浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

セーフティネットの2つの意味

香取照幸『教養としての社会保障』(4)

今回は、第2章 基本哲学を知る 第3節 社会全体のリスク回避費用の最適化 と 第4節 セーフティネットの真の意味 である。

社会全体のリスク回避費用の最適化(第3節)

社会保障とは、それがあることによって、社会の構成員一人ひとりが、自分一人で、いわば裸で、リスクに備えて予防策を考えなければならないという社会から、リスク回避を、みんなで共同で行うことによって、一人ひとりにとっても社会全体にとっても、より少ないコストで、より摩擦を生じさせない形で安定を図ることができる仕掛けとして、先人が考えた知恵である。

これは前節で、「社会保障は、自助を共同化する仕組みである」であると言われていたことの繰り返しである。もっと端的にいえば「助け合いの仕組み」である。ほとんど誰もが、この仕組みを支持するだろう。

しかし次のように言われるとき、「ん?」と思う。

  1. 近代社会の理念は、個人の自由と基本的人権を普遍的な価値とするということだから、人間はみんな自由に行動し、自分の望む人生を選べるということになっている。
  2. それは尊いことだが、反対から見れば、一人ひとりが自分の責任で生きていかなくてはならない社会だということでもある。
  3. すると、病気や怪我、失業、被災といった、生きていく中で起こり得る事故については、必然的に、自分の責任で対処するのが基本ということになる。

まず1.は、事実問題として「自分の望む人生を選べる」かどうかは大いに疑問である。価値理念として(可能性として)「自分の望む人生を選べる」ということであろう。もっとも、「自分の望む人生」がどういうものかは曖昧模糊としているのだが…。

香取は、1.を反対から見れば、「一人ひとりが自分の責任で生きていかなくてはならない社会だ」と言っているが、本当にそうだろうか。私は彼/彼女と結婚することにした(自分の望む人生を選んだ)、それゆえ、自分の責任で生きていかなくてはならない(??)。私は〇〇党に投票した。それゆえ、自分の責任で生きていかなくてはならない(??)。私は、マルゲリ-タではなくペスカトーレを注文した。それゆえ、自分の責任で生きていかなくてはならない(??)。

もし「一人ひとりが自分の責任で生きていかなくてはならない社会」(2)だとしても、なぜ「病気や怪我、失業、被災といった、生きていく中で起こり得る事故については、必然的に、自分の責任で対処するのが基本」(3)になるのだろうか。失業を「事故」と呼ぶのはどうかと思うが、それはさておき、例えば「病気」になったら、医者に頼ってはいけないのだろうか。おそらくここで「自分の責任」というのは「自分のお金で、医者にかかれ」、「お金がなければ、医者にかかるな」ということなのだろう。これが基本??

私たちの社会は、「一人ひとりが自分の責任で生きていかなくてはならない社会」と「一人ひとりが自分の責任で生きていかなくてもよい社会」の二者択一なのではない。どちらか一方が「基本」というわけではないだろう。

 

繰り返しになるが、社会保障制度は、社会全体のリスクを最適化するために近代になって人間が考え、作ったものである。最も合理的に、個人のリスクと社会全体のリスクを同時に防御するために作ったのが社会保障制度である。

経済学的にいえば、社会保障所得再分配である。…現代社会においては、人間は一人ですべてができるわけではなくて、社会全体が様々な形でお互いにつながっていること、ネットワークが出来ていることで生きていくことができる。完全に自給自足の生活をしようとすれば今日食べるものにも、飲む水にすら困るのが現代社会である。社会というのは壮大な相互依存・役割分担と協働のネットワークによって形成されている。そこに目を向けなければ、社会保障は理解できない。情緒的な意味ではなく現実の問題として、社会とつながりを持っていなければ、人は一日たりとも生きていけない。だから、社会が健全で安定していることが、たくさん稼いでいる人にとっても非常に重要である。だからこの制度がある。社会保障という形で、所得を再分配することが社会全体の安定につながるから、この制度がある。そこが社会保障という制度を理解するのに最も重要なポイントである。社会保障は、単なる所得の再分配ではない。

