浮動点から世界を見つめる (旧:気の向くままに)

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

生物は合目的的に設計された機械なのか?

山口裕之『ひとは生命をどのように理解してきたか』(11)

今回は、第2章 生物学の成立構造 第1節 「物質と生命」という区分 の続きである。

鉱物と動植物

常識的には、物質を生物と混同することはなく、直観的に区別することができる。現代では、生命は物質から(物理化学用語で)説明されるが、古代ギリシアの自然学では、逆に、物質が生命から説明されたという。

アリストテレスをはじめとする古代ギリシアの自然学理論は、物質から生命を説明しようというものであるよりは、物質の方を生物からの類推で説明しようとする色彩が強い。例えば、世界における諸事物の生成や運動の理論として有名な「可能態(デュナミス)から現実態(エネルゲイア)への展開」という考え方は、種子から成長する植物を一つの典型例とし、そこからの拡張であると思われる*1。…この世界は、可能態が現実態へと生成変化していく場なのであり、事物の生成や運動は可能態の現実化という一定の方向性を持った、目的論的なものなのである。彼の自然学理論が全体としてこのような強い目的論的性格を持っていることは、自然物の典型として生物を念頭に置いていることからの帰結であると思われる。こうした説明の方向は、物質によって生物を説明するという現在の方向とはまったく逆である。歴史的に見れば、物質の運動のほうも生命と負けず劣らずの謎だったのであり、それを説明するために、より身近なよく知っているものとして生物の運動が持ち出されたということであろう。

事物の生成や運動というとき、その事物としてどのようなものが考えられていたのか。岩石や海の波や風雨や雲や湖等々が考えられていたのか。これらの可能態とはどういうものか。どういう目的をもって生成、運動しているのか。私は、アリストテレスの話を聞いていないので分からないのだが、詳しく知りたいとも思わない。*2

リンネ(1707-78)の『自然の体系』…の冒頭では、「自然物は、鉱物界、植物界、動物界の三界に区分される。鉱物は成長する。植物は成長し、生きる。動物は成長し、生き、感覚を持つ」と定義されている。つまり、現代ならば無生物の典型と思われるような鉱物に、生物と連続的な位置が与えられていたのである*3

「鉱物は成長する」という考えは面白い。次のような記事があった。

地殻の下部やマントルの上部が一部溶けて、マグマが出来ます。マグマは地下や地球表面に出て、冷えて固まり火成岩を作ります。地表に出ている岩石は、風化や浸食作用で小さく壊され、風雨や川の水により運ばれ、海底などに堆積して、堆積岩のもとになります。地殻変動やマグマの熱で、変成岩になることもあります。上記の図のように岩石は、お互いに深い関係を持って、長い年月でいろいろな姿の岩石に移り変わりを繰り返しています。その意味では岩石は生きていると言えるのではないでしょうか。(岩石は生きている、http://www.ishiyasan.co.jp/ganseki/ikiteiru.html

私は、「成長する」とか、「生きている」とかという言い方ではなく、(環境との相互作用で)「変化する」といったほうが適切だろうと思う。

「生物学」という言葉を最初に使った者の一人であるラマルク(1744-1829)は、その著書『動物哲学』の中で、「動植物と鉱物の間には越えられない断絶がある」ということを繰り返し強調している。このことは、とりもなおさず、彼の時代には鉱物と動植物を連続的に捉える見方がまだまだ根強かったことを示しているだろう。そうした当時の常識に対して、ラマルクは、鉱物と動植物の間に断絶を設定することで、つまり鉱物という「単なる物質」との対比によって、動植物をひとまとめにした「生物」というものの範囲を輪郭づけたのであり、「生物学」は、そういうものを研究する分野として登場した、ということである。いわば、ここにおいて、現在の我々が常識的に前提としている「物質と生命」という対比が明確に登場したと言えるだろう。

