浮動点から世界を見つめる

井蛙には以って海を語るべからず、夏虫には以て冰を語るべからず、曲士には以て道を語るべからず

クイ・ボーノ(cui bono?) 誰の利益になるのか?

アルフィ・コーン『競争社会をこえて』(3)

今回は、第2章 競争は避けられないものなのだろうか -「人間性」という神話 である。

第2章の構成は、次の通りである。あまり先走らないで、ゆっくりと見ていきたい。

 第1節 「人間性」というカードを切ること

 第2節 競争が避けられないものだという議論について

 第3節 現実の自然状態

 第4節 競争から学習するのか、それとも協力から学習するのか

 第5節 異文化における生活

 第6節 不可避性をめぐる心理学の議論

 

まず第1節である。

競争が望ましいものだと力説するのは、往々にして、競争が人間性の一部をなしていると主張するのと同じ人々である。つまり、我々が互いに全力を尽くそうとするのは、いいことであり、また避けられないものだというわけである。

「なぜ競争が望ましいのか?」と問うと、「我々が互いに全力を尽くそうとするのは、いいことだからである」と答える人がいる。言い換えれば、「互いに切磋琢磨すれば、よりよいものを得ることができるからである」というわけである。この点についての議論は措いておく。

「競争には望ましくない面もあるが、生物の本能として(遺伝子で決められているから)やむを得ない、避けられない」と言う人もいる。これは「競争は人間性の一部をなしている」、「競争は人間の本性である」とも言い換えられる。本書では、これからしばらく「人間性」について論じられる。ここで「人間性」とは、「人間の本性」の意味と解しておこう。

 

競争は人間性の一部をなしている = 競争は避けられないものである

人間性をめぐる議論には2通りある。

1.ある一定の人間集団の間の差異が固有のものである。*1

2.人間である限りそれぞれの特徴を備えているのは避けられないことである。 

コーンは2に焦点を合わせている。

こうした特徴は、学習されるのではなく、生まれながら備わっているものであり、「育成」されるのではなく、「本性」を為しているのだとされる。この論争は、かなり以前から続けられており、世代が代わっても、それぞれ生物学的な決定論を高く掲げる科学者たちが次々に登場してくる。…今日では、生物学的な決定論は、ある種の神経生理学者や精神医学者によって、またE.O.ウィルソン(1929-)門下の社会生物学者によって擁護されている。

生物学的な決定論には多くの批判があり、第2章(2)の注では、S.J.グールド*2の批判が紹介されている。

生物学的決定論に対する、すぐれた包括的な批判は、レヴォンティンの著書に収められている。…S.J.ゴールドもまた、次のような的を射た言い方をしている。「人間の脳がとても柔軟なために、攻撃的になったリ、穏健になったリ、優越感を持ったり、劣等感を持ったり、悪意を抱いたり、寛大になったりするのだということが分かっているにもかかわらず、どうして攻撃的な性格や優性や悪意といった特殊な遺伝子が重要だと考えるのだろうか。暴力、性差別、卑劣な行為すべてが、生物学的なものなのだ。何故なら、それらは可能な行動範囲の部分集合を表すものだからだ。だが、穏健さ、平等性、親切さも、まさに同じように生物学的なのである。そして、それらの影響が増大するのは、受け入れられる社会構造がもたらされたときだということが分るだろう。」

(A)暴力・差別・自己中心性などは、(B)穏健さ・平等性・親切さなどと同じく、「生物学的」である。だれしも(A)の性格を持ち、また(B)の性格を持つ。時と場所にもよる。どちらがどれだけ顕在化するかは、状況によるだろう。しかし、生物学的な決定論を言い立てる人は、(A)を批判される時、(A)が「人間の本性」であると言う。そして(A)は生物学的に(遺伝的に)決定されており、避けられないものであると言う。何故だろうか?