「社会というのは壮大な相互依存・役割分担と協働のネットワークによって形成されている」、このことは、十分に認識しておかなければならない。自分一人で何かを為すことができる(そして成果は自分のもの)と思い込んでいる人が多すぎる*1

所得再分配は、社会全体が健全で安定するために必要である、というのが香取の主張であろう。私は、この主張はもう少し詳細に検討しなければならないと考えている。「所得再分配→社会全体の安定」というのであれば、疑問である。所得再分配しても、社会全体が安定するという保証はないだろう。そうではなく、「市場経済営利企業)を中心とする社会では、社会全体が健全で安定するためには、所得再分配政策が有効な方策の一つである」というべきではないかと思う。さらに言えば、市場経済営利企業)を中心とする社会も相対化して考えなければならないと思う。

 

セーフティネットの真の意味(第4節)

社会保障は、例えば大きな事故に見舞われたり、大病したり、失業した時に、あるいは高齢になって働けなくなった時に、家計や生活が破壊されないようにするためにあると、理解されている。これ、半分は正しいのだが、セーフティネットの意味はそれだけではない。

予めセーフティネットを張り巡らせておくことによって、落ちても怪我をしないだけでなく、怪我をしないから再び挑戦できる。一度失敗したらそれで終わりではない。貧困に陥ることを防ぐことができる

ネットが張り巡らせていることの意味は、怪我をしないためだけではない。セーフティネットがあることで、人間はリスクを冒すことができる。思い切って勝負ができる。空中ブランコ乗りは、思いっきり飛んで新しい技に挑戦できる。それで技量が上がっていく。だからお金が稼げる。それは経済活動も同じである。

いろいろ問題はあるにせよ、日本の社会保障制度はそれなりに機能しているといってよいと思う。では、このようなセーフティネットがあることで、人は「リスクを冒している」だろうか。「思い切って勝負している」だろうか。「技量が上がってお金を稼いでいる」だろうか。そのような人もいるかもしれない。しかし、そのような人は、ごく限られた一部の人だけだろう(大多数を占める給与収入者を想定して、直観的に言っているだけなのだが…)。そしてそのような人は、セーフティネットとはほとんど関係ないような気がする。

セーフティネットは、人々が自分の能力や可能性を最大限に発揮して自己実現をする、その挑戦を支えるものである。ネットがあって安心だから思い切って勝負ができる。失敗しそうなことにも果敢に挑んでいくことができる、というのが社会保障セーフティネットのもう一つの意味である社会保障は、社会の安定を支えるだけでなく、一人ひとりの自己実現を支え、それを通じて社会の活力や経済の発展を支えてもいるのである。この考え方の背景には、社会の進歩や発展の基盤には人間の営為がある、人間の自立と自己実現を支えるためには社会保障のような仕組みが必要なのだという哲学がある。

私は、香取の言う「セーフティネットのもう一つの意味」を全否定しているわけではない。…自己実現の挑戦を支えるセーフティネットと言うが、自己実現(という美しい言葉の内実がどのようなものなのか問題だが)にそのようなセーフティネットが必要なのかというのが私の疑問である。自己実現にそのようなセーフティネットを必要としないようにすることの方が重要なのではないか。このあたりは、具体的な事柄に即して考えなければならないだろう。

イノベーションを産み出すのは人間である。…誰かが発明したものを他の誰かがブラッシュアップして更に新しいものをつくる。それが積み重なっていって社会が進歩発展する。一人ひとりの人間が現状に甘んじて、昨日と同じ生活が出来ればいいと考えていたら社会は発展しない。みんなが新しいことに挑戦して次々と前へ進んでいく。人知ひとりの人間が能力を発揮する、ということの総和が社会の活力であり、その活力が社会を発展させる。

「誰かが発明したものを他の誰かがブラッシュアップして更に新しいものをつくる」、これはいい。でもそれは「社会の進歩発展」なのか。なぜ「社会の進歩発展」などと言わなければならないのか。

「一人ひとりの人間が現状に甘んじて、昨日と同じ生活が出来ればいいと考えていたら社会は発展しない」、そうだろうか。「一人ひとりの人間が現状を肯定して、昨日と同じ生活が出来ればいい」と考えることはダメなのだろうか。なぜ社会は発展しなければならないのか。なぜ「みんなが新しいことに挑戦して次々と前へ進んでいく」ことが必要/望ましいのか。「前に進んでいく」とはどういう意味なのか。