現代の生物物理学が「生物の遺伝現象や神経,筋肉などの生理機能を物理学的手段により分子レベルの素過程にまで解析し,その機構を基本的,統一的に理解しようとする総合科学」(ブリタニカ国際大百科事典)だとするならば、「分子-原子-素粒子」なる用語は、「物質」との共通言語となる。とすれば鉱物と動植物の「断絶」を主張するのは、皮相な見方ということになるのではないか。

 

生物の合目的性

山口は、生物学という学問が持っている物理学や化学にはない特異性について、次のように述べている。

生物学の成立から現在に至るまで、…生物に関する最大の謎は、その行動や身体の構造の合目的性である。18世紀まではヨーロッパではまだまだキリスト教の創造説が主流であったので、動物の身体がかれらの習性や生活環境に対して実に適切に作られているのは、神が動物をそのようにデザインしたからだと考えられた。生物についての研究は、それをデザインした神の叡智を明らかにしたいという動機のもとで行われていた。それで、18世紀には『昆虫神学―昆虫に関わるすべてに神の完全無欠性が現れていることの証明』(レッサー)という書物が流行するなどした。

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ヒアリ環境省 (東京都環境局、https://gairaisyu.tokyo/species/danger_15.html

 

ヒアリは、「その習性や生活環境に対して実に適切に作られている。神がそのようにデザインしたからだ。神の完全無欠性が現れている」。それゆえ、ヒアリを殺傷することは、神を冒涜することである。

 

当時の自然哲学(自然研究)の基本的姿勢は、生物のみならず、自然現象を目的論的に理解しようとするものであった。目的論的な自然理解はアリストテレスに遡るが、特に17世紀末から18世紀にかけては自然現象に対する目的論的説明が幅を利かせ、「太陽が創造されたのは人間を照らすためである」といったたぐいの説明が横行した。…言うまでもなくこうした目的論的な理解は、18世紀いっぱいかかって自然研究から神学的要素が排除されていく中で否定されていくことになる。同時代のカントがすでに『判断力批判』(1790)の中で、自然についてのそうした目的論的理解を批判している。

19世紀以降、実証主義の哲学を背景とする近代科学において目的論的な説明は排除されることになり、科学は現象のメカニズムを機械論的に説明するものへと変質していった。というわけで、現代において科学者が公式の場で「太陽は人間を照らすために存在している」などと口走れば、自らの地位を危うくするであろうことは請け合いである。

自然現象の目的論的理解など過去の話で、問題にするようなものではない、と思えるのだが、どうもそうでもないらしい。現在でも(〇〇信者から)こういう類の話を聞くことがある。

ところが生物学においては、最新の研究においてさえ、生物は合目的的に設計された機械として語られている。DNAという物質を「遺伝子」と名づけ、その「機能」を論じるということからして明らかなように、分子生物学において、細胞内の分子の働きは、あからさまに目的論的な語彙で説明される。

しかし、言うまでもなく、生物といえども岩石や惑星と同様に自然物である。目的論的な理解は、通常は人工物についてしか妥当しない。通常は「目的」という概念は制作上の意図との関連でしか考えられないからである。17,18世紀に生物のみならず、自然現象全般に目的論的理解がなされたのは、それらがすべて神によって意図的に制作されたというキリスト教の信仰が背景にあったからだ。神なき現代において、自然物についてあからさまに目的論的な説明枠組みを当てはめ、生物を「機械」として理解することは、物理学や化学と対比すると独特である。勿論だからといって「生物学はいかがわしい」などと言うつもりはない。そういう形で整合的に説明できるような仕方で生命現象が推移していることも事実である。

「神」という主体を前提にしなければ、「目的」という概念はナンセンスだろう。そして神ならぬ人間に、神の目的がわかるはずもない。それを、わかったがごとくに(説教されて)信仰するのは、私には哀れにみえる。もちろん信仰を否定するつもりはない。だから私は問う。「では、あなたはこの世界をどのように生きていこうとしているのでしょうか。それは神の意向に沿うことなのでしょうか」と。

