浮動点から世界を見つめる (旧:気の向くままに)

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

「競争」は良いことである、という「4つの神話」

アルフィ・コーン『競争社会をこえて』(2)

今回は、第1章 「ナンバー・ワン」の強迫観念 の続きである。

人は何らかの行動をする場合に、明示的(意識的)でないにせよ、何らかの目標を持っている。「~のために~をする」というわけである。コーンはそのような目標を達成する方法として3つあげている。

 

目標達成の方法

  1. 競争による目標達成…他者と対立した働きかけを行うこと。
  2. 協力による目標達成…他者と共に働きかけを行うこと。
  3. 独立した目標達成…他者とは関わりなく働きかけを行うこと。

3つの方法があるといっても、全く自由に選択できるわけではなく、自分がどういう立場にあるかによって異なる。また目標がどのように設定されるのかも大きな問題である。このことに留意して読み進めよう。

コーンがどういう場面を想定しているか分からないが、学校・職場・スポーツを念頭に置いているようだ。

 

競争

コーンは競争について、次のような話をしている。

ある重量挙げの選手は、昨日よりも10ポンドも重いものを持ち上げることができる。これは、「自分自身との競争」と言われるが、こうした言い方は、あまり有効ではないし、誤りでもある。いま行っていることを、自分自身の前の記録と比較したり客観的な基準と比較してみるのは、競争の例にあたるとは決して言えないのだから、これらを混同すべきではない。競争というのは、キスするのと同じように、基本的には相互行為という意味合いを持った言葉なのであって、自分自身との競争までもそれに含めてしまうと、言葉の意味合いが拡がりすぎてしまい、有効ではなくなってしまう。更にまた、こうしたぞんざいな用い方は、競争が不可避なのか、それとも慈悲深いものなのかを議論するためには役立つこともある*1

「自分自身との競争」で検索すると、それが重要なことだとする内容のものが多く表示される。間違ったことを言っているわけではないが、コーンの言うように言葉の使い方が適切ではないだろう。言葉の意味合いを広げすぎてはいけない。

 

協力

コーンは協力について、次のように述べている。

この協力という言葉は、非競争的なだけでなく、目標を達成するために共に働きかけることを求める仕組みに関するものである。構造的な協力というのは、相手が成功した場合にのみ自分も成功できるのだから、相手の努力と自分の努力を調整しなければならないということを意味している。また、その逆も同じである。報酬は、集団で成し遂げられたものに基づいて得られるのである。従って、生徒たちが協力し合っている教室というのは、一緒に座り、互いに会話を交わし、ものを共有するだけではない。それは、課題をうまく成し遂げることができるかどうかは、それぞれの生徒にかかっているのであり、それぞれの生徒がほかの生徒たちにもうまくやって欲しいと望む動機を持っているということなのである。

「構造的な協力」という言葉は覚えていなくても良いだろうが、大事なことは、相手の努力と自分の努力とを「調整」しなければならないということである。単に、仕事を分担し、自分の担当分野をうまくやればよいというものではない。相手がうまくいってなければ、手助けするということである。報酬は個人ではなく、集団が獲得する。個人の貢献が無理矢理に測定されることはない。

このような協力とは理想論なのだろうか。例外的にしかみられないものなのだろうか。

協力について考える場合も、とかく協力という概念をあやふやな理想論と結びつけてしまったり、せいぜい、ごく僅かの状況においてのみ有効なだけだとみなしがちなのである。これは恐らく協力と利他主義とを混同することによってもたらされたものだろう。

確かに、利他主義ならば、理想論であり、例外的にしか見られないかもしれない。しかし協力は利他主義ではない、とコーンはいう。

競争の方が協力よりもうまくいきやすいのは、競争が「ナンバー・ワンになることを追い求める」傾向に陥りがちなのに対して、協力が何よりもまず互いに助け合うことを前提にしているとするのは、全く間違っている構造的な協力は、利己主義と利他主義というごくありふれた二分法を否定してしまう。この協力は、相手を助けることが、同時に自分自身をも助けることになるというように、状況設定を行ってくれるのである。 

構造的な協力(努力の調整、助け合い?)は、利己主義でも利他主義でもないというのは何となく分かる。しかし、上の文章はよく分からない。協力は、「互いに助け合う」ことを前提にしていないというのは、「前提」ではなく「互いに助け合う」こと、そのことを「協力」と呼ぶ、というのなら分る。また「相手を助けることが、同時に自分自身をも助けることになる」というのは、「自分を助けることにならないなら、相手を助けない」ということだろうから、これでは「利己主義」ではないかと思われる。

協力は、職場や学校において、競争によるよりも実務をより効果的に処理し(→第3章)、挑戦的なものだが、互いに競い合いをすることを求めない、楽しいゲームをつくり出す基盤としても役立つ(→第4章)。協力は、心理的な意味で健康をもたらし、互いに結びついていけるようにするものなのだとされる根拠も十分にある。

第3章、第4章において詳細に説明されるという。「健康」、「互いに結びつく」(共に生きる、コミュニティの一員となる)を価値理念として想定しているのかどうか。

 