社会の構成員一人ひとりが自分のやりたいと思っていること、自分が挑戦したいと思っていることに挑戦できるようにすること、あるいは潜在的に持っている能力を発揮しやすい環境をつくること、今の言葉で言えば、人的資本を充実していくということが社会の発展の基本であって、社会保障はまさにそれを実現するための基盤となる仕組みである。社会保障を充実させようとする施策の背景には、社会保障は社会の発展の基盤である、という哲学、理念がある。

社会保障は社会の発展の基盤である」というのが香取の主張のようだが、私は「社会の発展」という抽象的なものに価値を置かない。社会を構成する構成員一人ひとりの具体的な在り方に価値を置く。

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http://factmyth.com/the-purpose-of-the-social-safety-net/

 

競争とはトーナメントではない

世の中が競争だとすれば、私たちは、人生で勝ったり負けたりを繰り返す。…そして人生が終わりに近づいた時に、人によっては俺の人生は7:3で勝ちだった、イマイチだったから4:6だったな、などと振り返ることになる。要点は、人生は現にリーグ戦だし、そうでなければならないということである、トーナメントであってはならない。

「人生は現にリーグ戦だし、そうでなければならない」というが、リーグ戦とかトーナメントかという以前に、「人生は、戦いである」という考え方そのものに賛成できない。なぜ、誰と戦うというのか。先ほど「社会というのは壮大な相互依存・役割分担と協働のネットワークによって形成されている」と言っていたではないか。

にもかかわらず、何となく、誰もが競争というのはトーナメントだと思い込んでいるところがある。トーナメントの本質は何かと言えば、最後に勝ち残るのは1人だけ、ということである。…競争が社会の活力であり発展の基盤だとすると、勝ち残った1人が総取り=キャッチオールになった瞬間に、その社会の発展は止まる。反トラスト法や独占禁止法などの法律があるのは、資本主義の発展を止めないためである。

「競争が社会の活力であり発展の基盤だとすると~」と言うが、私は、競争が社会の活力であり発展の基盤だとは思わない。このあたりは、アルフィ・コーン『競争社会を超えて』の読書ノートで詳しく考えていきたいと思っている。

自由競争というのはルールがない競争ではない。…誰もが挑戦できる土俵を作っておくことが、自由競争のルールである。社会保障の機能とは、…自由競争のルールと同じである。病気になったら人生お終い、働けなくなったらさようなら、後はずっと、どこかその辺りで誰かの世話になってひっそり生活する、というのではなくて、病気を治してまた働けるようにする、失敗しても再起しやすいようにする、社会に参加して何がしかの貢献をする。そのためにこそ社会保障はある。

「自由競争というのはルールがない競争ではない」、それはそうだと思う。

「誰もが挑戦できる土俵を作っておく」と言うが、誰もが挑戦できるはずがない。理不尽な命令に従っている者がどれほど多いことか。

「病気を治してまた働けるようにする、失敗しても再起しやすいようにする」ことは必要だろう。それは、「相互依存・役割分担と協働のネットワーク」の中で、居場所を確保するためである。

社会全体からみれば、落ちこぼれた人間をつくらず、誰もが常にプレーヤーとして社会の中に存在しているようにしていくということであり、一人ひとりの人間からすれば、自分の尊厳を守り希望を持って自立して生きていけるということでもある。そういう社会を作るのが社会保障の目的である。

社会から落ちこぼれた人をたくさんつくればつくるほど、支える側の負担は重く、コストは大きくなる。…だから、常に誰もがプレーヤーとして社会に参加して一定の役割を果たすことが、社会全体のコストを少なくし、社会を発展させる重要な鍵でもある。

現在の社会システムで「落ちこぼれた人間をつくらない」ことが可能だろうか。社会保障が「落ちこぼれた人間をつくらない」ようにすることなど可能だろうか。本当に「落ちこぼれた人間をつくらない」ことをめざすなら、社会保障に限定して考えるのではなく、もっと根本的に考えなければならないように思われる。

*1:「創作物」であっても、自分一人でつくりだすことはできない。