また現代において生物学的説明に「目的」が大々的に導入されていることは、自然選択という無目的な過程によって生物の合目的性を説明するダーウィンの進化理論によって正当化されている。序章で「1850年代に提唱されたダーウィンの進化理論が近年ますます重視されてきている」と述べたが、その主な理由はダーウィン進化論が生物における合目的性を説明してくれるからである。ダーウィン理論が、神による意図的な制作という信仰が果たしていた機能を引き受けているのだと言っても良い。

私はダーウィンの進化論がどういうものか詳しくは知らないのだが、山口の「ダーウィン進化論は、生物の合目的性を説明する、神による意図的な制作という信仰が果たしていた機能を引き受けている」という説明を受け入れておきたい。(私がこれまで読んだ進化論の一般向け解説書を読んだ限りでは、山口の説明を受け入れる)。

そもそも生物に関する最大の謎はその合目的性であり、生物学という科学分野が成立した時にその解明が期待されていたのもまたこの謎についてであるから、目的論的説明を抜きにした生物学は考えられないということなのだろう。先ほど「生物学にはどうしても物理学に還元できないような部分がのこるであろう」と述べたが、残る部分とは一つには「目的」の概念である。

生物学は「合目的性」を解明しようとしてきたのか。そして皮相な目的論的説明で満足してきたのだろうか。キリンの首はなぜ長いのかとか…。

生物は、外在的目的のために他者によって制作されるものではなく、目的と手段によって相互依存する諸部分が自己組織的に構成していくものなのである。生物を機械と類比して理解することは現在でも広く行われているが、カントはこの点において生物は機械と類比することは出来ないと主張する。機械は、人間が自分の目的(機械自身にとっては外在的な目的)のために制作するものであって、自己組織的にできあがるものではないからである。カントの全体論的な生命論は19世紀初頭の生物学に大きな影響を与えたが、その後、生物学は生命の全体性を捉えるよりは、それを細胞など構成要素へと分解して理解しようとする方向に向かった。そこでカント的な発想は現在の生物学の主流派の中ではあまり顧みられなくなっている。

「構成要素のみの理解で生命の全体性を捉えることは可能なのか」という問いは、いまでも有効な問いであろう。

現在の生物学において生物の合目的性を保証しているのは進化論であるが、近年の進化論学者であるドーキンスの主著のタイトルが『利己的な遺伝子』(1976)であることに象徴されるように、進化論的な見方において生物個体は「遺伝子の増殖を目的とした機械」とみなされている。例えば人間の身体は、遺伝子という我々自身でないものの増殖のために存在する機械だとみなされるわけである。進化論を持ち込むことで生命についての合目的性に基づく理解の正当性が保証されるとはいえ、その場合の「目的」とはその生命そのものに対して外在的な目的なのである。

生物個体を「遺伝子の増殖を目的とした機械」とみなすなどといいうことは、何の根拠もない言明のように思われる。それは、「神がそのように意図して作ったのである」という言明と同じである。

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The Selfish Gene/Marc Quinn(2007)http://marcquinn.com/artworks/single/the-selfish-gene1

 

(唐突な言い方になるが)神を排除すればそれで済むというものではない。物質や空間(そして時間)の謎は依然として残る。

*1:もう一つの典型例は、人工物の製作と言う場面である。材木や煉瓦という「可能的に家であるもの」から、「現実の家」が生成するのは、雨露をしのぐために(目的因)、大工が設計図を見ながら(作用因)、それら材料を組み合わせ(素材因)、家の構造を作る(形相因)からである。(注33)

*2:この記事を書いた後思ったのだが、道具や家や衣服等の人工物が念頭にあったのかもしれない。これなら目的因というのはわかる。だとすると、自然現象は?

*3:この「連続性」は進化論的な連続性ではなく、種差としての連続性である。この種差としての連続性を、時間的な変化の連続性と読み換えたのがラマルクである。彼の理論は「獲得形質の遺伝」を含んでいるとして現代では蛇蝎(だかつ)のように嫌われるが、彼は進化論思想の創始者としてもっと高く評価されるべきだろう。(注34)