競争と協力の共存

集団内の協力」と「集団間の競争」という組み合わせがある。

フットボールの選手は勝つために協力し、従業員は他の会社よりも高い利益を上げるために結束する。…現代の社会において、協力が、競争にとって役立つことがどんなに多いか、また全く協力が実現しないままに競争が行われることがどんなに多いかということに注目すべきだろう。

会社(営利企業)の場合が、典型的である。コンペティター(競合他社)との競争に打ち勝つために、社員のチームワークが求められる*2。問題は、「会社間の競争」にある。競合他社に打ち勝つということは、競合他社をつぶし、独占企業(あるいは寡占)を目指すということを意味しよう。国家の場合も似たようなところがあり、「国家間の競争」は熾烈である。他国を弱体化・支配するために、「集団内の協力」(愛国)が強調される。

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https://www.linkedin.com/pulse/love-thy-competitor-why-competition-can-good-thing-amit-ashkenazi

 

競争をめぐる4つの神話

我々は、競争するように訓練されてきただけでなく、競争が良いものであると信じ込まされてきた競争について訊ねられても、前から言われ続けてきたことを何気なく繰り返しているだけなのである。ほとんどの人々が学んできたような競争に賛成する見解は、残念ながらじっくりと検討して見る価値のあるものではない。競争に反対する人々は競争を恐れているだけだといった言い方に見られるように、レトリックの手法によるものだったり、あるいは競争を抗争と混同したり、競争を成功と混同してしまうような厳密さを欠いた概念にもたれかかっているのである。さらに、それは競争しようという衝動を単なる生存の欲求ででもあるかのように言いくるめることによって、自らを欺いてしまうこともある。もうずいぶん前のことだが、バートランド・ラッセルは、「生存のための闘争は、実は成功を求める(競争に基いた)闘争である。この闘争に加わるとき、人々が恐れるのは、翌朝の糧を得ることができないのではないかということではなく、隣人たちに自分が立派であることを示すことができないということなのだ」と指摘している。 

 現時点では、「競争」を称揚する考え方にも、否定する考え方にも、中立的な態度で、コーンの言い分を聞いてみることにしよう。

競争を指示する主張は、そのほとんどが誤った情報に基づいている。それは特に4つの神話を中心に形作られている。これら4つの神話は、これから展開していく4つの章のもとにもなっている。そこでよく知られている順番にみてみよう。

  1. 競争が人生において避けられない現実であり、「人間性」の一部をなしているというものである。こうした仮説は、偶然に(すなわち証拠も示されずに)かたちづくられるものだが、そうだからこそ、じっくりと考え抜いた上で答えを出さなければならないのである。その仮説が正しいものだとすれば、我々には「人間性」に関してなす術はないのだから、競争が望ましいものかどうかを議論しても的外れになってしまうだろう。
  2. 最善を尽くすように動機づけるものが競争なのだということ、もっと厳しい言い方をするなら、競争しなければ生産的ではなくなってしまうことになるだろうというものである。この仮説は、成績から資本主義に至るまであらゆることを説明するために用いられる。
  3. 競い合いは、楽しいひと時を過ごすうえで、唯一とは言えないまでも、最善の方法を提供してくれるものだと主張されることもある。遊びによって得られる楽しみがどんなものか、すべて競争というゲーム次第だと言われている。
  4. 競争が人格を形成するのであり、自身をつけるには絶好のものだというものである。この主張は、他のものほど頻繁に耳にすることはないが、おそらく経験的に得られる証拠と矛盾するだけでなく、競争によって心理的な影響を受ける我々の自身の経験と相いれないところがあるからだろう。 

 本章は、序章ともいうべきものである。1)は、第2章(「人間性」という神話)、2)は、第3章(協働の報酬)、3)は、第4章(スポーツ、遊び、娯楽について)、4)は、第5章(心理学的な考察)で詳述される*3。したがって、上記4つの神話について、ここではコメントしない。

 人間生活のすべての面において競争が存在することに目を向け、また教育学、社会心理学社会学精神分析学、レジャーの研究、進化生物学、文化人類学など様々の分野から得られた関連する証拠を再検討することによって、これから4つの神話それぞれが誤っていることを明らかにしていくつもりである。更に、哲学や文学からもかなり得るところがあるだろう。実際、競争のような問題について考察するためには、このような学際的なアプローチが必要だと思われる。ほとんどの研究者がそれぞれの専門分野に固執している状態では、様々な重要な問題を解明する効果を減じてしまいがちだからである。これらの問題は、否応なしに学問的な専門分野の境界を超えた広がりを持つものなのである。

主張には、証拠(根拠)が必要である。また狭い知見で物事を判断すべきではない。

 