 

例えば、「人間性」が攻撃的なものであることを誰かが証明しようとしたとしよう。どのようにすれば、このことが証明されるのだろうか。このことを証明するためには、攻撃的な性格が誰にでも普遍的に備わっているものだという証拠を挙げる必要があるだろう。だが、それだけでは十分ではない。更に、十分に説明を尽くした後でも、素晴らしい信仰を持った人々が、攻撃的な性格をもたらすもとになるものを認めなかったり、ある既存の文化に実際に攻撃的な性格が存在するかどうかに同意しなかったりすることもありうるのである。

「攻撃的な性格が誰にでも普遍的に備わっている」ことを証明するにはどうすれば良いのだろうか。実例をどれだけ挙げようが、自省してみようが、「普遍的に」備わっているとは言えないだろう。遺伝子の存在は強力な証拠になるかもしれないが、仮にそのようなものがあったとして、その発現メカニズムは明らかになっているのだろうか。「穏健さ」の遺伝子の存在を考えたことがあるのだろうか。

 

我々としては、人間性についての主張がそれなりに役割を果たしていることを無視すべきではないだろう。確かに、それぞれの議論がどのような機能を果たしているのかを明らかにしてみたところで、経験に基づいた論争が解決されるわけではない。だが、誰の利益になるのか(クイ・ボーノ)と問いかけてみるのは、どんな議論の場合にもまったく有効なのである。

あるものを避けられないものだとすることがどのような影響を及ぼすのかという点をめぐる議論、特に人間性についての主張が、例によって、現状を維持するために持ち出される。そこで、生物学的な不回避性を唱えることに、変化を妨げようとする意図が込められているのかどうかが問題になるだろう。こうした立場が正しいことを裏付ける発見が行われたとしても、その政治的な意味合いのお陰で広く受け入れられていくのではないのかと疑問視されることもあるだろう。けれども、はっきりしているのは、現実に即して見ると、生物学的な不可避性を唱える見方にも意義があるということである。

人間性についての主張」、すなわち「(例えば、戦いは)人間の本性である、避けられない」との主張は、①現状を維持するために、意図的に主張する、あるいは、②どういう(悲惨な)結果になるのかを考えないで主張する、の2通りある。②は、①の人々によって強化される。

コーンは「はっきりしているのは、現実に即して見ると、生物学的な不可避性を唱える見方にも意義があるということである」と述べているが、これはどういう意味であるかわからない。どのような意義があるというのだろうか(反面教師的な意義?)。

クイ・ボーノという言葉は覚えておきたい。ラテン語cui est bono?  (to whom is it a benefit?) の意味らしい。現実のある問題に、ある提案がなされた場合、クイ・ボーノcui est bono?と問うてみることは有意義だろう。そしてその提案の根拠に、「人間性」(即ち「貪欲な人間性」)の前提が隠されていないかを見極めることである。

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http://stephenlaw.blogspot.com/2012/03/what-is-conservative-party-for-cui-bono.html

 

何の規制も受けない資本主義こそ「本来的なもの」であるといった考え方や、あるものが現在の姿を採っているのは元々持ち合わせていた構造に根差しているからだといった考え方をすることによって、誰が利益を得るのだろうか。それは明らかに現状が維持されているおかげで有利な立場にいる人々である。

「構造に根差している」などという「目くらまし語法」あるいは「幻惑話法*3にひっかからないための対策の一つは、クイ・ボーノの問いである。クイ・ボーノ、誰が利益を得るのか、それは「現状が維持されているおかげで有利な立場にいる人々」である。*4

人間性をめぐる議論は、変化を鈍らせるような影響を与えるために、また丸ごとすべてレトリックとして利用できるという利点があるために役に立っているのである。理想と改良に対しては、それらを達成することが不可能であり、「既存の」生活と全く相いれないという理由で、反対意見が表明される。「あなたの考えは魅力的なものですが、残念ながら貪欲で・攻撃的で・競争的で・偏狭で・怠惰で・頑固なのがまさに人間性というものなのです。ですから、あなたが考えていることが実現するチャンスはほとんどないでしょう」というように。

ここで「レトリック」とは、「巧みな表現あるいは美辞麗句を並べ立ててごまかす技巧」と考えてよい。「理想と改良」に対してパンチを与えることができる。決め台詞は「ですから、あなたが考えていることが実現するチャンスはほとんどないでしょう」である。

望ましくないものかどうか(価値の問題)については議論しても構わないが、不可能かどうか(事実の問題)については論じる必要などないというわけである。現実主義という名のもとに、数えきれないほどの発想と、その発想をもとにした創造者が排除されてきたのである

