよりは、重要性という価値を判断する価値判断という側面が含みこまれてしまう。

定義とはこういうものだとよく理解しておきたい。何が「本質」か、何が「重要」かは、価値判断である。とはいえ、価値判断だから相対的であってよい、ということには必ずしもならない。なぜ「重要」と考えるかについての議論(対話)があってしかるべきである。

「すべての生物に共通する性質なら、生物の本質なのではないか。それを定義とすればよいではないか」と思うかも知れないが、すべての生物に共通する性質を決めるためには、それ以前に「すべての生物」の範囲を決めておかなくてはならない。定義によって境界事例を線引きしたいのに、定義を決めるためには境界事例がすでに線引きされていなくてはならないことになる。というわけで、定義を決める時に対象そのものの「本質」に依拠することは困難なので、結局のところ定義する人間の側の恣意が入り込みうる。というよりむしろ、定義が有効性を発揮するのは、定義する側の都合や目的によって対象を明確に切り分けるための手段としてある。法律的な場面で用いられるのが典型的であろう。

いま赤字にしたところが大事なところである。「定義する側の都合や目的によって、対象を明確に切り分けるための手段」としての定義。…ルールを制定/解釈するときに、用語の定義が曖昧で、「目的によって、対象を切り分ける」ことがよくある。

定義したとしても必ずしもうまく線引きが出来るとも限らない。例えば、生物とは「自力で増殖するもの」だというのはほとんど自明な定義のように思われるかもしれない。この定義さえあれば、他の生物の細胞内小器官を利用しないと増殖できないウィルスは生物ではないと言えるように思える。しかし、では他の動物を利用しないと増殖できない寄生虫は生物ではないのか。他の生物を食べないと生きていけない我々は、「自力」で生きていると言えるのか。

これは、生物学者でもない哲学者が些細なことにインネンをつけているというわけではなく、例えば「最小の生命」を設計しようとしたベンター*4も同様の問いに突き当たった。「最小の生命」をブドウ糖培地で育てるとするなら、そのゲノムにはブドウ糖代謝回路だけ書き込んでおけばよく、乳糖の代謝回路などは不要だが、逆にそれは乳糖培地で育てるつもりなら、むしろブドウ糖代謝回路の方が不要になる。「最小の生命」が何かということは、どういう環境でそれを育てるかということと密接に関わっている。生物は環境との相互作用の中で生きているのであって、「自力で」というのは程度の差に過ぎないということである。ならば、「自力」という概念をさらに細かく定義すればよいと思うかも知れないが、定義が細かくなればなるほど、技巧的で非現実的なものになっていく傾向がある。

生物の定義が、「増殖すること」と「代謝能力があること」にあるとすれば、ラブドールは、「生物」ではない、ましてや「人間」ではない。

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https://dot.asahi.com/print_image/index.html?photo=2016030300308_1

 

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 http://sirabee.com/2014/11/10/7264/

 

しかし、近年のロボット技術の進歩やAIロボットが話題になるご時世で、ラブドール(セックス・ロボット)を性機能のみではなく、パートナー・ロボット*5(より人間的であるために、老化・死をも組み込むことができるだろう)として新たな人間的関係性を考慮すべき段階にきている。人間の再定義が要請されていると言えるかもしれない。

*1:ゲーム依存症…WHO(世界保健機関)が2018年に6月18日に公表した ICD-11(国際疾病分類 第11版)では「物質使用症(障害)群または嗜癖行動症(障害)群 - 嗜癖行動症(障害)群」および「衝動制御症群」カテゴリにおいて「ゲーム症(障害)」が採用された(Wikipedia)。中高生のみならず、大学生や社会人でも、「ゲーム症(障害)」を疑わせる人を散見する。

*2:自らの研究対象が「生物」であるということはさしあたり不問の前提とされている。…生物と単なる物(無生物)の間の線引きについては、たいていの場合、日常的な直観を当てにしている。

*3:現在、ウィルスは「生物」とはみなされていない。自らでエネルギー生産が出来ない(代謝能力がない)からであるというのがその理由である。つまり、現在の生物学における標準的な「生物の定義」とは、「増殖すること」と「代謝能力があること」ということになっているわけである。

*4:2018/11/03 ポスト・ゲノム時代 合成生物学 人工生命 参照。

*5:堀内進之介(政治社会学者)、「セックスロボットとの「愛」は成立するか」参照。