神野直彦『財政学』(7)
今回は、第6章 財政のコントロール・システムとしての予算 の続きである。
財政民主主義の制度化:近代予算制度の形成
民主主義を前提にするならば、被支配者とか被統治者という言葉は、適切ではないように思う。組織(共同体)のメンバーと言うほうが良い。
財政民主主義とは、「組織(共同体)を構成するメンバーの代表で構成される議会が、予算を媒介にして、それを執行する行政府をコントロールする」と(ひとまず)理解しておきたい。
このようなコントロールが可能となるためには、2つの条件があるという。
- 議会は、被支配者[組織メンバー]の意思を反映した決定を行わなければならない。
- 議会の決定通りに、予算によって財政がコントロールされなければならない。
この2条件を充足するためには、財政をコントロールする予算手続きが制度化されている必要がある。
予算手続きが制度化されていたとしても、2条件が充足されているとは限らないだろう。予算手続きの具体的な内容が問題となる。
19世紀中頃のイギリスで、近代的予算の制度化がほぼ完成したというが、
- 被支配者[組織メンバー]の意思が、全面的に反映されていたわけではない。
- 近代市民社会では、「財産と教養のある市民」(被支配者の一部)が、議会に代表されていたにすぎない。
- しかし、「財産と教養のある市民」に限定されていたので、議会に反映される利害に同質性が存在し、利害調整が容易であった。
「財産と教養のある市民」とは、「富裕な商工業者や財産所有者」(ブルジョア)だから、「近代市民社会」とは、「富裕な商工業者や財産所有者が政治的な力を持った社会」と考えてよいだろう。
神野は、小見出しを「財政民主主義の制度化:近代予算制度の形成」としているが、これはおかしいのではないか。近代的予算の制度化が上記のような「近代市民社会」で完成したというのであれば、これは「財政民主主義の制度化」とは言えないのではないか。
議会によるコントロール機能の麻痺:現代予算制度 (2018/10/26)
現代予算制度は、2つの点において近代予算制度とは異なる。
- あらゆる被支配者[組織メンバー]が統治に参加する(普通選挙)大衆民主主義が成立した。
- 議会に代表される利害関係が多元化し、利害調整が困難になった。
「民主主義においては、利害調整が困難になる」というのは、極論だろう。もっと詳細な議論が必要だ。どういう問題に関して、利害調整が困難かということである。私は大部分の問題に関しては利害調整が可能だろうと考えている。実際に利害調整が難しいのは、民主主義だからではなく、「利害調整のための手続き」に欠陥があるからではないかと感じている。(とはいえ、利害調整のための手続に合意を得ることは難しい。)
サウジアラビアのイエメン封鎖で「餓死」する子供たち
https://courrier.jp/news/archives/142505/
得票最大化モデル
- 議会が利害対立の「場」になると、…政治的過程を、諸利害を調整する市場メカニズムと類似したものとして考える考え方が出てくる。
- 「得票最大化モデル」(ダウンズ)によると、予算は、権力・威信・所得の拡大という自己利益を動機として、政権獲得を競い合う政党によって決定される。つまり自己利益を最大化する競争の副産物として、予算決定が実現することになる。
- 「得票最大化モデル」によると、貨幣単位の限界的支出によって獲得できる限界得票が、租税の限界的徴収によって失われる限界得票と均衡する点で、予算規模が決まることになる。しかし、それは民主主義が「小さすぎる予算」を決定することを意味してしまう。というのも、有権者である選挙民が、租税負担を直接的に認識するのに対し、支出の利益は、非排除性のために低く認識してしまうからである。
「得票最大化モデル」については、次の説明が分かりやすいだろう。
このモデルは,経済合理性を備えた投票者と候補者 (政党) から成る。候補者は政治的支持の最大化,つまり得票最大化を目指し,有権者のほうは,候補者 (政党) 間の政策によって生じる効用の差を見て,投票を行なう。効用の差がないときには棄権するが,逆に最も高い効用を与える政党に投票するというモデル。(ブリタニカ国際大百科事典)
「得票最大化」を目指すとか、「効用の差」をみるとか、どれだけ現実的なのか分からないが、ナンセンスな(問題意識のない)抽象モデルのように思われる。経済合理性とは、候補者の自己利益(私利私欲)、有権者の自己利益(私利私欲)を意味するなら、「限界得票」云々の議論は、神野の言う「予算」とは全く異なるものとなろう。
予算論の課題
- 「財産と教養」のある階層の同質的利害であれば、全員一致のルールが可能であるとしても、分裂した多元的利害は結局、多数決原理によらざるを得ない。
- ところが、アローは、多数決原理に基づけば、社会の構成員の意思を反映しない、「投票のパラドックス」が生ずる可能性があることを、論理的に明らかにした。
- このように多数決原理には、内在的に「投票のパラドックス」があるという指摘にとどまらず、議会制民主主義の機能障害が公共選択理論*1によって、「市場の失敗」ならぬ「政府の失敗*2」として提起されていく。
- ブキャナンたちは、政治家も大衆も公共の利益を掲げながら、自己利益を追求するために、安易な経費拡大が生じて、財政赤字が慢性化すると主張する。市場メカニズムが「神の見えざる手」に導かれるとしたら、議会制民主主義に基づく政治過程は「悪魔の見えざる手」に導かれてしまうと指摘される。
公共選択理論とは、「議会制民主主義:政治家・大衆の自己利益追求 → 政府の失敗 → 財政赤字の慢性化」となるから、議会制民主主義はダメ、市場メカニズムに委ねるべき、という理論なのだろうか。
しかし、政治システムの目標は、社会を統合するという「統治」にある。政府は、公共選択理論のいうように、経済効率を追求しているわけではない。マスグレイブはパレート最適という経済学の最適基準が、「社会哲学」の領域にまで侵略することを、「経済学帝国主義」と捉え、財政学の視点から批判している。
多様化し複雑化している財政を、議会がコントロールする機能が衰退していることは間違いない。さりとて、「政府の失敗」を叫ぶブキャナンらの議論も、財政学の発展にとっては意味があるとは思えない。
公共選択論(脚注1参照)は、いまでも影響力のある議論なのか、それとも廃れてしまった議論なのか。
財政学では、被支配階級[組織メンバー]が財政をコントロールする手続として、予算について検討してきた。被支配者[組織メンバー]が予算という手続きで、財政をコントロールできていないとすれば、コントロールできる手続きを構想することが、財政学の任務となるであろう。
まずは、予算を、財政をコントロールする手続として理解しておくこと。
*1:公共選択論…主として経済学における学問分野の一領域で、民主制や官僚制の下における政治過程を、ミクロ経済学的なアプローチで解く学問である。政治学と経済学の橋渡し的な分野である。特に、公共選択論では政治家や官僚を、自分の利益のために戦略的に行動するプレーヤーと捉え、彼らの社会・政治システム下での戦略的依存関係を分析する学問分野である。(Wikipedia)
*2:政府の失敗…現実の政策決定は、ハーベイロードの前提のような理想的な状況と異なり、経済合理性に基づかない政策立案・施行システムが存在する場合には経済的損失をもたらす可能性がある。ジェームズ・M・ブキャナンは、拡張的な公共投資や減税が広く支持される一方で、公共サービスの削減や増税などの黒字財政が政治的に不人気な政策となることを指摘し、「民主政治の世界では、赤字予算に比べて黒字予算が生きのびる見込みは、はるかに少ない」と語っている。(Wikipedia)