第1に、「どういう世界が望ましいのか」、「どうなりたいのか」を示せと迫る。その対案を示すと、ある程度の議論をする(認める)。通常、本質的な議論は収拾がつかないものである。時間切れになって、現状維持となる。仮に議論に負けそうになっても第2の手段がある。それが「人間性」の議論である。「理想はわかるが、現実的ではない」と却下(一蹴)するのである。

 

最後に、人間性の立場は、心理学的な理由から見ても心情に訴えかけるものがあるということを確認しておくべきだろう。自分がとった態度のせいで非難されると、「いいですか、私はこのようにして育てられたんですよ」などと言いたくなるものである。こうした答え方をした場合、文化的な相対主義には受け入れられることも時にはあるが、その根底には、「何の権利があって口出しをするのか」という意味合いが込められている。けれども、「そうでなければ、信じようなどとするものですか」という決定論に訴えかけることの方が多いのである。自分が変わることができないのなら、変化すべきだなどといくら言ってみたところで意味がないのである。批判をそらすために持ち出される口実の例には、事欠かない。それらは、行動(あるいは価値)の理由をこじつけて説明するのである。(p.24)

「私はこのようにして育てられた」…これは客観的な事柄に反論するよりはるかに難しい。下手すると、相手の人格否定になりかねない。「感情」が入り込んでいるので、相手の心情を理解しなければならない。

神経系の伝達装置とひろく結びついて、ほとんど無限と言ってもいいほどの範囲にわたって行動が行われ、これまで精神分析が行ってきたものに取って代わる口実を新たに提供してくれるのである。「かつては、『私が悪いんじゃない。親がそうするように教えたんだ』とよく言われたものだ。……いまなら、きっと『私のせいじゃない。私の脳の中の生化学物質が支障をきたしたせいなんだ』と言われるだろう」。もっとも、そのような理由付けをするよりも、ある人間がいま行っているように行動するなどとは予測できなかったのだと主張するほうが、はるかに心をひかれるものがある。

脳科学の進歩は、行動と脳内の生化学物質(脳の構造と機能)の関連をますます明らかにしていくだろう。それは「人間性」(生物学的決定論)の主張を支持するかもしれないし、支持しないかもしれない。例えば、性犯罪者の行動、戦争愛好的政治家(攻撃的性格の持ち主)の行動の生物学的証拠を明らかにするかもしれない。

自分の行動が正しいことを証明するように直接迫られない場合でも、自分たちの行為や態度が避けられないものかもしれないという思いがあると、心を惹かれるものなのである。どうみても危うい状態に置かれていない場合でも、自由が揺らいでしまう可能性はある。また、心理的な受け止め方からすれば、神学的な予定調和説に対応するのは、現代においては、科学的な決定論なのである。皮肉なことに、責任から解放されるというのは、自由になることだと考えられてしまいかねない。更にまた、現代のアメリカ人は、自分たちが価値判断できるかどうかに不安を抱いており、そのため、あるものが存在しているはずだといった議論に強く訴えかけたい気になってしまうこともありうるのである。従って、人間性をめぐる議論は、事実によって確証することは出来ないわけだが、実際のところいくつかの点では極めて魅力的なものなのである。このように人間性をめぐる議論を行っていけば、社会的な仕組みが強化され、論争を行う際にもレトリックとして利用できるという利点を与えてくれ、心理的な意味では、生活を送りやすくしてくれるのである。このようなことが、競争という特殊な問題を考えていくうえで考慮に値するものだということを十分に念頭に置くべきだろう。(pp.24-25)

このあたりの説明はやや難しいが、あまり詮索しないでおく。いずれ詳しい説明があるだろう。ただ、人間行動に関する科学理論なるものは要注意であることを心にとどめておこう。

*1:あるいは人種により異なった扱いを受けているとすれば、それは生物学的な機能によるものである。…進化生物学や遺伝子学の様々な発見によって、やむを得ないものであることが証明されている。という見方を採っている。

*2:断続平衡説で有名なスティーヴン・ジェイ・グールド(Stephen Jay Gould、1941- 2002)である。断続平衡説については、山口裕之『ひとは生命をどのように理解してきたか』の読書ノートで見ることになろう。

*3:「目くらまし語法」、「幻惑話法」は、私の造語である。

*4:念のため言っておけば、私は、「現状が維持されているおかげで有利な立場にいる人々」がすべて「悪人」であるなどとは言っていない。このあたりは、後でふれることになろう。