自分たちの気力を振り絞って何とか他の人を打ち負かしたり、また自分が相手に打ち負かされてしまうのではないかと恐れたりする時、我々はどのようにして最善を尽くすことができるというのだろうか。果して、このような闘争は、楽しい時を過ごすための最良の方法だと言えるのだろうか。我々の自己評価が、自分が他の人よりもどれ位成功をおさめることができるのかによって決定されるのだとしたら、果して自己評価とは一体どのようなものなのだろうか。そして何よりも強烈なのは、この仕組みが人間関係に与える衝撃である。他の人々が敗北するのをこの目で見ようという構造的な動機が、我々の間に楔を打ち込み、敵意を生じさせずにはおかないのである。

「幸福」などという抽象的な言葉よりは、「楽しい時をすごす」という言葉遣いが好ましい。「働く」ことや、「努力」することが、相手を打ち負かすことに費やされるとしたら、それは「楽しい時をすごす」ことになるだろうか。弱肉強食の野蛮な人間性が思い浮かぶ。

 

競争を全面的に支持する立場と限定的に支持する立場

ふつう競争を全面的に支持する立場と限定的に支持する立場という二つに立場だけが認められている。…前者は保守的な立場であり、後者は自由主義的な立場と言えるだろう。保守主義者は、あらゆる競争を支持し、勝利することが唯一のものだとするロンバルディの格言*4に近づく場合も多いのである。保守主義者と比べれば、自由主義者は、より抑え気味であり、過度の競争は避けられるべきだということを認め、現代の文化が何を差し置いても競争を促していることを嘆いているというのが典型的な姿なのである。けれども、競争そのものは、「正しい視点から」行われていくならば、生産的で、楽しく、刺激的なものでありうるのだと主張するのである。

現在の用語でいえば、保守主義者=リバタリアニズム自由主義リベラリズムとなろうか。「過度の競争は避けられるべきだ」というのは正しいだろうか。それは「正しい視点」すなわち「過度でない競争」は、「生産的で、楽しく、刺激的なものでありうる」と主張するが、本当にそうだろうか。

後者は、本書で引用している人々のうち、競争に対して批判的な立場をとるほとんどの人々の見解である。だが、彼らは、自分たちの直観や、いくつかの場面においては自分たちのデータを検討し、論理的な結論を得ることにためらいを覚えているように思われる。というのも、競争など全く意味がないものだといった極端な立場をとると、全く信用を失ってしまうだろうと考えているからであり、従って問題は競争そのものにあるのではなく、競争のやり方競争の程度にあるだけなのだと述べるように強いられていると感じているからである。

「競争には全く意味がない」などと、何の根拠もなく結論だけを述べても説得力はない。現在の競争社会では、そのように主張することは、信用を失うだけでなく、危険思想の持ち主だと見做されるかもしれない。

このような穏健な態度をとるのは立場を考慮してのことだろうが、問題は競争そのものにある(そして、問題がどのようなものなのかは、ある行動における競争意識がどの程度のものなのかに直接に比例する)のだという私の確信は、競争が行われるそれぞれの領域を考察することによって強まっていった。競争に反対する私の主張はかなり厳しいものである。従って、競争がときには建設的な場合もありうるという効果を括弧つきで認めてしまうと、辻褄が合わなくなり、正当なものではないといった評価を受けてしまうのもやむを得ないだろう。

「問題は競争そのものにある」というコーンの主張は、次章以降に詳細に述べられるだろう。先入観を持たずに、コーンの言うことを聞いてみよう。 

*1:こうした「ぞんざいな用い方」が、「役立つこともある」というのは、「多義的な言葉は、議論をするのに役立つこともある」という意味だろうか。

*2:

どこの会社でも大同小異であるが、例えば、パナソニックの経営理念を見てみよう。

  • 綱領…産業人たるの本分に徹し社会生活の改善と向上を図り、世界文化の進展に寄与せんことを期す
  • 信条…向上発展は各員の和親協力を得るに非ざれば得難し、各員至誠を旨とし一致団結社務に服すること
  • 私たちの遵奉すべき精神…産業報国の精神、公明正大の精神、和親一致の精神、力闘向上の精神、礼節謙譲の精神、順応同化の精神、感謝報恩の精神。(https://www.panasonic.com/jp/corporate/management/philosophy.html

    *3:()内は各章の副題である。

    *4:

    S.C.相模原を応援するブログに、次のようなロンバルティの格言の紹介がある。「1960年代のアメリカンフットボールは、ロンバルディ率いるグリーンベイ・パッカーズの黄金時代でした。…[彼は]あらゆる方法で選手をモーティベートしました。家族を大事にし、全身全霊でフットボールに打ち込む。そして目標を達成するためには、あらゆる努力を惜しまない。その結果として、選手たちは自分の能力を限界まで自然と引き出すことができたのです。そうしたロンバルディの精神を表現した有名な格言があります。Winning isn’t everything,but wanting to win is.(勝利が全てなのではない。勝利したいと望むことこそが全てなのだ)。…この言葉は多くのアメリカの経営者が、ビジネスの現場で社員をモティベートする時今でもよく使われます。」

    こういった話を聞くと、多くの人は、「競争」(勝利すること)は素晴らしい、と思うのではなかろうか。この格言こそが問題なのである、というのがコーンの主張であろう。